このサイトはアメリカ ロサンゼルスで旅客鉄道事業を展開するパシフィック・エレクトリック・レイルウェイの日本向け会社案内です。

 といいたいところであるが、パシフィック電鉄は第二次世界大戦に繁栄した会社。1953年に旅客営業を譲渡し、その後公営化された路線は1961年に廃止されている。このページは一趣味人であるWUREが作成した「アメリカ電気鉄道史」の一つの章、現在のロサンゼルスの交通事業者とは直接の関係はない(詳しくはこちらを参照)。
 今ではすっかり自動車の街と化してしまったロサンゼルスであるが、自動車が普及する直前の時代、1910年代には、稠密な電鉄ネットワークが存在し、ロサンゼルス市内の路線はロサンゼルス電鉄、郊外の路線はパシフィック電鉄によって経営が行われていた。
 別の章で説明するように、他の大都市にも大規模な郊外電車網は存在したが、単一の企業としてのパシフィック電鉄の規模は他に例をみないものである。会社は輸送需要に対応するために、複々線化や地下線の建設、巨大ターミナルビルの建設を行った。ロサンゼルスの都市構造と、民間企業としての限界ゆえ、都心部の軌道の多くは併用軌道にとどまったが、都心を通過しての東西直通運転や郊外における急行運転も盛んに行われた。こうした施策が一企業の企業努力として行われたのは驚くべき事である。1910年代から30年代にわたる会社の全盛期、パシフィック電鉄は800キロの路線(軌道延長は1700キロ)に、約1000両の車両を用いて2700本の列車を運行していた。
  しかし、これだけ大規模な会社であったにもかかわらず、幾多の変遷を経て同社の路線を利用した旅客サービスは1961年に全面廃止されてしまった。このことは、この会社の消滅理由についていくつかの伝説を残すことになってしまったが、事実は電車同士で渋滞を引き起こされたという1910年代の逸話にその端を発している。2章ではではなぞに包まれたこの会社の全貌の紹介を試みることにするが、その前に、この会社のスケールの大きさについて簡単に説明したい。

<パシフィック電鉄のスケール>

 パシフィック電鉄は、最盛期、1700キロの軌道をもっていた。この事はよく言われるのだが、あまりぴんとこない。また、路線図も登場するのだが、アメリカの地形に詳しくない人間がそれを見てもスケールが分かるわけがない。そこで、パシフィック電鉄の路線図と同縮尺の当時の日本の電車運行路線を用意し比較を行ってみることにした。

 

 上はロサンゼルスの1920年代の電車運転路線図(ロサンゼルス鉄道はロサンゼルス市内の路面電車を運行、詳しくはLARyで紹介する)、その下は同縮尺の戦前の関西圏の電車運行路線である。関西圏は戦前から集積が進んでいた事や、アメリカでは1930年代に進んだモータリゼーションが日本ではまだ起っていなかった事などから1920年代後半〜40年代に高規格のインターアーバン路線が充実し、世界有数の都市間電車網を持つに至っている。ロサンゼルスのパシフィック電鉄の路線網は地図を見てみればわかるようにこれに匹敵するものである。一社独占のため、競合路線が絡み合うような構造にはなっていないが、今では自動車王国になっているロサンゼルスにも広大な電車網があったのである。これが1961年までに完全に消滅してしまったというのは本当に驚きである。
  パシフィック電鉄は「路面電車」と紹介される事があるが、長い路線では大阪〜姫路に相当する距離があり、高速運転の為に、市街地以外は専用軌道で高床の車両を走らせていた。また、現在のロサンゼルス都市圏では、通勤鉄道やLRTの整備が進められているが、LRTについてはパシフィック電鉄の廃線跡を利用した区間もあるが、通勤鉄道は蒸気鉄道の線路を利用した別個のもの、言い換えれば、今では知られていない全く別個の鉄道ネットワークがあったという事なのである。

2003年10月03日作成
2007年03月31日サーバー移設にあわせ図面更新