「アメリカ旅客鉄道史+α」トップ>「アメリカ電気鉄道史」表紙>第T部:4.路面電車からインターアーバンへ
4.路面電車からインターアーバンへ −インターアーバン(都市間電車)歴史概説− |
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(出典 Electric Railway Journal 1926, Nov. 13, p875) |
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1888年のリッチモンドでのスプレイグ式電車の成功後、電車は全米で爆発的に普及し、馬車鉄道やケーブルカーに代わって都市交通の主役になるのは最早時間の問題といった状態になった。 都市交通における電車の勝利を見て次に実業家が思いついたのは町と町を結ぶ電気鉄道の建設であった。19世紀終わりのアメリカには世界でも稀に見る稠密な蒸気鉄道網が存在していたが、列車運行本数が少ない上に停車駅も少なく、買い物や行楽に気軽に使える乗り物ではなかった。農村から都会へ、町から町へ、気軽に移動できる交通機関が求められたのである。こうした要望にこたえるために建設されたのが都市間を結ぶ電気鉄道、インターアーバンであった。 |
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<目次> 4−1 インターアーバンとは 4−2.インターアーバンの歴史(1)建設時代 4−3.インターアーバンの歴史(2)現状維持の時代 4−4.インターアーバンの歴史(3)衰退の時代 4−5.インターアーバンの歴史(4)生き残り策とその挫折 4−6.路線廃止と残った路線の物語 4−7.インターアーバンの意義 4−8.インターアーバン年表 |
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4−1.インターアーバンとは インターアーバンとは「インターアーバン・エレクトリック・レイルウェイ」の略、すなわち都市間を結ぶ都市間電車の事である。ミネソタ州のミネアポリスとセントポールを結ぶ路面電車(両市街は川を隔てて繋がっている)で最初に用いられるようになった後、路線網の拡張により、隣町に達してしまったような近郊路線でこの呼び名が用いられるようになった。 アメリカのインターアーバンにはいくつかの固有の特徴があり、それがこの言葉の活用範囲も規定している。 まず、「都市間」の「都市」なのだが、これは必ずしも大都市のみを指さない。ここでいう都市は人口数千人から数万人の、日本でいえば町と呼ぶべきものが含まれている。オハイオ州、インディアナ州といった中西部の都市では数10キロ毎にこういった町が点在していて、インターアーバンはこうした町と町を結び、大体50マイル程度までの中距離移動で活躍した。勿論、インターアーバンの拠点にはクリーブランドやデトロイトなど、当時全米有数の大都市が含まれていて、こういった都市を起点とする路線も多かったが、そういった大都市間の連絡は比較的距離が長く、既存の蒸気鉄道との競争が激しかったので副業的な存在にすぎなかった。また、都心部と郊外を結ぶ通勤路線は郊外鉄道というくくりであり、インターアーバンの範疇には入らない(ロサンゼルスのパシフィック電鉄は日本の私鉄と同様、後に沿線が市街地化し、都市鉄道化したが、もともとはロサンゼルスとその衛星都市間の都市間輸送を目的としていた)。 |
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この例は少々難しいが、上がバージニア州リッチモンドの市街電車 (出典 Electric Railway Journal 1919, July 7, p1103) 下がニューヨーク州バッファローとナイアガラフォールズを結んだインターアーバン (出典 Electric Railway Journal 1914 , May 16, p1095) インターアーバン車のほうが出入り口が小さい 車体の大きさに明らかな違いが見られる (出典 Electric Railway Journal 1914 , April 27, p798) |
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また、運行形態として、最初から電気運行で登場し、都市部では併用軌道を走行、郊外では専用軌道を走行するというのが特徴の一つとなっている。ペンシルベニア鉄道のニューヨーク〜ワシントン間の電化区間のような大手蒸気鉄道会社が後から電化した電化区間はインターアーバンとは言わないし、都市間を結ぶ電気鉄道でも全区間道路上を走行するニューイングランドに多数存在したルーラル・トロリーのような路線もインターアーバンとは言わないのである(インターアーバンの語源となったミネアポリス〜セントポールの路線は全くの路面電車であったが)。もっとも、多少の例外はあり、地方の鉄道会社では、蒸気路線を電化して電車を走らせ、経営形態も電鉄会社と同一のものになった会社もある(旅客列車が電車主体か、電気機関車牽引の客車列車が残されたかどうかが線引きの境目のようである)。しかし、蒸気鉄道路線と電気鉄道として建設された路線は、(理由は後で述べるが)日本における国鉄と私鉄のように別個の路線として存在し、電気鉄道路線のほとんどは、併用軌道と専用軌道の組み合わせと言う独特のスタイルを保持したのである。 存在期間した期間についても特徴がある。詳しくは次節で述べるがインターアーバンは1890年ごろに登場し、1940年までに大半の路線が消滅、1960年代にシカゴのサウス・ショアー線とフィラデルフィアのノリスタウン線を除いて完全消滅しまったのである。 一口で言えるインターアーバンの特徴はこんなところであろうか。以下では、歴史、路線の順にその実像に迫ってみることにする。 |
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4−2.インターアーバンの歴史(1)建設時代 インターアーバンを正確に定義するのは難しいので、最初のインターアーバンがいつ登場したのかを正確に言い当てるのも難しい。都市と都市を結ぶ電車路線としては1883年にアイルランドでジーメンスの技術を用いて建設されたものが最初と言われている。北米では1887年にヴァンデポールの技術で建設されたカナダのオンタリオ州の路線がインターアーバン的形態を持つ最初の路線で、1889年のオハイオ州の事例以降、オハイオ州やワシントン州などを中心に小規模な路線が建設されていった。 建設が本格化するようになった直接のきっかけは、1895年のオハイオ州クリーブランドとその近隣の都市を結ぶ路線建設である。人口密度の高い地区を結んだこの路線は年間1万ドルという、投資額と当時の貨幣価値からすればかなり魅力的な利益を稼ぎ出すことができたのである。 インターアーバンが利益を上げることが可能になったのは、スプレイグのリッチモンドでの成功以降着実に進められていた電車の技術革新によるところが大きい。直接制御方式ながら高性能のGEのK型コントローラーの開発は1893年のことで、これは今日日本の路面電車が搭載しているコントローラーとほぼ同一のものであった。リッチモンドの路面電車は二軸車であったが、この頃にはボギーの電車も登場し、輸送力や乗り心地の向上に大いに貢献していた。これらの改良が路面電車の進展と共に中距離の電車運行の低コスト化を可能にしたわけである。これらと高収益の実績、さらに1897年に開発された長距離送電システムがインターアーバンのブームの火付け役となったのである。1895年の建設に携わったエベレットとムーアはインターアーバンの建設資金を集めるために投資シンジケートを設立、オハイオ州近辺で大々的に資金を集め、大規模な路線建設事業を開始した。 1890年代後半から20世紀初頭にかけ、インターアーバン建設事業はどんどん加速した。オハイオ州やインディアナ州といった中西部東部の州は比較的人口密度も高く、農村の所得水準も高かったのであるが、都会への買い物や行楽に使える乗り物はほとんど無かった。道の悪さを考えれば馬車の移動可能距離は数キロで、頼れる乗り物は鉄道のみ、しかし、至るところに線路は引かれていたというものの、その運行本数は1日1〜3本で、町や村の中心部にしか停車しなかったから、日帰りでの移動はほぼ不可能であった。そんな中に、1〜2時間おきに電車を走らせ、しかも儲かるというビジネスモデルが登場したのである。投資シンジケートや都市間電車建設の推進者の元には多額の資金が集まり、オハイオ州全域で無数の路線建設計画が作られた。 1901年、エベレットとムーアの投資シンジケートはすでに開業していた中規模の電鉄会社を統合、それぞれ数百キロの路線延長を誇るレイクショアー電鉄とデトロイト・ユナイテッド鉄道を設立した。両路線は、北部オハイオ州のトレド、クリーブランド、デトロイトを拠点とし、非常に高い収益を持たらした。両社の成功は、電鉄産業への投資資金の資金の流入をもたらし、建設のペースは加速した。1901年から1904年の3年間で5700マイル(9000キロ)もの路線が建設された。インターアーバンの建設ブームである。
インターアーバンのほとんどはは2回の建設ブームの間に建設された。1回目の建設ブームは1900年から1903年にかけてのもので、2回目は1905年から1907年のものである。2回のブームの間に若干の空白があったのと、1907年にブームが終わった理由は1903年と1907年に起こった金融恐慌にある。1903年に起こった金融恐慌で前述のエベレットとムーアの投資シンジケートは破綻。より穏健な投資シンジケートによる路線建設が第二次の建設ブームをもたらしたのだが、1907年の世界的な恐慌はその動きも止めてしまった。 |
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4−3.インターアーバンの歴史(2)現状維持の時代 インターアーバンの建設にどれだけの合理性があったのかどうかには疑問が残る。上の図を見てもらえば分かるのだが、すでにアメリカの国土には数十万キロの鉄道網があり、インターアーバンのほとんどの路線は既存の路線と並行していた。幹線以外はそれほど多数の列車が走行していたわけではないので、本来であればこうした路線を電化して電車運行を行えば、より低コストで高速運転も可能になったはずなのであるが、実際は蒸気鉄道の電化は稀で、ほとんどのインターアーバン路線は蒸気鉄道路線に並行して低規格の軌道を建設し、あまり高速ではない電車を走らせていた。 建設ブームをもたらした高収益もどうやら幻想らしいという話もこの時期に明らかになっていった。エベレットとムーアの投資連合は、インターアーバン投資に対する利益率は1割程度であると公言していたが、彼らの公開していた財務データは設備更新のための積み立てとか、線路や車両の保守費用を費用として反映させていなかった。1907年まで、投資家はこの数字を信じて自動車増産のために秘策を練っていたフォード社などそっちのけでレイクショアー電鉄などの有力電鉄会社に投資していたのだが、金融恐慌の後、実際の利益率は3.5%くらいでしかないという事が明らかになったのである。1908年以降、都市間電車の建設は例外的なものを除けばほとんど行われなくなった。投資が行われなくなった事は、既存の路線の改良も困難であった事を意味する。「黎明期」を終えて「発展期」に移るかと思いきや、そのまま現状維持の時代に突入したのである。 現状維持といっても話は簡単ではなかった。インターアーバンの建設以前、蒸気鉄道の運賃はかなり高い水準にあったが、インターアーバンの台頭に対抗し運賃値下げが行われた。50マイル、インターアーバン路線の普通電車で2時間位の距離であればインターアーバンは高頻度運行で対抗できたが、それ以上の距離では1日数本であっても蒸気鉄道会社の旅客列車のほうが有利であった。インターアーバン各社はこうした長距離旅客の獲得も計算に含めていたから、運賃値下げは大きな打撃を与える事になってしまったのである。この状態で借入金の支払いを続ける事は難しく、最初の20年ほどは路線の廃止こそ少なかったものの、どこかの会社が倒産し、別会社により再建されるという状態が日常茶飯事であった。 |
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集客手段としての住宅分譲・遊園地経営は電鉄会社にありがちな兼業パターンであった。 (日本の私鉄経営の兼業は実はあまりオリジナリティがなく、日本でも閲覧可能であった 電鉄系商業雑誌掲載の成功例を参考にしたのでは?と思われるものが結構ある・・・。) |
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4−4.インターアーバンの歴史(3)衰退の時代 中距離、小単位の旅客を対象にしたという点でインターアーバンは高速バスの先祖のような交通機関である。輸送単位は大差ないのに自社で道路を用意する必要があるインターアーバンはコスト的にはかなり不利であったが、しばらくの間はこれはあまり問題にならなかった。しばらくの間・・・つまり自動車が普及するまでである。 アメリカの車の歴史は以外に浅い。アメリカで最初に内燃機関の使用が試みられたのは1886年の事で、市街鉄道用の動力としてであった(コネリー・ガス・モーターの項を参照のこと)。その後、徐々に自動車の製作も行われるが、マカダム式の舗装により幹線道路の舗装が行われていた西ヨーロッパと違い、アメリカの道路のほとんどは泥道で、ほとんど整備もされていなかった。 1900年以降は自動車の改良も進み、都市部では実験的なバス運行も行われたが、初期の小ロット生産によるバスによる公共交通は、全国的に普及し、大量生産が行われていた路面電車車両による運行に比べると高コストで、アメリカでは普及が遅れた(道路舗装が行われていて、規制により暗渠式集電等の高コストの集電方法をとる必要があったロンドンやパリなどではこの頃からバスが普及した)。とはいえ、自動車の性能の向上、大量生産化の動きは日進月歩で、1910年ごろからカリフォルニアなどの気候の温和な地域でバスの営業運行が行われるようになっていった。 こんな中、1914年には、不況で職を失った労働者が、T型フォード車「ジットニー」を利用して都市での乗合輸送を行い、路面電車の乗客のかなりを奪うという「事件」がおこった。ジットニーは全国的に広まったが、日銭稼ぎにはいいものの、車両の修理管理にかかる費用を考えると長期的に採算の合う交通機関ではなく、規制が厳しくなった事も相まって1915年には消滅してしまっている。もっとも、電鉄会社側から「ジットニー」とひとくくりにされてしまったバス事業者の中には、それなりの資本を持つ会社や、大型車での都市間運行を始めたものもあり、そういった会社はこの事件をきっかけに、自らの地位の安定化のために地域政府に働きかけ自らを規制の監督下に置いたり、他社と連携して路線網を拡張したりという動きを見せ始めたのである。グレイハウンドの創始者であるウィックマンがミネソタ州でバス事業を始めたのは1914年の事で、カリフォルニア州ではバス運行の規制制度がこの頃からスタートした。 一見すると、バス=鉄道の敵で、実際「ジットニー」以来の伝統でバスを敵視する向きもあったのだが、実際にはそれほどバスは脅威にならなかった。電鉄会社自身がバス事業に参入する事は自由であったし、バス会社を買収して地域の公共交通事業を独占化することも可能であった。そんなわけで、都市間バスは客をインターアーバンの客を奪うというよりは、ミズーリ州やミネソタ州など、人口密度がやや低めでインターアーバンが建設されなかった地域でインターアーバン並みの旅客輸送サービスを提供したり、蒸気鉄道路線の依頼を受け、減便された普通列車の代替バスとして走行する、といった方向で活動を展開した。とはいえ、第一次世界大戦後の道路の改良は、超長距離のバス路線の運行を可能にし、1920年代中ごろにはシカゴ〜ロサンゼルス、シカゴ〜ニューヨークなどの超長距離路線も開業している。バスを兼業するインターアーバン各社の間では、状態の悪化した線路を使った電車運行とバス運行のどちらが有益かを考え始めるところもでてきた。 こうした動きに拍車をかけたのは自家用車の増加である。1920年代の好景気と道路改良は、農村における自動車の爆発的な普及を促した。50マイル(80km)の移動というのは自家用車にとっては最適な距離であり、沿線住民は1時間に1本の電車に乗る代わりに自家用車であちこち出かける事を選択するようになった。1920年代後半は好景気に沸いていたが、インターアーバンにとっては悪夢そのもので、零細な路線を中心にバスに代替される路線が増えるようになった。 |
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4−5.インターアーバンの歴史(4)生き残り策とその挫折 「アメリカ=市場原理主義」というイメージからすると、自家用車の普及により経営が成り立たなくなったインターアーバンはすぐに廃止されたように思ってしまうが、実際の事情は大きく異なっていた。会社が倒産した場合、会社更生法の適用で再建の道を探るのが普通で、債権者が存続をあきらめた場合でも、地元住民が運動をおこし、どうせスクラップにするならと格安で設備を引き取って運行を継続するケースが多かった。地方自治体が補助金を出すケースは結構あったし、オハイオ州などでは、特別に固定資産税の減免処置を与えていたという。 会社側も様々な努力を行っていた。努力には主に2つの方法があり、一つは貨物輸送の強化、もう一つは高速化であった。貨物輸送の強化はまず、1920年代に小口扱い貨物(宅配便サイズの貨物輸送)を強化する方向で行われたが、これはトラック輸送の発展により衰退していった。その後の方策としては、鉄道のメリットを生かした大型重量貨物の輸送であった。オハイオ州とインディアナ州のインターアーバンネットワークでは統一の貨車の規格が制定され、市街に点在する半径10メートルの曲線が通過可能であるという鉄道模型を上回る曲線通過性能を持つ特殊な貨車が製作された。これはそこそこ上手くいったが、本格的に成功させるためには蒸気鉄道のネットワークとの結合が必要であった。電鉄会社は蒸気鉄道の利益を奪うものとして忌み嫌われていたのでネットワークの結合は難しく、成功したのは数社に過ぎない。加えてもっとも成功した会社にしても、旅客列車との兼業にさして意味があるわけではなく、旅客営業の廃止、架線の撤去を経て、全米に無数に存在する入れ替え鉄道として存続するものがほとんどとなってしまった。 スピードアップを行ったのは限られた会社で、どれだけの効果があったのかは疑問ではあるが、人々の耳目を引いたのは確かである。 シカゴの電気産業の立役者で、かつてはエジソンの秘書でもあったサミュエル・インスルは、シカゴを起点とする3つの都市間電車路線、すなわち、ノースショアー線、オーロラ・エルジン線、サウスショアー線を傘下におき、そのうちノースショアー線とサウスショアー線に大改良を施した。ノース・ショアー線では、1926年にスコーキーバレールートという延長30キロにもおよぶ、高速運転用の新線を建設が行われた。シカゴとミルウォーキーを結ぶノースショアー線は1918年にシカゴ高架鉄道を利用しての都心への直通運転を実現していたが、自社路線であるシカゴ市域外の郊外区間に長大な併用軌道区間が存在した。この区間は蒸気鉄道の運行本数も多く、併用軌道区間の存在は不利な要素で、改良は急務であったが、莫大な資金が必要である事がネックで改良が遅れていたのであるが、莫大な資金力を有するインスルの助力で改良が成功したのである。この改良により、2時間20〜30分を要していたシカゴ〜ミルウォーキー間の特急は2時間でこの区間を走破するようになった。インスルはサウスショアー線の直流化とシカゴ直通も行い、従来3時間を要していたシカゴ〜サウスベント間の1時間の時間短縮を実現、この路線が唯一のインターアーバンとして現在まで存続できる基礎を築いた。 |
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詳しくはこちらを参照の事 当時としては最新式の弱め界磁制御をそなえ、併用軌道走行と高速運転を両立 (出典 Electric Railway Journal 1931 , Sept., p462) |
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インスルの功績はこれに留まらなかった。彼は1930年代のはじめにインディアナ州のインターアーバン路線のほとんどを買収、インディアナ鉄道を設立した。彼が当初予定していた線路の改良を含む大改良は大恐慌のせいで実現できなかったが、彼の経営下で導入された30両のアルミ製の軽量車両は状態の悪い軌道上でも時速130キロでの走行が可能で、この電車による各駅停車はそれまでの特急電車より高速(表定55km〜60km)だった。新型電車による特急列車運転は短期間だったが、都市部に長大な併用軌道区間を持つというハンディにも関わらず、表定速度は70kmになったという。 インディアナ鉄道での時速130km運転は日本の地方私鉄の最高速度を130kmにするようなもので、短縮時間の数字も数字としては劇的であったが、その効果は限定的であった。会社は1930年代半ばに業績改善を実現するが、それはバス事業によるものであった。フリーウェイ登場前であったから速度は多少遅かったものの、ルート選定が自由に行え、中量輸送であれば運行コストも安いバスのほうが有利であったし、そもそもバスも鉄道も短距離や中距離輸送では乗用車にかなりの客を奪われていた。インスル自身も破産、証券詐欺の疑いで裁判にかけられ、産業界を追われる事となった。 企業の多大な努力や、当時としては異例の政府の支援も実を結ばず、インターアーバン路線のほとんどは1930年代に廃止になった。1930年に10422マイル(16800km)あったインターアーバン路線は、1940年には3197マイル(5100km)にまで減少。インターアーバンの拠点であった、オハイオ、インディアナ、ミシガン州の路線は、シカゴの通勤路線であり、前述のように改良が進んだサウスショアー線を除き、1940年代初頭に完全消滅してしまった。 |
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4−6.路線廃止と残った路線の物語 赤字がでたらすぐさま廃止、そういうイメージのあるアメリカの鉄道だが、実際にはそうではない。日本の場合、「鉄道がある前から我々は普通に生きてきた、だからなくなって死ぬわけではない。」という言い訳が成り立つが、アメリカの場合「そもそも我々が移住できたのは鉄道あっての事だし、○○年の寒波や▲▲年の凶作を生き延びられたのは鉄道あっての話だ。今は道路があるから大丈夫といえば大丈夫だが何となく不安だ。」という反論が出てくる。現在でも全国各地で路面電車を模した「トロリー」と呼ばれるバスがダウンタウンの観光用に運行されていて、おじいちゃん・おばあちゃんが「でもね、昔はここにも電車が走っているのよ」と語る土地柄。合理精神から極端な非効率経営は認めなかったが、鉄道の廃止を急進的に進めたわけではない。インターアーバンの廃止は、運行経費、すなわち初期投資を除いた日常の運行で赤字になったあと、さらに2〜10年を経た後に廃止の意思決定がなされるというのが一般的であった。最たる事例はロサンゼルスの有名なパシフィック電鉄で、統合でロサンゼルス全体の経営を行うようになった1910年から旅客営業の営業権を他社に売却した1953年までのおよそ40年間の間、黒字を出したのはたったの5年でしかなかった。アメリカにおいては建設時の負債が後々大きな負担になって路線運行会社の倒産に結びついた事が多かったから、企業としての倒産が路線の廃止を意味しなかった(日本地下鉄協会「世界の地下鉄」のPATHの記述はこの点でかなり的はずれな記述をしている。アマゾンに載っていた読者のレビューはこの点踏まえているのか、「多少の誤認もあうが詳細を省く」とあるが・・・。ちなみにロサンゼルスの記述は思いっきり怪しい。)し、「うちらで経営すればやっていけるぞ」ということで、設備全てをスクラップ価格で購入し、代替交通が整備されるまでの数年間、地域で自主的に経営されるという事例がかなり存在した。 ただし、こういった経緯を踏まえながらも路線は減少を続け、第二次世界大戦後の存続路線は2700マイル(4300km)。ヒルトン&デューの「アメリカのインターアーバン(Electric Interurban Railways in America)」という本によれば残った路線は, 1.シカゴの近郊3路線(ノースショアー線、サウスショアー線、オーロラ・エルジン線)とミルウォーキー電鉄 2.貨物輸送で成功し大幅な変貌を遂げたイリノイ・ターミナル(イリノイ電鉄) 3.ユタ州の4路線(バンバーガー、ソルトレイク・ユタ、ユタ・アイダホ・セントラル、ソルトレイク・ガーフィールド・アンド・ウエスタン) 4.ロサンゼルスのパシフィック電鉄 5.アイオワ州の7路線(シーダーラピッド・アンド・アイオワシティ、ウォータールー・シーダーラピッド・アンド・ノーザン、チャールズ・シティ・ウエスタン、サザン・アイオワ、フォートドッジ・デモイン・アンド・サザン、デモイン・アンドセントラル・アイオワ、7社目調査中・・・) 6.テキサス電鉄、ヒューストン・ノースショアー、オクラホマ鉄道、カンサス州とオクラホマ州の州境近辺の路線 7.ピエモント・ノーザン(ノース・カロライナ州シャーロット近郊、サウス・カロライナ州) 8.ウエスト・ペン・システム(ペンシルベニア州ピッツバーグ南部) 9.その他 の9地区。シカゴ近郊路線とロサンゼルスのパシフィック電鉄、その他のうちのリーハイ渓谷電鉄は近郊輸送で存続が図られた路線、その他の路線は貨物輸送で成功した路線であった。貨物輸送、といっても成功は簡単ではないというのは前述したとおりで、イリノイ・ターミナルは蒸気鉄道のネットワークの大海に無数の自社所有ボックスカーを生贄に供えた上での成功であった(積み出し貨物が多かったために、蒸気鉄道に乗り入れた貨車が戻ってこないケースが多かった)し、アイオワ州でインターアーバン路線が残ったのはこの地域で主要幹線を運行していた蒸気鉄道6社のうち、もっとも弱小なシカゴ・グレート・ウエスタン鉄道がインターアーバン各線との相互貨物輸送と熱心で、この会社を経由してのシカゴ方面への貨物輸送が可能であったからである。ユタ州の4社は独自に相互の貨物輸送網を持っていて、ユタ州の人口の多い地域のかなりをカバーする事ができていた。ちなみに、パシフィック電鉄はサザン・パシフィック鉄道の子会社で旅客輸送の他、ロサンゼルス都市圏での連絡貨物輸送でかなりの活躍をしていた。 |
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(出典 Electric Railway Journal 1911, May. 11, p899) |
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これらの残された路線も、1950年代に徐々に旅客営業を取りやめていく。アイオワ州の路線などに関しては現代まで旅客路線として存続していればユニークな観光アトラクションになっていたであろうが、経営という観点で考えれば、フリーウェイが全米でどんどん建設されている時代に、田舎道の路肩をゴトゴト走る電車に勝ち目はない。これらの路線は旅客営業停止とともに架線を取り外し、一路線を除き、ディーゼル機関車牽引の貨物路線として存続することとなった(一路線のみ電化貨物路線として存続し、アイオワ電鉄 Iowa Traction Company として営業を続けている<参考サイト>私企業として残る数少ない電鉄路線である)。 こうして、1960年にはノースショアー線とサウスショアー線、パシフィック電鉄(ロサンゼルス都市圏交通局が買収、経営していた)とフィラデルフィアのノリスタウン線の4線のみが残った。しかしこの時点でノースショアー線は廃止を申請中で1963年に廃止、パシフィック電鉄の後裔のロサンゼルス都市圏交通局も高速鉄道への改築の第一歩として1961年に路線を廃止、高速鉄道がすぐ実現すればよかったのだがその完成は1990年まで持ち越された。残ったのた2路線のうち、フィラデルフィアのノリスタウン線は接続するリーハイ渓谷電鉄があってはじめて都市間電車路線としての形態が整っていた路線であり、1951年のリーハイ渓谷電鉄廃止後は完全な都市近郊路線となっていた。結局サウスショアー線のみが存続、相次ぐ改良で蒸気鉄道の電化区間のような感じになっていた同線は数キロの併用軌道区間をのぞけばインターアーバンらしさは失われていたが、公共交通に対する逆風が吹き荒れていた1960年代から70年代を生き延び、現在でもシカゴへの通勤路線として活躍中である。 |
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4−7.インターアーバンの意義 インターアーバンの功績は、電車を使っての長距離運転と、等間隔発車のフリークエントサービスを他に先駆けてはじめたことである。 路線網が構築された20世紀の最初の10年で、インターアーバンが主要駅を毎時0分、もしくはそれに準じたきりのいい時間帯に発車することはあたりまえになっていた。しかも、こうした電車の中には200〜300キロを走破するものもあったのである。等間隔のフリークエントサービスのさきがけとして有名なのはヨーロッパのインターシティサービスであるが、早い時期にこのサービスを始めたオランダでもその起源は1930年代、あまり強調されないことなのだが、この種の運行形態を本格的に導入したのはアメリカのインターアーバンである可能性が高い。アメリカの大手蒸気鉄道会社、ロック・アイランド鉄道はインターアーバンを真似た高頻度・等間隔運行を実験的に行ったが、すぐに取りやめている。運行コストが高すぎたのである。 インターアーバンは物流においても先見性を持っていた。鉄道による都市間の貨物輸送は時間を要し、通常日単位で考えるのが常識であったが、インターアーバンは時間単位での輸送を行ったのである。貨物のフリークエント性はトラック輸送では常識で、インターアーバンはそれに数年先行しただけともいえるが、鉄道による貨物輸送の可能性とその限界を試したというてんでその意義は大きいといえよう。 インターアーバンが車両技術に与えた影響も考慮する必要があろう。インターアーバンの発展により、1万両以上の高速電車が製造された。あくまでも釣り掛け駆動の範囲であるが、技術の向上には相当役立ったものと考えられる。 |
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(フィラデルフィア・ウエスタン⇒フィラデルフィア・サブアーバン・トランスポート⇒SEPTA) (出典 Transit Journal 1932, Nov. p500) |
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4−8.インターアーバン年表
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2006年7月13日サーバー移転に伴い全面改訂 路線情報を分離
2009年3月21日章番号変更 3から4へ
旧版の更新情報 2003年1月16日 作成 2004年12月30日 電鉄会社紹介と、自動車の進出問題などを中心に大幅加筆 2006年4月3日 タイトルと章番号変更 内容は修正入れていません |