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2.電気鉄道のはじまり
   −蓄電池車から本格的市街電車まで−
1885年のニューヨーク9番街高架鉄道の試験電化(レオ・ダフトの第三軌条+機関車方式)
9番街高架鉄道は電気運転の実験場の様相を呈していた
(ラッシュ時間外に中線が試験線として使えた事や電化が急務だった事が関連していると考えられる)
出典:Electrical World 1887,p81

<目次>
2−1 電気鉄道ことはじめ 蓄電池車両の時代
2−2 電気鉄道のはじまり ジーメンスの電気鉄道
2−3 アメリカでの電気鉄道への挑戦
2−4 吊り掛け駆動の発明と本格的な電車の普及


2−1.電気鉄道ことはじめ 蓄電池車両の時代

 発明、というとある種の冒険家の偉業のような感がある。無邪気な発明家の神秘的なひらめきが、凡人はもとより、頭でっかちな秀才技術者や学者には生み出せないようなものを作り出したように思えてしまうのであるが、電気鉄道に関しては、実のところ、秀才技術者や学者の試行努力の産物であったというのが真相のようである。おまけに、彼らは商売っ気も強かった。自ら開発したものが売れなければ、素晴らしい発明も広まらず、結局有益な発明品も世の中の役に立たないという事を良く知っていたのだ。
 もちろんこの話には例外もある。トマス・エジソン(1847〜1931)の逸話はその代表的な事例だろう。もっとも、エジソンのメンロ・パークの研究所に関わった、フランク・J・スプレイグ(1857〜1934)は発明家にして経営者、そして秘書のサミュエル・インスル(1859〜1938)は超越した経営手腕を持っていた。エジソンのような人物が技術者と実業家の集団の触媒として働く事で、もしかしたらテクノクラート集団に魂が吹き込まれたのかもしれない。一定の科学的知見に基づいたテクノクラート集団が関わっていたおかげで、電気技術の進展は時にIT革命に匹敵するほどの高速度で進んだ。

 さて、エジソンはアメリカにおける電気鉄道の実用化のキーパーソンであるが、電気鉄道の研究自体は彼の数世代前にさかのぼる事ができる。モーターの発明は1830年代で、アメリカのトマス・ダヴェンポート(1802〜1852)という人物が、実用になりそうなモーターを開発したのは1834年である。電気エネルギーが力学的エネルギーに変換される事が変換されてからわずか10年の話である、ダヴェンポートは鍛冶屋で、初頭教育しか受けられなかったが、独学で相当の知識を得ていたのである。ダヴェンポートは、モーターの応用例を考えたが、これがなんと模型鉄道用だったのである。もっとも、蒸気機関車ですら試行錯誤が続いていた時代、この電車と線路の組合わせは写真で見る限り何が何だか分からない形状のものになっているのも事実であるが。

http://chem.ch.huji.ac.il/~eugeniik/history/davenport.html
ダヴェンポートの伝記(電気列車模型の写真もある)


 本線上でも何とか運用可能な電気機関車を試作したのはイギリスのロバート・ダヴィッドソン(1804〜1894)である。ダヴェンポートにエジソン的な要素があるとすれば、ダヴィッドソンは学者・技術者肌の人物で、スコットランドの大学で学び研究者として活躍していた。彼は諸研究を参考に独自のモーターを開発し、さらに1842年に本線走行可能な電気機関車を開発したのである。この機関車は時速6キロで走行する事ができた。
 残念ながら、ダヴェンポートの機関車もダヴィッドソンの機関車も実用化はされなかった。電気を得るには化学電池しかない時代。運行コストは蒸気の40倍もしたという。運行コストが高くても、蒸気機関車よりも強力であれば良かったのだが、電池式の機関車では非力は否めない。火が使えない化学工場などの用途では?ということになるが、これも劇物の電池に火花を出すモーターの組み合わせと言う危険物の塊みたいな機関車では駄目で、馬力や無火機関車のほうが役にたった。というわけで、電気鉄道のアイディアはしばらくお蔵入りになった。
 鉄道用には電気機関車は不要と言う事で話は片付いたが、そうは済まない用途があった。電灯である。エジソンのフィラメント式電球の発明は1879年の事であったが、その前身たるアーク灯はデービィ(1778〜1829)により1809年には実験が行われており、1830年代には街灯として実用的なものになっていた。アーク灯は既に実用化されていたガス等やオイルランプに比べ明るく、灯台用の明かりとしては特に有利であったという。しかし、後の電灯に比べても消費電力が多く、電車ほどではないにしろ、安価で大容量な電力供給源が求められたのである。この需要に対応する形で蒸気動力などを電力に変える発電機の開発が進められ、1869年には現在のものと同じタイプの発電機が開発されたのである。

←実用的な自励式(永久磁石不要)の発電機を開発したゼノベ・グラム
 足元の発電機に注目
Wikipedia Commons よりライセンスに従い引用

2−2.電気鉄道のはじまり ジーメンスの電気鉄道

 さて、発電機が実用化され、その信頼性が高まると、再び電車の開発という話が話題になるようになる。発電機に電気を流せばモーターにもなる。高性能の発電機が開発されたと言う事は、モーターも高性能になったと言う事である。
 この理屈ゆえ、最初の電車運行の栄誉は、本格的な商業用直流発電機を開発したドイツのウェルナー・ジーメンス(1816〜1892)に与えられた。彼は1879年、ベルリンで直流方式の電気列車の展示運行を世界ではじめて実現したのである。

ジーメンスによる世界最初の電気列車"Siemens Corporate Archives, Munich"より引用

この時の機関車の写真
出典:Electrische Kraftbetriebe und Bahnen (ドイツ), 1922

  この時のジーメンスの電車は機関車方式、機関車はモーターの化け物のようなものであったが、完成度はなかなか高く、1881年にはベルリン近郊で世界最初の電車の営業運行が実現した。営業運行車両は地上の線路から電気をとっていたという点でこの車両と同じだが、鉄道馬車の床下にモーターを搭載する形状となっており、今の電車にかなり近いものとなっている。車輪と車体の間にはバネがあり、見た感じ、モーターと車体の間にもバネがある。車輪とモーターの間の動力伝達はワイヤーによって行われたと言う。

最初の営業路面電車
出典:Electrische Kraftbetriebe und Bahnen (ドイツ), 1922 p15

1883年開業のドイツ、フランクフルト〜オッフェンバッハ間の路面電車
初期のインターアーバン(都市間電車)の一つ
出典:Electrische Kraftbetriebe und Bahnen (ドイツ), 1922 p18



2−3.アメリカでの電気鉄道への挑戦

 ジーメンスが世界に先駆けて電車運行を実現できたのは、技術力のほか、既にアーク灯事業でかなりの成功を収めていたからである。アメリカでこれに対抗できたのは、1874年に高性能電信装置の発明で富を得て、発明に没頭していたエジソンと、彼が設立した有名なメンロ・パーク研究所(1876年開設)であろう。実際、この研究所でエジソンは1880年に電気機関車を製作するが、彼はそれを実用化しなかったとものの本には記されている。
 実用化しないのはおかしいではないかと思ってよくよく調べてみると、彼はこの電気機関車を改良して、普通鉄道用の電気機関車としてノーザン・パシフィック鉄道への売り込みに成功したという。ノーザンパシフィック鉄道はミネアポリス〜シアトル間の幹線路線をはじめて完成させた有力鉄道会社。勿論、この当時の機関車では勾配区間の重量列車の牽引は難しく、支線の電化という計画だったらしいが、運悪く、会社はまもなく倒産してしまう。ノーザン・パシフィック鉄道はしょっちゅう倒産している会社で、この後も何度も倒産を繰り返しながら、1970年の合併まで営業を続けるが、倒産が日常茶飯事だからといって会社更生期に実験的な投資をするわけにもいかない。この計画は立ち消えになってしまい、他の幹線鉄道会社はこの電気機関車に関心を示さなかった。こまめに営業して、当時馬車運行だった市街鉄道に売り込みを図れば良かったのかもしれないが、エジソンの会社は1979年に発明した炭素フィラメントの電球の成功で、海外進出もどんどん進めている段階。電灯だけでジーメンスの本拠地のベルリンに乗り込める程であったから、わざわざ未知の電鉄事業に乗り出す必要はなかった。なお、この同時期である1881年ごろ、ステファン・フィールドという人物も電気機関車の試作に成功。エジソンと合弁の会社を設立し、1883年のシカゴ鉄道博覧会での試運転には成功している。アメリカにおいて、初期の電鉄事業に出遅れがあったのは電球のせいかもしれない。

 エジソンとフィールドが実現できなかった営業運行をアメリカで最初に実現したのは、ベンスレーとナイトであった。彼らはクリーブランドで地下集電方式の路面電車の営業運転を1884年にはじめている。地下集電方式は、後に東部の諸都市やロンドンなどで盛んに用いられる集電プロ―を用いたものであったが、集電系の複雑さに加え、走行部分の技術力も未熟だった当時においては継続的な営業運行は困難で、まもなく路線は休止となった。彼らは1888年にボストンとアレゲーニーシティでも電気運転を試み、このうち、ボストンはやはり地下集電、アレゲーニーは架線集電であったが、両方とも故障が多く、彼らの事業の足跡はここで途絶える事になる。
 ベンスレーとナイトに続いて電気鉄道システムを構築した人物としてはイギリス生まれのレオ・ダフト(1843〜1922)の名を挙げることができる。彼は1883年に小型の電気機関車の試作に成功。これを用いて1885年、馬車運行であったボルチモア・ユニオン・パッセンジャーの電化を行った。この路線の営業運行は、今まで騾馬が引いていた鉄道馬車用の客車を、8馬力のモーターを搭載した小型の電気機関車によって牽引する事で行われた。当初は第三軌条であったが、のちに架線集電となったようである。結果は悪くないもので、1年の営業運行が行われ、運行コストも馬車の半分であったが、最終的に路線は馬車運行に戻されてしまった。

ダフトの電気鉄道
出典:Electrical World 1886 August 7, p61
 ダフトの電車システムは、ロサンゼルスやニューヨーク高架鉄道などかなり有望な場所でも使われ、一定の成功を収めたが、運行は短期間に終わった。
 初期の電気鉄道建設者の中でベルギー生まれのヴァン・デポール(1846〜1892)はもう少し信頼性のあるシステムを構築することができた。かれはシカゴでの街灯事業による経験を元に1882年から1883年にかけてシカゴで電気鉄道の運行実験を行い、1883年にはトロント農業博覧会で展示運行を実施、その成果を元に1885年にサウスベンド(インディアナ州)で路面電車の営業運行を開始する。当時の制約ゆえ、トラブルと無縁と言うわけには行かなかったが、この営業運行はそれなりに成功を収めた。その後、1886年にアラバマ州モンゴメリーでの路面電車導入にも携わる。この都市では、15マイルの路線に18両の車両が導入され、既存の馬車鉄道路線が全て電車運行に置き換えられる事になった。これまでの試みは試験運行の域を出ず、ほんの一部分の路線の電化に留まっていたのだが、モンゴメリーを嚆矢として、位置都市の市街鉄道の全てを電気運転で行う都市が登場するようになっていったのである。ちなみに、彼の車両は直流1400ボルトで架線集電方式。モーターは車端デッキに搭載され、チェーン駆動で車輪を回転させると言うものであった。
トロント農業博覧会のヴァン・デポールの電車運行
出典:Electrical World 1886 August 14, p75

↓実際の写真 1904年のStreet Railway Journal

1886年、モンゴメリーにおける電車運行
出典:Electrical World 1886 August 14, p76

ヴァン・デポールのモーター(直流1400ボルト)
出典:Electrical World 1886 August 14, p75

  これらの試みの結果、1888年には21の電鉄会社が登場、172両の電車が82マイルの軌道を走行したと言う。4年間、しかも限られた人物の試みとしては偉大なものであったが、初期の挑戦者のシステムには多くの課題が残されていて、それが電車を、そのころ普及が進んでいたケーブルカーに比べると電車の優位性を発揮できない結果に終わらせていた。
 問題はあちこちにあるのだが、要約すると、非力な電動機と不安定な駆動システムにまとめる事ができる。地上から受けるショックやバネが介在する車輪と車体の間の駆動力の円滑な伝達が出来なかったのである。一番確実なシステムであったジーメンスやヴァン・デポールのシステムであっても駆動力の伝達はチェーンやワイヤーを用いて行なわれており、信頼性には自ずと限界があったのである。これを解決したのが次に紹介するスプレイグである。

(上と下)カンサス・シティの馬車鉄道軌道で運行試験を行っていたジョン・C・ヘンリーの電車の変速システム
複雑怪奇な上にバネ装置も見当たらない(Dの撓み板がバネ代わり?)
出典:Electrical World 1886 August 22, p88


2−4.吊り掛け駆動の発明と本格的な電車の普及

 フランク・J・スプレイグ(1857〜1934)は「電車の父」と言っても良いだろう。特に長大編成列車の高速運行が可能になったのは、彼の吊り掛け駆動方式と総括制御の発明によるところが大きい。
↑フランク・J・スプレイグ
Wikipediaよりライセンスに従い引用)
彼はコネティカット生まれ。高校を優等で卒業した後、仕官学校に入学、そこを7番の成績で卒業する。卒業後は技術仕官として海軍で5年ほど働くが、そこで早くも発明と技術開発の技能を発揮し、新型の発電機を開発し、電動ベルシステムを艦船に導入する。また、1882年にはロンドンの水晶宮で開かれた電気博覧会を見学、この際にロンドンの蒸気運転の地下鉄を目の当たりにして、電気鉄道の必要性を認識したと言う。
 彼が海軍で活躍していたのは1878年から1883年にかけてのことで、エジソンの会社が急速に発展した時期に相当する。エジソンのビジネスパートナーは彼に着目し、1883年にメンロ・パークの研究所に引き抜く事に成功した。彼は、無駄な実験を重ねていた彼の研究所のシステムの改善に成功。特に発電と配電のシステムの大幅な改良に成功したという。
 彼は非凡な才能の持ち主であったが、合理的に物事を処理していくと言う点で、エジソンとはうまが合わなかった。特に、モーターの活用に関しては意見の対立があったようである。エジソンはモーターの可能性やその改良にあまり大きな関心を持たなく(高電圧の電線を剥き出しにして市中にはりめぐらす電化システムの発想が好きではなかったらしい)その領域で卓越した才能をもっていたスプレイグとは意見が合わなかったと言う事らしい。最終的にスプレイグはエジソンと袂を分かって独自の会社を設立するが、エジソンの研究所で試作品のまま閉じ込められていた電車システムは、彼の才能のもと大きく発展する事になったのである。
 彼が最初に開発したものは高性能モーターである。今までのモーターは銅線の品質や、コイルの巻き方の問題で、重量の割には力が出ず、また回転数も一定に保てなかった。ダフトの電気機関車が大きさの割に低い出力でしかなかったのはそのためである。電磁気学に精通し、また軍の研究所で信頼性の高い製品開発を経験していたスプレイグはこの問題に精力的に取り組み、負荷の変動があっても回転数が変動せず、小型で高出力のモーターを作り出すことに成功したのである。
 彼が開発したのはそれだけではなかった。既存の電気鉄道技術の問題はモーターの出力の他、その装着方法にもあった。既存の車体や台車にモーターを装着する方法では、車軸への伝達の際に問題を避ける事が出来なかった。ヴァンデポールのチェーン伝達はチェーンが切れたり外れたりという問題を避ける事ができなかった。後にカルダン駆動で用いられる自在継ぎ手が使い物になったのは自動車の発展以降で、この時代に確実な動力伝達可能なギアシステム作るとすれば、車軸にモーターを取り付けるしかない。車軸装着では、回転するモーターに対し、モーターをどう固定するかという面倒な問題があったが、スプレイグは車軸に取り付けられたモーターを、同時に台車枠にスプリングを介して「吊り掛ける」事によってこの問題を解決した。吊り掛け駆動の発明である。

(上と下)スプレイグの吊り掛け駆動台車
出典:Electrical World 1887 June 4, p265

 この高性能モーターは電気鉄道のほか、エレベーターでも盛んに用いられるようになるが、水力エレベーターと言う安定した技術が存在していたためエレベーターへの応用は少し後の1890年代から、スプレイグが最初に応用を試みたのは高架鉄道の電化であった。
 1885年、スプレイグはニューヨークの高架鉄道で電車列車の実験を行った。ダフトとは異なり、客車の台車に電動機を取り付ける方式で、一編成分の電動機を大型の制御装置でまとめて動かすという方法であったようだ。スプレイグはこの時すでに有名な人物で、雑誌でもこの実験の様子は大々的に取り上げられ、試運転列車にはジェイ・グールドをはじめとする高架鉄道の投資家達が乗りこむというイベントまで開かれた。しかし、この試運転列車が問題で、("The Times of the Trolley"の記述によると)彼は加速を急ぎすぎて過電流でグールドの目の前にあったヒューズを焼いてしまういうミスを犯してしまったらしい。ニューヨーク高架鉄道の電化実験は有益な結果をもたらしたのだが、この失敗でこの路線の電化事業は立ち消えになってしまった。
  スプレイグはかのエジソンの研究所のシステム改善を行うほどの秀才である。秀才であればあるほど、自己の失敗は気になるものである。そのせいもあってか、彼はしばらくの間発電機と架線給電による電車から遠ざかり、蓄電池式の電車の研究を行ったりもしたが、これもやはり上手くいかない。そんな彼の元に、ヴァージニア州リッチモンドでの路面電車事業の話が舞い込んできたのは1887年の初旬であった。
  リッチモンドでの路面電車路線建設は冒険であった。最初の契約条件の中で、用意する車両は30両、路線の最急勾配は8%(箱根登山鉄道と同じ)、工事期間(実地での電化設備のテスト期間?)は90日と言う厳しいものであった。 おまけに、現実はもっと厳しいものであった。秋にスプレイグがリッチモンド際、すでに軌道敷設は完了していたが、電化工事を依頼した会社側が敷設した軌道は貧弱な27ポンドレール(3フィート当たり、メートル当たりだと13キロで)、曲がりくねった軌道の勾配は最大10%もあった。スプレイグの車両は2個モーターであったが、1マイルも続く勾配のあかげでモーターは加熱し、試運転は何とかなったものの、そのままでは営業運転は困難であった。スプレイグはギヤを二重にしてその比率を変える事で対処した。こんなこともあって彼は90日の工事期間後営業運転を行おうとする経営者(そもそも彼らが規格外の線路を引いたのが悪いのだが)に逆らって慎重に試運転を行い、契約代金の減額を受けたりもした。1888年の1月以降は運賃をとっての営業もはじめられるが、車両のトラブルは残ったため、本格的に営業運転がはじめられたのは2月1日の事であった。
 開業までに紆余曲折があったのはダフトやヴァンデポールのシステムと同様であったが、本格的な運行開始後はその運行コストの低さと安定性で彼のシステムは評判を得る事になる。スプレイグの電車は低コストで本格的な運行開始後の故障は比較的少なかった。これらの優位性に加え、リッチモンドでの評判を聞きつけ、ボストンのウエストエンド市街鉄道の契約を取り付ける事が出来た事も大きかった。この会社は8000頭の馬を用いる当時世界最大の馬車鉄道による市街鉄道会社で、ケーブルカーによる動力化を検討したが、リッチモンドでの成功を聞きつけ、スプレイグ方式による電化を行ったのである。
  リッチモンドの路面電車開業前はわずか20しかなかった電車運行事業者は、開業後2年で200に増加、本格的な電車普及の時代がはじまったのである。

リッチモンドの市街電車の走行風景
"Farea please; from horsecar to streamliner", Appleton-Century, 1941, p60

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2006年5月5日作成