「アメリカ旅客鉄道史+α」トップ「アメリカ電気鉄道史」表紙>第U部:3.アメリカの電鉄黄金時代

3.アメリカの電鉄黄金時代 
−寝台車、軌道併用橋だったベイブリッジ、新幹線計画、複々線−


<インディアナポリス電鉄ターミナル:中西部のインターアーバン最大のターミナル>
"Street Railway Journal",vol.XXIV,1904,p868
 アメリカのインターアーバンは、戦前の日本の大手私鉄がやった事のほとんどを実現している。例外かつその存続に影響を与えたかもしれない要素はデパート付の駅ビルだろうか。しかし、巨大なターミナルビルはあったし、パーラーカー、寝台車など様々なサービスがあった事は確かである。ここでは、こうしたアメリカの電鉄黄金時代のトピックを取り扱う。

<目次>
3−1 車内サービス
3−2 寝台電車
3−3 特急電車、急行電車
3−4 新幹線計画
3−5 ベイブリッジ
3−6 複々線区間

「アメリカ電気鉄道史」表紙へ


3−1 車内サービス

 インターアーバンの車両はモノクラスで、座席は転換クロスシートであった。アメリカの蒸気鉄道の普通客車の標準が開放式(非コンパートメント)の転換クロス車であるから、これを倣ったものと思われる。
 ただ、最盛期のインターアーバンには100マイルを超える路線も多く、それなりに長時間走行する列車もあった事から、いくつかの付加サービスが行われている。若干の特別料金で利用できるパーラーカーという特別席を設ける会社はかなり存在した。パーラーカーは編成の最後尾に展望車として設けられることも多かった。往時の写真には着飾った男女が展望車から外を眺める姿があり、インターアーバンの繁栄がうかがえる。カリフォルニア州のサクラメントノーザン鉄道やサウスショアー線などの一部の会社では食堂車を連結するケースもあった。


3−2 寝台電車

 20世紀になり、インターアーバンの路線網が拡充してくると、寝台車運行を求める声が強くなってきた。こういう声に応えて、インターアーバンにおける寝台車サービスを行う(いわば、電鉄版プルマン社1)である。)事を目的としたホランドパレスカー社が登場した。ホランド社は、ハーラン・ホールディングワース社1b)
に2両の寝台車を発注、1903年完成するが、この車両、他に余り例を見ない電動車だったのである。
 この(おそらく)世界最初の寝台電車はどんなものであったのだろうか。インターアーバンの寝台車は結構注目されていたようで、当時の電鉄の業界誌である「ストリート・レイルウェイ・ジャーナル」誌には、詳しい説明が(写真を引用した記事の他、車体のモックアップ写真、寝台電車の必要性を訴える批評等が散見された)載っている。
 まず室内であるが、昼間は一人がけの回転クロスシートのパーラーカー、夜は、2段式の半個室寝台として利用できる構造になっていた。だいぶ手の込んだ作りである(1890年代まで小数ながら豪華な寝台車を提供していたモナーク社(こちらを参照)の寝台車は似たような構造である)。モーターは150馬力のものを4つ搭載していたそうで、当時の電車としてはかなり高出力である。走行をはじめてまもなく、インターアーバンとしては当時最速の時速75マイル(120キロ)を記録したという2)。


↑世界最初の電車寝台の写真 窓上部に「HOLLAND」 下部に「TEODORE」(愛称、プルマン寝台車
に倣って個々の車両に愛称をつけていた)とある。片運転台であるが単行仕様で、終端駅での方向転換
を基本としていた。また、原典の説明書きには「最初の寝台電車」とある(本当に最初かどうかは不明)。

↑車内 右は昼間、左は一部区画を寝台にしたもの。寝台車であるというだけではなくて、豪華さが売り物
であった。一人がけシート主体のパーラーカーは当時の各社で見られたが、これだけ重厚な座席は珍しい。

出典:"The Holland Sleeping Car","Street Railway Journal",Vol XXV,No1,Jan 2,1904,p36
 皮肉な事に、この時登場した2両の寝台電車はホランド社が倒産するまではオハイオ州デイトンとインディアナ州インディアナポリスを結ぶ昼行列車に特別車として投入されていた。異なる会社間を直通する比較的長距離の列車として用いられ、その意味では独立した車両会社の強みを発揮したのだが、夜行運用には就かなかったのである。ホランド社の倒産後、これらの車両は1907年にイリノイ電鉄(3の手にわたり、ここではじめて夜行運用に投入された。ただし、セントルイス〜スプリングフィールド〜デカチュアー間という、ゆっくり走っても8時間ぐらいしかかからない区間での使用で、スプリングフィールドでは時間調整を行っていたようである。
 イリノイ電鉄はセントルイス〜シカゴ間という長距離区間への電車寝台列車投入を計画していたらしくて、続いて5両を投入した。ただし、こちらは乗り心地の向上を図って、付随車として製造されたもので、室内も、上段寝台用に大きな窓が設けられていたこと以外は開放式プルマン寝台車の様式を踏襲したものである。イリノイ電鉄はシカゴ連絡は果せず、これらの車両はイリノイ電鉄の中距離運用に投入されることとなった。この段階で、ホランドの電車寝台は廃車になってしまった。イリノイ電鉄の寝台車運用は1940年ごろまで行われ、個室寝台のサービスなどもあったらしい。

(注:当初執筆段階で、「当初イリノイ中央鉄道で使用」と記しましたが、「イリノイ中央部で使用」の間違いでした。訂正します。2003年10月25日)


 
↑イリノイ電鉄(Illinois Traction)の寝台車(附随車)台車が重厚であることに注目
 寝台車は、他にイリノイ州のパブリックサービス社、オレゴン電気鉄道などにも存在した。両者の車両はイリノイ電鉄が製造したのと同種の付随車である。この頃のアメリカの寝台車はほとんどがプルマン車の経営で、これらの寝台車は数少ない鉄道会社直営の寝台車でもある。ちなみに、前者が117マイル、後者が143マイルと短距離運用に導入されていた。パブリックサービス社は途中駅で長時間停車して時間調整をしていたようである。

3−3 特急電車・急行電車

 蒸気鉄道に特急や急行があるように、インターアーバンにも特急電車(Limited)・急行電車(Express)が存在した。これらの列車は、特別な列車というよりは、速達サービスの提供手段で蒸気鉄道の同種の名称を与えられたもので、より利用しやすいものであった。特にパシフィック電鉄やノースショアー線の特急電車、急行電車は近郊サービスの速達化を図ったもので本数も多く、現在の日本の私鉄の特急電車、急行電車に近いものである。
 これらの名称の使い方は様々であったが、急行は町と町の間はノンストップ、特急は郡の中心都市などの主要の街以外はノンストップという感じである。アメリカの幹線鉄道にあたる蒸気鉄道では特急と急行で内容に大きな差が無く、もっぱら宣伝のために(日本のJRのように)特急だらけになる傾向があったが、インターアーバンでは特急よりも停車駅が多い列車を急行とし、両者を混在させるケースが存在した。もっとも蒸気鉄道に比べるとはるかに高頻度とはいえど、都市間連絡でそれほど本数が多かったわけではなく、全体の本数が2時間に1本程度で、朝夕の利用客の集中する時間にはこうした優等列車を運行、という形態をとったらしい。
 例外はシカゴのノースショアー線、オーロラ・エルジン線、サウスショアー線、東部のワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄、南カリフォルニアのパシフィック電鉄などで、前者4社は普通列車とは別に1時間に1〜2本は優等列車を走らせていたし、複々線区間のあったパシフィック電鉄は頻発である、ただし、都市近郊以外での各駅停車の本数はあまり多くなく、パシフィック電鉄の優等列車は近郊輸送という意味でその性格は異なるのものではある。
 気になるスピードであるが、残念ながらこちらの方では目覚しい記録は残っていない。併用軌道があったり、軌道自体が脆弱であったりしたので最高速度100キロ表定速度60キロの運行がせいぜいであった。中西部のインターアーバンでは大体表定速度50キロ程度が標準である。ただし、併用軌道を含む数値であり、専用軌道ではそこそこのスピードを出していた。例外はノースショアー線、サウスショアー線で、線路改良により120キロを超える最高速度、区間によっては平均速度90キロ以上になる高速運転を実現していた。
 優等列車は特別料金をとったが、スピードが出ない代わりに、料金もそれほど高くはなかったらしい。特にノースショアー線、サウスショアー線は喫茶スペースで軽食を取るときにシートチャージをとる程度であった。高速なのに料金が安いのは、現在の京阪神の新快速が特別料金をとらないのと同じで、大都市近郊で競争相手も多かったからである。

3−4 新幹線計画

 日本の戦前の電気鉄道全盛期、民間資本による東京〜大阪の電車新線計画(1907〜)が存在した。実は同様の計画がアメリカにもあったりする。日本の計画は、在来線との競合がどうとか、軍が電化に反対とかで立ち消えになってしまったが、アメリカでは実際に建設が始められた。シカゴ〜ニューヨーク間の高速路線を目指したシカゴ−ニューヨーク・エレクトリック・エア・ライン鉄道である。
 この会社は名前の通りシカゴとニューヨークを直線で結び、実距離短縮と最高速度90マイル(144キロ)、平均速度75マイル(120キロ)の高速運転により、蒸気鉄道に対する大幅なスピードアップを目指して設立された会社である。直線では途中の街に駅が設けられるかどうかが問題になるが、計画では、現在のイタリアのディレッシマ線や高速道路のような形でインターチェンジを設ける予定だったらしく、先にインディアナ州の片田舎で支線の工事が行われ、1907年に一部完成、ニューヨークとシカゴを大書きした2両の電車を走らせたという。本線の方も1907年に建設が始められ1911年に15マイルほどを完成させたが、この工事だけで莫大な費用がかかって会社は倒産してしまった。仮にもう少し上手い経営ができたとしても、ペンシルバニア州周辺の山岳地帯ではもっと建設費がかかっただろうし、蒸気鉄道以上の重厚な施設が必要になった時に蒸気鉄道にくらべて効率的な経営が出来たかどうかは不明である
4)
 また、既存の蒸気鉄道の電化、高速化という手も考えられるのだが、アメリカにおける電化区間は、ペンシルバニア鉄道のワシントン−ニューヨーク間や、ミルウォーキー鉄道、グレートノーザン鉄道の山岳区間に限られた(といっても3社合計で1000キロにはなるが)。ペンシルバニア鉄道の電化区間は、現在アムトラックの「アセラ」の走る高速運転区間で、電化は1934年と比較的遅い時期に行われている。当初から最高速度160キロのGG1が活躍していており、全盛期には食堂車付の客車特急が30分おきに運行されていた。ミルウォーキーの電化区間では、シカゴ〜シアトル・ポートランド間の特急、「オリンピアン・ハイアワッサ」が活躍していた。ここの列車運行本数はあまり多くなく、1961年に「オリンピアン・ハイアワッサ」が廃止されると旅客列車が走らない区間が出来てしまった。その後、ディーゼル機関車の発達によって電化設備は撤去されてしまっている(詳しくは
6.近郊電車線、都市高速鉄道、路面電車参照のこと)。

3−5 ベイブリッジ

 サンフランシスコとオークランドの間の海峡にはベイブリッジという巨大な橋がかかっている。この橋は、現在は片側5車線の自動車道として使われているが、かつては、瀬戸大橋のような軌道、道路併用橋だったのである。
 この橋を通ったのは、サクラメント・ノーザンという、北部カリフォルニアに路線網を展開した電鉄会社である。ただし、さすがに長大橋に1時間に1本もないインターアーバンだけの為に軌道を設けるわけにはいかず、橋梁部分は、サザンパシフィック鉄道の近郊電車と、キーシステム
5)というオークランドの市内電車との共用であった。
 

<サンフランシスコ湾を渡ってオークランドへ向かうベイブリッジと、ベイブリッジを使うキーシステムとインターアーバン鉄道の路線図。わかりにくいので近日中にオリジナルのマップを製作する予定>

<電車開業当初のベイブリッジの写真(Railway Gazette 1939より:瀬戸大橋じゃないです。)>
手前、道路から分岐してループ状になっているのはサンフランシスコ側の発着駅「トランスベイターミナル」。
対岸がオークランドである。
 この橋の開業は1936年、今までフェリー連絡だったのがサンフランシスコ直通になれば無敵のような気がする6)が、橋を鉄道が通過するようになったのは1939年のこと。この数年間で客はクルマに流れてしまい、1941年には早くも運行とりやめ。ほぼ時を同じくしてサザンパシフィック鉄道の近郊電化区間の旅客輸送もとりやめになってしまった(車両はパシフィック電鉄へ)。キーシステムのほうは1958年まで残り、なぜか未来的な風貌をした電車が色々な障害にも負けずに頑張っていた。最盛期には数分おきに電車が通過したという。なおこの橋の列車の制限通過速度は時速56キロ、ちょっと低すぎるような気もしないではない。
 鉄道が廃止になった後は道路になったのだが、鉄道の旅客が自動車に流れるのでは(自動車の人一人を輸送する時に占有する面積は、鉄道に比べてはるかに大きいので)、道路混雑は避けられない。実際、ベイブリッジの混雑が慢性化してしまって、1972年に巨額の建設費が投入されて海底トンネルを通過するBARTが新設された。ちなみにBARTの自慢は無人運転で、名実ともに未来的な鉄道
7)になったが、ベイブリッジも当時としてはハイテクで、架橋区間にはATCが設けられていたという8)

3−6 複々線区間

 イギリス、ロンドンの近郊鉄道には複々線区間がやたらと多い。蒸気鉄道で高頻度運行をするためには線路を増やすのが手っ取り早かったからである
9)し、優等列車と貨物列車の速度が違いすぎるので線路を分ける必要があったのである。アメリカの蒸気鉄道でも同じ理由で複々線区間が多い。
 しかし、高加速で機敏な電車運転が行われる場合、複々線区間の重要性は下がる。しかも、電車運転が始まる頃には都市化も進み、用地買収はかなり高額につくものとなっていた。電車専用の路線で複々線が必要になるのは、高度の高密度運転が必要になるときだけである。
 パシフィック電鉄はこうした高度の高密度運転が必要になった数少ないインターアーバンである。
 シカゴのノースショアー線の場合、接続するシカゴの高架鉄道が複々線となった。現在のこの区間は朝夕のピーク時のみ急行運転を行っているが、ノースショアー線と接続していた時代は、ノースショアー線直通列車が終日急行線を利用していたのである。乗りいれ先が複々線というのはサウスショアー線も同様で、こちらはイリノイ中央鉄道の近郊区間の複々線に乗り入れている。イリノイ中央鉄道の場合は、複々線の旅客線以外に複線の貨物線も持つという豪華な構成となっている。現代アメリカの貨物列車にはダイヤがないので、高密度の近郊列車運行のためには分離は不可欠なのであるが
(10
 この他に、インターアーバンではないがニューヨークとフィラデルフィアの地下鉄も複々線区間を持っている。パシフィック電鉄の複々線は後から(といっても開業数年後だが)増設されたものなのに対し、ニューヨークの地下鉄は開業当初から複々線であった。

目次に戻る
「アメリカ電気鉄道史」 表紙へ


<注釈>

1)プルマン社は、当時のアメリカで個々の鉄道会社とは別個に寝台と食堂、パーラーカーなどの車両とサービスの提供を行っていた会社。ヨーロッパで事業を展開した同様の会社にワゴン・リーという会社がある。
1b)ハーラン・ホールディングワース社は、プルマン車以外の寝台会社向け寝台車の製作や、ナローゲージ用客車の製造で有名なメーカーである。幌内鉄道開業時に導入され、現在交通博物館で保存されている「開拓使」号や(開拓使号は窓配置などを見る限り当時の同社のナローゲージ用車両の標準形であるが・・・)官鉄が新橋〜神戸間の夜行列車に連結した輸入個室寝台車4両のうち2両はこの会社の製造である。19世紀中頃から1940年代まで車両製作を行っていた。
2)この説明を書くのに利用した参考書の一つ、『アメリカの電気鉄道』という本では、ダイヤについては詳しく書いているのに、この車両が電動車であることについては『(後の付随車として製造されたイリノイ電鉄の寝台車の説明のところで)これらの車両はホランドの電動車より静粛になるであろうという期待から付随車として製造された。』という間接的な説明があるだけである。この本が書かれた1963年には日本の国鉄581・583系はまだ登場しておらず、電動車の寝台の数少ない事例だというのに・・・。「アメリカの電気鉄道」は経済史の視点から書かれたもので、趣味人向けでないのは勿論、車両工学の分野からもやや離れているので、しかたがないといえばしかたがない。関係するかどうかはわからないが、アメリカでは、ディーゼル機関車牽引の流線型の高速列車と先頭車にエンジンを内蔵した動力集中式の気動車列車の区別にもそれほどこだわらない(床下動力のRDCという短距離列車用のディーゼルカーが流行ったが)。バーリントン鉄道のゼファーシリーズやユニオンパシフィックのシティシリーズの気動車編成は長大化するに従い先頭のエンジンルームが本格化し、機関車と変わらないものになる。最終的には専用機関車と客車による機関車牽引列車に置き換わってしまった。また当初から機関車牽引で登場したサンタフェ鉄道の「スーパーチーフ」もこうした列車と同列にあつかわれている。
 ちなみに、この電車はいくつかの点で日本の国鉄581・583系に類似している。最高速度、および昼夜の居住性向上に努めた点は同じであるし、581系の計画段階で存在したA寝台は、昼間は回転クロス、夜は個室寝台という設計であったという。戦前から活躍していた古株の電車関係の車両技術者ならアメリカの業界誌ぐらいは読んでいただろうから、この車両を参考にしていても不思議はない。ちなみに、このアメリカの寝台電車は日本の一般世間ではほとんど知られていないが、60年代か70年代の鉄道ピクトリアルの何処かに小さな記事で載っていたような気がする。国鉄581系は厳密には「世界最初の電車寝台」ではないのだが、国鉄はそう宣伝していたし、世界最初の「実用的な/本格的な/交直流両用の」電車寝台であることは確かである。
3)イリノイ電鉄(Illinois traction Conpany イリノイ・ターミナルIllinois Terminal Railroadという名前の方が有名かもしれない )は面白い会社である、通勤輸送はセントルイス周辺で一部行っていただけであったが、貨物事業で成功したために、1956年の廃止まで中距離(200〜300キロ)の都市間電車として活躍できたのである。オハイオ州やインディアナ州のインターアーバンは単行での運行が主であったが、この会社は2〜3両編成での運行を盛んに行い、食堂車やパーラーカーのサービスもあった。連結両数は違うが1970年代の東北線や北陸線、九州各線の特急列車をイメージするといいのかもしれない。
4)全く同じ事が日本の計画にも言える。戦前以上の経済水準に回復した1960年代の国鉄をもってしてなお、世界銀行の融資が必要だった(資金力そのものでは不要だったかもしれないが、計画の正統性、すなわち建設に必要な資金をつぎ込む事を周囲に納得させるためには必要だった)新幹線建設が戦前の民間資本に可能であったかどうかは謎である(政府の規制のせいか、初期の電鉄技術者である藤岡市助らの尽力があったせいか、日本の電気鉄道の規格は完成されたものであったから、戦前でも上手くやれた可能性はあるが)。
 この後、アメリカでは、1930年代に高速ディーゼルカーによる都市間高速列車が流行した。高速ディーゼルカーとこれに対抗するために設定された高性能蒸気機関車による客車列車によってアメリカ全土で表定速度100キロ前後の高速列車網が実現した。1950年前後にはディーゼル化が進み速度におけるアメリカの鉄道黄金時代を迎えることになった。
 現代のアメリカでは、北東回廊で高速運転が行われている他、中西部での在来線の高速化とカリフォルニア州高速鉄道の計画というのが存在する。
 かつてインターアーバンが活躍した中西部には、高規格のもと蒸気運転、現ディーゼル機関車運転の在来線が多数存在する。そこで、これらの路線の最高速度を時速110マイル(176キロ)まで高め、中距離都市間輸送の利便性を高めようというのが中西部の高速鉄道計画である。予算(約5000億円)や最高速度を見る限り、デンマーク国鉄で活躍しているIC3のような高性能ディーゼルカーを導入して高速、およびフリークエントサービスを行うらしい、電車でない事と元蒸気鉄道の路線を使うこと以外はインターアーバンの発想に近いものがある。
 また、サンフランシスコ周辺−シリコンバレー−ロサンゼルス間の人の移動が盛んなカリフォルニア州ではこの区間に高速鉄道を新設すべく、準備を進めている。こちらの方は距離は短いものの、予算は日本円にして一兆円を超える大プロジェクトである。速度も300キロ以上での運行を想定していて、完成するとロサンゼルス〜サンフランシスコが2時間40分で結ばれるという。
5)キーシステムとは近未来的なネーミングであるが、別に重要(キー)な鉄道システムであるというわけではなく、路線を図にすると鍵の形になるからという事らしい。この会社は本当にGMの敵対的買収にあったとの噂もある。廃止以前に、サンフランシスコ湾を渡る高速鉄道の必要性については結論が出ていたらしいから、キーシステムの廃止は変な感じもある。最高速度が関係したのだろうか。
6)本当に「気がする」なのである。フェリー連絡であれば、クルマ利用でも電車利用でもフェリー、フェリー乗り場に駐車場がなければ、高い金を払って車両航送をする必要があり、電車利用にも分がある。ところが、(クルマ優位の時期が数年間続いた事に加え)、クルマで直通出来るようになってしまえば、なんだかんだ言ってもサンフランシスコ側にも駐車スペースはあるので自動車利用者が増えてしまうのである。この点、馬鹿高い通行料を払わなくてはいけなかった瀬戸大橋とは異なる結果が出た。
7)BARTは自動車利用者を呼びこむために、高速運転と共に、車内を絨毯敷きにしたりパークアンドライド駐車場を設けるなど工夫をしていて、それはそれなりに成功しているのだが・・・。無人運転は機器の故障で衝突事故をよく起こしたというし、駐車場に綺麗な車をおいておくといたずらされたり、車内では防犯チェックの警備員を避けながら物乞いがうろついているという話もあったりする。誰でも使えるような公共交通を作るのは本当に難しい。
8)機芸出版社「トラクション・ブック」による。
9)(本文にあんまり関係ない話)蒸気列車は加速が悪いために、運転間隔を空ける必要があった。加速が0.5キロ/秒^2なら、ホームを離れるだけで1分ぐらいかかってしまう。加速を向上させる一番標準的な方法は電化であるが、高加速の蒸気機関車を導入しても同じ効果が得られる。20世紀のはじめのイギリスのグレートイースタン鉄道は、電車による高速運転で客を奪ったチューブに対抗するために、高加速の蒸気機関車を試作した。本来なら電化がいいのだが、資金がなかったのである。試作された機関車は、動輪5軸、3シリンダー、試験走行では満員の通勤列車に相当するウェイトを乗せた18両の客車を牽引して48キロまで30秒という加速を実現した。これは当時の電車列車の加速を上回ると一説では言われているし、1990年代中頃の房総ローカル専用113系の加速(2M2Tの方、地下鉄線の急勾配対応があるとはいえ、快速専用の113系と大差があるわけではないのに性能は落として使われていた、いわゆる限流値を低く設定し、カム軸の回転速度を抑えていたのである)に匹敵する。しかし、動輪5軸の蒸気機関車では線路の負担が大きい。これに耐え得る軌道強化は電化と同じ位の費用がかかるという事でこの計画は取りやめとなってしまった。この話は、日本の国鉄中央線に投入された101系電車が地上設備未整備の為に本来の実力を発揮できなかったという話に似ていて面白い。
 車両側の改良が行えなかったこの会社は、ターミナルのボトルネックに着目した。増発の制約は終端駅の配線にも関係するのである。メインターミナルのリバプールストリートの配線が成功して会社は最終的には増発を実現したという。
10)しかし、イギリスやアメリカ(フランス・ドイツも多いところは多いが)のやたらと存在する複々線区間は、高密度運転を行う複線区間で緩急結合運転を行おうという発想がなかったから建設された、という解釈も出来る。シカゴのオーロラ・エルジン線などは高密度の複線インターアーバンだが、緩急結合を行わず、運転間隔の調整(ラッシュ時の急行電車は普通列車が出発する直前に出発している)などで対処している。(例外はパシフィック電鉄で、ビーチラインと呼ばれる西部地区の複線区間 ヒル・ストリート〜ヴィンヤード間 では待避線が日常的に使われたが、普通から優等列車への乗り換えは出来なかったようである)蒸気鉄道での各駅停車の先行列車退避は行われているようだが、これはおそらく相当の退避時間を持って行われているものと考えられる。初期の京阪や阪神がいきなり緩急結合をおこなわず(有名な話なのでここで書く必要もないが、京阪は最初の急行列車を最終の各駅停車の1時間後の深夜0時30分として安全を図ったという話があり、阪急では全線を数区間に分け、急行運転区間と各駅停車区間を交互に設ける千鳥足運転を行った。)、変則的な方法で急行運転を実現したのもそのせいかもしれない。

掲示板はこちら(ご意見、感想など書き込んで下さい)/メールでの連絡はこちら

「アメリカ旅客鉄道史+α」トップ「アメリカ電気鉄道史」表紙>第U部:3.アメリカの電鉄黄金時代


目次に戻る
「アメリカ電気鉄道史」 表紙へ

<ページの履歴(著者備忘メモ)>
2003年1月16日作成
     2月15日更新
     10月25日、12月9日(それぞれ電車寝台の項)加筆
2004年1月15日書式改訂、ベイブリッジ、インディアナポリスターミナルの写真追加
2006年4月3日 章番号とリンクを変更
2009年3月21日 章番号変更(6章⇒3章)