「アメリカ旅客鉄道史+α」トップ>「アメリカ電気鉄道史」表紙>第U部:6.スーパー路面電車の時代
1930年にシカゴ郊外のジョリエット市で導入された「軽快電車」 出典 Electric Railway Journal 1930年1月号 p44 |
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「LRTは最新の技術を導入した交通システムで路面電車とは全く異なるもの」という説明が語られる事があるが、これは全くのウソではないもののかなり怪しい説明とみたほうがいい。地下鉄並みの表定速度、段差なしで乗り込める車両、バスや地下鉄も1枚の乗車券で乗れる交通システムは現代の欧米のLRTの大きな特徴であるが、1930年代にはすべて実現されていた技術だったのである。 |
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<目次> 6−1.超低床車の誕生 6−2.交通統合への挑戦 6−3.優先信号と高速運転 6−4.路面電車とLRT 6−5.番外編 1920〜30年代のモダンな車両群 |
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6−1.超低床車の誕生 20世紀初頭の路面電車にとっても乗降時間の短縮は至上命題であった。自家用車がまだ少なかった1910年代においても、中心部の停留所での迅速な乗り降りは高頻度運行や列車のスムーズな運行には不可欠であったのである。おまけに、女性の服装はビクトリアン・スタイルを引き継いだロングスカートであるから、社会進出が進み始めた女性を顧客とするのであれば乗り易さを考えなければならなかったわけである。 というわけで登場したのが超低床車。最初に導入されたのはマンハッタンで路面電車を運営していた事業者の一つ、ニューヨーク鉄道で、1913年の事である。下の写真は二階建てタイプのもので、一階部分がノンステップ構造で、台車部分は二階に登る階段となっていた。同種の車両はオハイオ州コロンバスでも導入されていたという。ニューヨーク鉄道は平屋建ての部分ノンステップ車両も所有し、延べ保有両数は290両にも達したと言う。 ニューヨークに続いてノンステップ車両を導入したのはパシフィック電鉄である。1913年の終わりごろ、パシフィック電鉄もノンステップ車両を導入1913年に導入した。こちらは平屋建てのみで、台車部分は運転室と、段差付きの客室となっていた。なお、同型の電車はパシフィック電鉄と同じくサザンパシフィック鉄道と資本関係のあったカリフォルニア中部の市街鉄道でも導入されている。 |
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超低床車はあまり普及しなかった。車体が特殊で高速運転に難があった(アメリカの路面電車の平均速度は20km/hにもなった)し、乗降扉が中央部だけであったので、乗降速度の向上には結びつかなかったからである。女性のスカートの件も、社会進出にともなって動きやすい服装の普及が進むようになり、それほど問題にならなくなった。マンハッタン島では290両と「交通革命」と言えるんじゃないかというほどの両数が導入されたものの、第一次大戦後の人件費高騰と、地下鉄の普及(ブルックリン高速鉄道のマンハッタン島延伸がこの時期)による利用客減少というニューヨーク特有の事情がこの種の車両の存続を困難にしてしまい、標準型車両に置き換わっていった(おそらく、需要減に伴いノンステップ車両が優先的に廃車になった)。 ⇒但し、高速性能に関しては、ニューヨーク鉄道5000系は弱め界磁付HLFで、スペック上は相当スピードがでた可能性もあり(詳細はこちら) 電鉄会社は、標準的な車体構造と乗降スピードの改善の両方を追及するために、ノンステップ車両に代わり、ワンステップ車両を指向するようになる。これも、完全なワンステップ車両というわけではなく、扉付近だけワンステップとして乗降速度の改善を図るようなものが多かった(ただし、中規模都市で見られた2両連結運転のトレーラーはワンステップ相当の床面積が広く、さらに乗降部のステップを広げて畳2枚分くらいのノンステップ区画を持つものもあった)のであるが、ピッツバーグの市街鉄道を運行するピッツバーグ鉄道は小径車輪を用いた小型台車でフルフラットのワンステップを実現している。 |
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1910年代中ごろ以降に導入された 出典:Electric Railway Journal 1922 Sep. 23 p499 Electric Railway Journal August 8, 1912 p154 ↓そのステップの様子 |
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さて、ここまでの紹介を見て、「面白そうだけど、別に『スーパー路面電車』ではないと思うんだけど!」と思った方は結構多いかと思う、そう思った方も心配なく、低床車のジャンルで最後に紹介するのは1934年に登場した100%ノンステップ(客室内段差なし)車両である。 完全ノンステップ車が欧州のLRTに導入されるようになったのは1990年代も半ばの事で、アメリカでは強度の都合で未だ部分低床車のみ。1930年代に完全ノンステップ車があったと言っても「何かの間違いじゃ」と思われる方が多いだろうが、事実は小説より奇なり、実際製造され、写真も残っているのである。ただし、残念ながらアメリカではないのだが。まずは以下の写真をご覧あれ。 |
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記事に”stepless”とあることに注目。 出典:以下3つの写真を含め Transit Journal, 1934 June, p246 |
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しかし、1934年の雑誌実物からのスキャンであるので誤情報の可能性は極めて低い |
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この車両、写真を見ればわかるようにアメリカ製ではなくドイツ製である。戦前のドイツは世界に名だたる工業国であったが、第一次大戦後は随分疲弊していた事もあり、路面電車の大型化、高性能化に関してはアメリカに遅れをとっていた、唯一アメリカに先んじていたのはカルダン駆動技術で、発展していた自動車のギヤシステムを応用し、1910年代には試作車が登場していたという。この車両もその延長線上にあり、バスやトラックに用いられた独立車軸や自在継ぎ手の機構がふんだんに取り入れられている。モーターは4つ搭載なので高出力で、高加速と低床化による乗降速度向上で、速度向上を狙ったと雑誌には記されている。 残念な事に、この車両がどれだけ活躍したのかは英語の資料からはわからない。直接ドイツの資料にあたる必要があるということでドイツ語を勉強中なのだが、その後の報告までは時間がかかりそうである。技術的な問題で短期間の使用に終わったという説明が適当だが、技術上の問題の解決はそれほど難しくなく、おそらく、障害者福祉に焦点があてられるまでは低床化のニーズがそれほど高く見積もられていなかったというのが原因であろう。特に乗降速度向上に関しては、既存の車両に若干手を加えるとか、停留所のかさ上げを図るとかハイテクに頼らずとも色々な事ができるわけで、そちらが優先されたというのが真相だと考えられるのだが、真相はどうなっていることやら。 ドイツ語Wikipediaの"Niederflurtecnik"(低床化技術)の項には1943年の戦災による焼失まで営業運転で活躍とあった。 |
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6−2.交通統合への挑戦 「市場原理の国アメリカでは複数の市街鉄道会社が同じ都市内で競争を繰り返した。」グローバル競争の牽引者であるアメリカならありそうな話であるが、実際には行政側の監督で合併が促され、早い時期に統合を実現していた。複数の会社が運営していても、会社間で運賃の共通化が図られているケースもあり、その利便性は現代ドイツの交通連合に匹敵するものであった。 交通統合の先駆者はボストンの市街鉄道。無数にあった市街鉄道会社は州政府の監督の元、1887年にウエストエンド市街鉄道として一本化、経営体制の強化と同時に電化が行われ、10年後には北米最古の地下鉄が建設されている。その後、1901年には高架鉄道が開通するが、これらの経営はウエストエンド市街鉄道の路線を引き継いだボストン高架鉄道が引き継いでいる。現在のボストンの都市交通の経営を行っているのはMBTAであるが、ボストン中心部に関しては、ボストン高架鉄道の路線網を一部バス化の上でそのまま引き継いでいる。 交通統合が行われたのはボストンに限らない。1920年に人口30万人を越えた都市のケースを調べると、以下のようにほとんどの都市で路面電車会社の統合が実現されていたという事実につきあたる。 |
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唯一の例外はニューヨークで、マンハッタン島の路面電車は20世紀初頭に一度は統合されたものの、高額で買収したために、買収資金調達のための借金が統合会社の経営を圧迫。会社は数年で倒産し、路線もばらばらに分割されて再建される事になった。また、この際の統合は路面電車に限定され、ニューヨークの交通の主役となっていった地下鉄の経営は独立したまま(高架鉄道は地下鉄と統合経営だったが)であった。もっとも、ブルックリン地区に関してはブルックリン市として独立していた時代にブルックリン高速鉄道として路面電車・高架鉄道の経営統合が実現していて、この会社は後にブルックリン・マンハッタン・トランジット(BMT)としてマンハッタン島に乗り入れている。マンハッタン島の公共交通機関はそれぞれ市当局の認可規制を受けていて、それは運賃の他、車両設備や運行本数にまで及ぶ細かい(おせっかいな)ものであったが、会社自体は地下鉄が統合される1940年代までばらばらのままであった。 また、シカゴでは完全な統合は実現されず、シカゴ市街鉄道とシカゴ鉄道、カムレット・アンド・サウスシカゴ鉄道、サザン市街鉄道の路面電車会社4社が「シカゴ・サーフェス・ライン」というブランド名で運行を行っていた。車両は各会社それぞれの所有で、それぞれの形式番号が存在したが、利用者側から見れば1つの大路面電車会社として利用することができた。全盛期のシカゴの路面電車の路線網は総延長1800キロ、車両数3500両で名実ともに世界最大。均一区間の領域も世界最大級であった。 |
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交通の統合的な経営は、こうした大規模システムの活用によりコスト低減ができるという利点を生かすためのものであった。 Electric Railway Journal October 10 !912 p555 |
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各都市とも、当初の交通統合ではバス交通の事は考慮されていなかった。ゆえに、1910年代後半から1920年代にかけては新興の独立バス会社に経営を圧迫されるケースが多かったが、路面電車会社がバス経営をする事が禁じられているわけではなかったから、路面電車会社もバス事業に進出。新興バス会社は競争に敗れたり、路面電車会社に吸収されるなどして消滅し、1930年代には統合的な都市交通経営に回帰する傾向があったようだ。現在、上記の各都市の都市公共交通は公営事業者によって担われているが、近年の補助金の増額により近年のサービス向上が著しいものの、一旦崩壊したものを一から再構築したというよりも、1930年代頃の運営形態をバス運行の比重を高めて存続させているといった形に近く、運行路線はおろか、系統番号もそのままといったケースがしばしば見受けられる。 ニューヨークの事例に象徴されるように、アメリカの交通統合は業者側の都合が大きく影響したものであったが、利用者にとってもメリットは存在した。統合した事業者は都市内で均一制運賃(主に5セント)を実施し、均一区間内での乗り換えは若干の追加運賃で可能というケースがほとんどであった。現代の欧米で行われている信用乗車制度こそ存在しなかったが、運賃の支払いはトークンで行われ(乗り継ぎに関しては乗り継ぎ券が発行された)、乗降客の多い停留所には改札が設けられるなどの対策がとられ、乗降速度の短縮にも注意が払われていた。 ところで、アメリカの都市公共交通経営というと「GMが設立したバス会社が路面電車会社を買収しバスに転換し、不便なバスサービスで自家用車化を図った」というGM陰謀説が語られる事がある。GMは自家用車購入のための融資制度で成功して、これの発展系として、バス購入のための融資制度や自社のバスを購入する事を条件とした交通事業者への出資を都市間バスではグレイハウンド、市街バスではナショナル・シティ・ラインズを通して盛んに行っており、この文脈で1930年代以降、交通事業者への自動車関連資本の進出が散見される。しかし、全国展開といっても、地方の数万人規模の都市を中心に数十都市という規模であり、全米の交通事業者全体の規模に比べればそのシェアは著しく低かった。上記の都市のうち、GMが一部株式を保有していた(石油・タイヤ会社をあわせても10%程度と言われている)ナショナル・シティ・ラインズが都市交通企業の支配株主となっていた都市というのは以下の4都市にすぎない。
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6−3.優先信号と高速運転 低床車両や運賃制度とならぶ欧州のLRTの特徴としては、高速運転を挙げる事ができる。大量輸送の路面電車車両にあわせて信号機を制御することで、信号待ちの時間をなくし、大幅な速度向上を目指す方式である。この方式、「信号を制御するために高度なシステムが必要=実現したのは最近」と思ってしまうのであるが、アメリカの都市交通の文献には、1920年代の終わりにデトロイト市で実行されていたという驚くべき事実が記されていた。 1920年代、デトロイト市では自動車産業の発達とともに人口が激増、自動車産業育成のために、電車は敵視されていたかといえばそうではなく、大量の自動車工場の工員の輸送のために大量交通機関は不可欠で、10万人の工員を有すフォード社のルージュ工場は専用の路面電車路線を有していたほどであった(建設にあたってはフォード社が建設資金の融資を行っている)。もっとも、自動車時代になってから人口が増えた事は事実であり、そのため地下鉄建設を行えるような人口集中はなく、他方で高速で手ごろな大量輸送機関が必要であるという厄介な問題を抱えており、デトロイト市当局(1922年にデトロイトの市街電車は公営化されていた、ちなみに、この時期のデトロイトの路面電車の路線網は400km、車両数は1400両にも達したという)は頭を抱えていた。この問題に関する市側の解答が、優先信号と急行運転の活用による路面電車の大幅高速化施策、名づけて「路面高速鉄道(Surface Rapid Transit)」というものであった。 詳細を説明する前に、路面高速鉄道の成果を紹介しておこう。 路面高速鉄道の成果は、高速運転にある。デトロイト中心部から北東に向かう10.8kmの幹線路線(ジェファーソン・ストリート線)のうち6.6kmを急行化、急行区間の表定速度は19.5km/hから29.6km/h(全区間の平均は17.1km/h→21.7kmは)に向上、38分の所要時間を2割以上短縮し30分としている。都心の併用軌道区間を表定30km/h近い速度で走らせるという離れ業は、高速運転が売りの現代の欧米のLRTでも難しく(郊外の専用軌道区間を含めて30km/hくらいになることがある)、この試みがいかに破天荒であったかを窺い知ることができる。高速運転により走行距離あたり運行コストも1割程度削減されたという。 |
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こんな事をどうやって実現したのか? 成功の秘訣の一つは優先信号の使用。当時は機械式の信号機の黎明期にあたるが、この機械式信号を路面電車優先型とし、電車進行時には常に青信号となるような制御を行った(制御が複雑では、と思ってしまうが、当時は制御自体は手動だったので特に問題なく行えたらしい、ちなみに日本最初の機械式信号機の登場は1930年のこと)。 もうひとつの工夫は、バスの活用。高速化は急行運転によるものであるが、複線の路面電車で急行電車を運行しても、先行の各駅停車につかえて速度向上にはならない。この問題への対応として、各駅停車はバスとして、急行電車停車の停留所で相互に乗り継ぎが可能な構造とした。急行電車停車駅以外では乗り継ぎが必要になってしまうが、ラッシュ時2分間隔、それ以外の時間帯で4分間隔という高密度の運行で接続をとりやすかったことと、各駅停車のバスは急行停車駅以外の停留所では道路中央の電停ではなく、路肩の停留所に停車したので、利便性はそれなりに高かった。勿論、バスと電車の乗り換えは無料で、EXPRESS(急行路線)と記された特別な乗り継ぎ券が発行されていた。 |
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(列車の車高が異なるのは、2両連結で背の高い電動車+背の低いトレーラーという組み合わせで走行していたから) 出典 Electric Railway Journal January 7 1928 p4-p5 |
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この路線は速度だけではなく、輸送力も現代のLRT並であった。電車はすべて2両連結。1両の大きさは15メートル(車体幅は2.5メートル)もあり、当時のバスの3〜4台分の輸送力を持っていた。2両連結の路面電車は当時の北米では標準的で、市中心の広場で電車を待つ多数の乗客が大型車両に乗車する写真が多数残されている。急行運転の最盛期、この路線の1日の利用客数は37000人にもなったという。 デトロイトの急行運転サービスは利用者にとっては好評であったが、1934年に廃止され、もとの各駅停車の運行に戻されてしまった。6年にわたって好評のままつづけられたサービスが取りやめられた理由は大恐慌後の不況による需要減少で、運行本数の削減が急行−各停の乗り継ぎの利便性を大幅にそこなってしまうことが予想されたからである。 なお、この路線は1954年に廃止、バスに置き換えられている。置き換えられたバス路線はデトロイト市バス25系統として今でも健在だが、1960年以降のデトロイトの凄まじい衰退の影響で利用客も激減、運行本数はラッシュ時18分間隔、昼間時22分間隔にまで減少している。沿線は住民の流出で空き地だらけで、今なら立ち退き不要で専用軌道の新線が建設できそうな様相である。変わらないのは所要時間のみで、バスは同区間を各駅停車の電車に比べ1分早いだけの37分で結んでいる。 |
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空き地だらけなのは郊外だからではなく、人口流出で廃屋が土に還ったから(撤去工事ぐらいは行われているとは思うが) その証拠にこれより郊外のほうyが住宅の密集度が高い |
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6−4.路面電車とLRT 上記のように、1930年代のアメリカの路面電車は日本でLRTと呼ばれる軌道系交通機関の特色を多く有していた。それでは、そういった昔の路面電車とLRTとの違いは何なのであろう。 LRTという用語は欧州生まれという印象が強いが、アメリカ由来である。1972年、アメリカの都市公共交通を監督するUMTA(都市大量輸送局)が、地下鉄とバスの中間に位置する路面電車を含む軌道系交通システムを次世代の交通システムとして位置付け、Light Rail Transit と呼んだことにはじまる。 「路面電車を含む」と記すと、高性能な路面電車=LRT、もしくは「路面電車を高性能化した交通機関が都市交通には不可欠」という、日本で広まっているステレオタイプな話に発展してしまうのだが、要は、叡山電車や東急池上線のような、地下鉄や郊外の高規格の新線のように高速運転や大量輸送を目標としていない中規模の路線に対して名づける適当な名称がなかったからLRTという名称を与えたというにすぎない。この規格に属する軌道系交通機関は、かつてアメリカでインターアーバンやサブアーバン電気鉄道として盛んに建設されたが、LRTはインターアーバン(都市間電車)ではないし、都市化された地域を走行するからサブアーバンでもない。といって路面のみを走行する路面電車でもないから路面電車でもないということで、LRTと呼ぶのが最適なわけである。その証拠というわけではないだろうが、アメリカのLRTはバス以上地下鉄以下の近郊電車の情景のかなりが凝縮されている。 |
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2006年11月7日筆者撮影 |
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このアメリカの定義を頭にやきつけておかないと、都市交通の今後のあり方と考える際に道を誤ることになる。アメリカ、そしてヨーロッパでは日本の私鉄路線に相当する電車を頻発させる都市近郊路線が少なく、それが自動車の増加を導く結果となってしまっているため、日本の近郊私鉄に相当する路線をLRTとして建設しているのである。LRTに路面区間が存在するのは、どうせ新規に建設するなら都心に路線があったほうがいいし、建設費を低減させるためには都心では路面に軌道を敷設したほうがいい。路面電車のLRT化については星の数ほどの議論が出ているが、その要点はそれだけなのである。 もっとも、日本でLRTを作ることにはメリットもある。長期の不況で高度成長期のような日本経済の爆発的な発展という減少が今後見込めないことが明らかになった現在、将来の需要増に対応するために地方都市で地下鉄や高規格の新線を作るという行動がたんなる無駄遣いだということは誰の目で見ても明らで、地方都市や、大都市の新規開発地域の交通の利便性向上手段としては中規格の軌道系交通機関を建設するのが最適なのである。しかし、LRTの効能というのはそれ以上でもそれ以下でもない。「自動車社会への反省」「自動車への対抗手段」としてLRTを見る向きもあるが、若干の高速性、低床車両、モダンな車両だけでは人々は公共交通に戻ってこない。1930年代のアメリカの事例はそれを物語っている。 |
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6−5.番外編 1920〜30年代のモダンな車両群 |
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ヤングスタウンは高性能車両をまとまった両数導入した最初の都市で、写真の車両は一挙に13両導入。 1928年に開発されたWN駆動を搭載し、静音かつスムーズな加速を実現していた。 出典 Electric Railway Journal May 1930 p267 未来的な外観に違わず、ベイブリッジを渡るために最新鋭のATCを搭載していた。 出典 Transit Journal February 1937 p53 出典 Transit Journal ? 1933 p338 駆動方式こそ伝統的な吊り掛け式の二軸単車であるが、低床構造の流線型車両は印象的である。 出典 Electric Railway Journal 1930 June p364 |
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注1)アメリカの大企業は途上国政府を潰せるほどの資本力を持っているが、そんな会社を無数に持っている連邦政府も相当金持ち(2008年の連邦予算は2兆9000億ドル-約390兆円-)なので、一企業の策略にそうそう惑わされるわけでもない(票が稼げるとか選挙が関わると話が変わるようだが・・・)。連邦最高裁は1911年にスタンダート石油を解体、さらに1935年には「公益事業持株会社法」を制定し、一つ一つがGMに匹敵する規模をもっていた電力会社群を解体してしまった。やる気になったらGMを解体するなどわけはないのである。 |
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<ページの履歴(著者備忘メモ)>
2007年1月9日新設
3月3日、デトロイトの記事を追加
7月25日、低床車の項を加筆
2009年3月21日 章番号変更(10から6へ) ちょっとだけ加筆