<↑ メイン&6th ターミナルに停車する1200系>
1917年のElectric Railway Journalより
 最盛期のパシフィック電鉄には、1000両近くの車両が存在した。そのため、車両の種類もバラエティに富んだものであると同時に、同形式の車両がかなり生産されていてそれも面白い点である。
 パシフィック電鉄の付番方式は、連続付番方式である。京急の旧1000系などがその典型であるが、パシフィック電鉄の場合、両運転台の車両が多く、その点では、日本における東京都電や大阪市電といった路面電車に似た雰囲気をもっている。
 第二次世界大戦中から、1961年の廃止にかけての15年ほどの間は大型で運転台の窓が丸い車両が使用されている。巨大であることからこの車両は「ブリンプ(ふとっちょ)」と名づけられているこれらの車両は保存両数が多く、パシフィック電鉄の車両というとこの車両をイメージする方もいるかもしれないが、第二次世界大戦以前は他線で活躍していて、両数も50〜60両と少数である。例外的なこれらの車両を除くとパシフィック電鉄の車両は比較的小型、軽快なものが多かった。
<目次>
(1)総論
(2)「カリフォルニアカー」
(3)500系-「ファイブ」
(4)編入中型車
(5)「バーニーカー」(300系:区間運転用)
(6)50系-「ドラゴン」「バトルシップ」(パサデナ市内線用超低床車)

(7)800系-「エイト」(都市間連絡用)
(8)950系(都市間連絡用)
(9)1001系-「テン」(都市間連絡用)
(10)1200系-「トゥエルブ」(都市間連絡用)
(11)1100系-「イレブン」(パサデナ地区都市間連絡用)
(12)4500系⇒300系 (ノースウエスタンパシフィック鉄道から編入)
(13)4600系⇒400系⇒MTA1500・1700系 (インターアーバン鉄道から編入)
(14)600系-「ハリウッドカー」(近郊用車両)⇒5050系
(15)5000系-(近郊用車両:両運転台のPCCカー)
(16)荷物車・電気機関車
(17)事業用車両・その他


(1)総論

  パシフィック電鉄の車両については形式集を見れば大体わかる。3冊組の車両形式集があり、それに全形式が紹介されているのである。

  パシフィック電鉄はインターアーバンとしては車両数がもっとも多く、また、開業当初に木造車両を大量導入したあとは資金難で更新もままならなかった中西部の路線とは異なり、かなりの鋼製車両を導入している。一形式あたりの両数は数十両〜150両ほどで、同一形式数百両が当たり前であったの大都市の路面電車のように画一的ではない一方で、雑多すぎもしないというバランスのとれた構成になっている。
  初期のパシフィック電鉄の車両のかなりはセントルイス・カー・カンパニー製である。この会社、日本ではあまり知られていないが、路面電車やインターアーバンの車両メーカーとして繁栄した会社である。その他にブリル社やプルマン社製の車両も存在する。
  車両は全て抵抗制御、PCCの5000系を除けば全て吊り掛け駆動で、走行音も日本の吊り掛け車と同じようなものであった。車内は転換クロスであるが、全体的に背ずりは低く、シートピッチも狭い。但し、パシフィック電鉄は、車両の更新が大好きな会社で、木造車のかなりを1920年代にスクラップにしたし、残りの車両に関しては内装を大幅にグレードアップしたりもしている。また、全面運転台上には巨大な行先方向幕(以前は板)が存在し、トロンボーン調の警笛とともに、パシフィック電鉄の電車のトレードマークのようになっていた。

  機構面に関しては、特定車種で統合する傾向のある路面電車や地下鉄に比べると雑多である。制御装置は直接式と間接式が存在し、間接式でも総括制御できない車両も存在した。800系以降の車両は全て間接制御で多くが総括制御可能である。1200系はウエスティングハウスのALコントローラーを備え、間接制御に加え自動加速が可能であった。日本で戦後の電車の標準となったカム軸を用いた主制御機は、1100系で用いられた(ゼネラル・エレクトリック製)。
  編入車も多く、初期のカリフォルニアカーは1435mm⇔1067mmのどちらへも改軌自在の構造で、1067ミリのロサンゼルス電鉄とやり取りが行われたし、大統合においては、非ハンティントン系列の会社の車両の繰り入れが図られた。第二次世界大戦期には逼迫した輸送需要をまかなうために、サザン・パシフィック鉄道とノース・ウエスタン・パシフィック鉄道からの車両の編入が行われ、戦後の主力車両として活動することとなった。

(2)カリフォルニアカー

  ロサンゼルスの初期の路面電車の車両は、客室部分とオープンデッキ部分を持つという独特のもので、カリフォルニアカーとよばれていた。 ロサンゼルス市内の路面電車を運行するロサンゼルス電鉄ではこのタイプの車両が廃止直前まで使われていたようだが、合併直後のパシフィック電鉄にもかなりの数が存在した。
  カリフォルニアカーに類する車両は2種類存在する。
  まず、大統合以前の各社が製造した雑多な車両群で、大統合後の車番整理で100番代の車番がつけられた車両がある。50両以上存在するが、単体で10両を越えるものはなかった。
  もう一種類は200番代の車番を与えられた車両で、こちらは規格品、「ハンティントン・スタンダート」とよばれた車両はパシフィック電鉄での保有量数は100両であったが、ロサンゼルスの路面電車会社であるロサンゼルス鉄道(Los Angeles Railway)は同タイプの車両を747両も保有していたという。
200系諸元

旧PE150⇒PE280
"Power Station,Rolling Stock and Dispatching system of the Pacific Electric Railway Company", Street Railway Journal, March 12,1904,p399 より引用
両数 99両(200-299 289欠番)
製造メーカー セントルイス・カー・カンパニー
自社工場
車体長 39フィート1インチ(約12メートル)
総重量 34000〜44500ポンド
制御装置 ウェスティングハウス直接制御K11(一部K14)
モーター 50馬力×2(一部50馬力×4)
座席数 40もしくは44(シートピッチ約780mm)
製造時期 1902-1909
廃車時期 1926-1933
その他 ○中央客室、両端オープンというカリフォルニアカーの概観を持つものの、詳細や車体長が異なる他社編入のグループが60両ほど存在。100番代の車番が与えられた。
○ロサンゼルス鉄道には軌道幅だけ異なる同形式車両が大量に存在した。


(3)500系
  パシフィック電鉄の初期の近郊用車両で通称「ファイブ」。200系カリフォルニアカーとの違いはオープンデッキが片側にのみあることと総括制御が可能になった事。中距離路線で多用された他、サブウェイターミナルにも乗り入れている。
  車両は現存しないが、レプリカが製作され、ロサンゼルス近郊のサンペドロで観光用トラムとしての運行が行われている。<関連リンク>
500系「ファイブ」諸元
両数 100両(500-599)
製造メーカー セントルイス・カー・カンパニー
車体長 43フィート8分の5インチ(13.1メートル) 
総重量 40000〜60000ポンド(18〜27トン) 
制御装置 ウェスティングハウス間接式・・・500-549
GE Type M(間接式)・・・550-599
モーター 50馬力×4・・・500-549
60馬力×4・・・550-599
座席数 48(シートピッチ約760mm)
製造時期 1901-02・・・500-529
1909・・・530-549
1904-05・・・550-599
廃車時期 1934〜1939

(4)編入中型車(400番代)
  ロサンゼルス・レドンド電鉄などを中心に500系とほぼ同じ大きさ、出力の車両が製作され、パシフィック電鉄に編入されている。出力200馬力(一部例外あり)のこれらの車両には400番代の車番が与えられた。
400番代の車両概要
車番 車体長 モーター 存続期間 大合併前の使用会社 追記
400-402 33フィート 50馬力×2 ?-1923 LA&パサデナ、R&A
403 39'-2'' 50馬力×2 1898-1923 LAP
404-407 39'-2'' ? 1898-1912 LAP
408 37'-6'' 50馬力×4 ?-1933 SBVT SBVT最速の車両
409 37'-3'' 50馬力×2 ?-1927 R&A
410-413 51フィート 50馬力×4 1918-1927 1918サンディエゴ・サザンより編入 1909年客車より改造
414-419 45'-10'' 50馬力×4 1918-1941 1918サンディエゴ・サザンより編入 1909年新造
420 41'-4'' 50馬力×4 1902-1925 LA&R 1902年客車より改造
421 40'-11.5'' 50馬力×4 1902-1925 LA&R 1902年客車より改造
422 40'-1'' 50馬力×4 1903-1915 LA&R 1903年?客車より改造
423 39'-9.5'' 50馬力×4 1902-1925 LA&R 1902年客車より改造
424-427 39'-6'' 50馬力×4 1899-1927 LA&パサデナ 旧PE 一時荷物車として使用
428-429 42'-10'' 50馬力×4 1899-1927 LA&パサデナ 旧PE 一時荷物車として使用

旧PE103 424〜427と同タイプ (1903年の写真)
車番 車体長 モーター 存続期間 大合併前の使用会社 追記
430-437 45フィート 50馬力×4 1904-1928 LA&R
438-447 45'-9'' 50馬力×4 1905-1934 LA&R
448 48'-3.75'' 50馬力×4 1907-1934 LA&R
450-465 48'-3.75'' 50馬力×4 1908-1940 LA&R

ロサンゼルス・レドンド200系(PE450系)
1910年、レドンド車庫において
車番 車体長 モーター 存続期間 大合併前の使用会社 追記
466-470 43'-5/8'' 50馬力×4 1918-1935 1918年フレスノ電鉄より 1909年製造
500系と同型
471-475 45フィート 50馬力×4 1901-1933 LAトラクション 旧PE
476-479 38フィート 60馬力×4 1901-1926 LAP
481-499 39'-6'' 50馬力×4 1902-1934 LAP
R&A:リバーサイド・アーリントン(サンバナディーノ周辺)
LAP:ロサンゼルス・パシフィック(ロサンゼルス西部、ハリウッド、サンタモニカ)
SBVT:サンバナディーノ渓谷電鉄(サンバナディーノ周辺)
LA&パサデナ:ロサンゼルス・アンド・パサデナ電鉄(南パサデナ線)
LAトラクション:ロサンゼルス・トラクション(ロサンゼルス市街・・・ロサンゼルス電鉄に吸収される)
LA&R:ロサンゼルス・アンド・レドンド(ロサンゼルス〜レドンドビーチ)
 

(5)「バーニーカー」(300系:区間運転用)
 1920年前後に登場した二軸の車両群。全盛期もすぎたインターアーバンでは、需要の減少や線路の磨耗に対応するために小型車両が注目されたが、このうち2軸車についてはバーニーカーと呼ばれている。
 パシフィック電鉄でも、区間運転や市内線の運転用に70両ものバーニーカーが導入されている。モーターの出力は計50馬力に過ぎないが、車両重量も8トン程度である。
 なお、この種の軽量車両にはボギー車もある。末期の中西部などでは盛んに導入されていて、PEにも同種のものが若干数導入されている。同時期にPEはハリウッドカーを大量導入しているのでこれも一応その範疇に入るかもしれないが、ハリウッドカーのほうがやや重厚である。
 バーニーカーは市内線や東部や北部の支線区間で多用された。こうした線区の旅客営業がなくなった1940年代には廃車になっていくが、オレンジエンパイヤ鉄道博物館などに保存されている車両もある。
バーニーカー(300系)諸元
写真捜索中
両数 69両(320-388)
製造メーカー ブリル社
車体長 27フィート9.5インチ〜29フィート9.5インチ
(約8.5〜9メートル)
総重量 14700〜16000ポンド(6.5〜7.2トン)
制御装置 GE タイプK(直接式)
モーター 25馬力×2
座席数 32(シートピッチ約720mm)
製造時期 1918(320-339)
1920(340-388)
廃車時期 1935〜1941

ダブルトラックバーニー車諸元
Electric Railway Journal, 1931, Sept, p462
両数 15両(100-114)
製造メーカー セントルイス・カー・カンパニー
車体長 38フィート3インチ
(約11.6メートル)
総重量 38000ポンド(17トン)
制御装置 GE タイプPC-M(間接式)
モーター 35馬力×4
座席数 40
製造時期 1930
廃車時期 1950
その他 一回り大型のブリル車製が3両存在(150-152)
1933年フレスノ電鉄より取得(1925年製造)、1941まで使用

(6)50系-「ドラゴン」「バトルシップ」(パサデナ市内線用超低床車)

 別の呼び方では「ステップレスカー」とも言われる。中央に運転台があるという点ではハリウッドカーと同様であるが、中央付近の床が低くなっていて、入口に段差がないのが特徴の車両である。この形態は最近の名鉄800系で使われているものとよく似ているが、違うのは登場年代。1913年に登場。現在日本で騒がれているバリアフリーにいち早く対応した車両であるが、外観が悪いのが玉に傷といったところか。
 なお、PEに先駆けて、ステップレス車はニューヨークの路面電車で導入されている。ニューヨークの方は2階建てだが、PEの方は平屋となっている。
 名鉄800系は、車輪径の違う車輪を用いた特殊な台車を用いていたが、これらの車両も「マキシマムトラクション」という、駆動軸側の車輪径が大きい1台車1モーター片軸駆動の台車を使用している。ただし、この台車は低床車専用というわけではなく、東京電車鉄道の初期ボギー車(250形など)、当時の日本のボギー車などでもよく用いられた台車である。50系の場合は特殊な車体を支えるために鋼製車体を持つことから、やや非力なのが気になるが(18トンで計100馬力)。

  この車両、あまり有効な使われ方をされなかった。当初、併用軌道ながら輸送量の大きいハリウッドライン(ダウンタウンLA〜ハリウッド)での運用を意図して製作され、総括制御装置や電気連結器を搭載するなど、連結運転を前提とした装備を持っていたが結局使われることなく撤去。当初導入車はパサデナ市内線、編入車はロングビーチ市内線に投入された。その後、ロサンゼルスダウンタウンのエデンデール線も用いられたが1930年代中ごろに引退している。 
パサデナ市内線で運用中の304(後の54)

Electric Railway Journal 1915年9月18日の特集記事より

50系「ドラゴン」諸元

マキシマムトラクション台車の詳細なディティ−ルが良くわからないので車輪径のみ記す。この窓配置だと、車端部の座席配置が気になるところだが、車端部の座席は窓より高い位置に設置されていて、窓ガラスを保護するための柵が設けられていた。
両数 31両(50-80)
製造メーカー J.G.ブリル
車体長 44フィート
(約13.4メートル)
総重量 40904ポンド(18トン)
制御装置 GE Type M(間接式)・・・50-69
GE K36(?)・・・70-80
モーター 50馬力×2
台車 ブリル62E-1
座席数 51(シートピッチ711mm)
製造時期 1913
廃車時期 1934
その他 ○床高さ35センチ
○50-69 当初からPEで運用
当初の車番300-319(1921年改番)
○70-74 1921年サンノゼ鉄道から
○75-80 1921年ストックトン鉄道から
○50-69は当初、電気連結器搭載。1914年に撤去。
 

(7)800系-「エイト」(都市間連絡用)

 1903年に大合併前のパシフィック電鉄が製造した本格的な都市間連絡用(インターアーバン)用車両。130両程度が製造され、初期の会社の代表的な車両となる。
 この電車の特徴は、この時代にしては画期的な走行性能を持っていたことである。時速60マイルでの走行を前提に製造されたこの車両の性能最高速度は70マイル。この速度で走行するのに、運転台、デッキ部分がオープンなのが玉に傷のような気もするが、登場当初はカリフォルニアカーと同じで一部オープンデッキだったという。長さは約15メートル(49フィート2インチ)、モーターは75馬力×4であった。
 この車両、木造車なのに窓が非常に大きい。小さい窓がずらりと並ぶ日本の木造車とは随分印象が異なる。
 路線廃止による会社再建計画が実行に移される1940年頃、廃車となる。
800系「エイト」諸元
5両編成の800系 1909年の写真で、旧番号の300番代を名乗っている
両数 製造両数137両、800系として車番が与えられたもの129両(800-929)
製造メーカー セントルイス・カー・カンパニー
車体長 50フィート 10-8分の1インチ(約15.5メートル)
総重量 電動車 密閉改造前67500〜70400ポンド(30.4トン〜31.7トン)
     密閉改造後74060〜77000ポンド(33.3トン〜34.6トン)
付随車 49300〜53300ポンド(22.1トン〜24トン)
制御装置 間接式(GE製及びウェスティングハウス製)
モーター 65馬力×4・・・800-870
75馬力×4・・・871-901 919-928
トレーラー・・・900-918 うち912-917は1912年に電装(125馬力×4)、906-911 1911〜1913年に試験的に電装(125馬力×4)
台車 セントルイス23B(Class A Swing Bolster)
座席数 56(シートピッチ775mm)
製造時期 1902-1906
廃車時期 1934-1941(1921年に7両焼失)
その他 ○一部車両はオープンデッキが完全に剥き出し(網で保護)であったが、1908年に改造し、壁をつける。引き続き、オープンデッキには窓が無かったが、1928年、窓ガラスを入れ、密閉化、座席を交換し、喫煙セクションとする。付随車や一部車両に関しては施工しないまま、1930年に運用休止
○6両の行方が未確認、ナパバレー電鉄に移籍との説がある
 
(8)950系(都市間連絡用)
 ロサンゼルス・パシフィック鉄道の手により1907年に製造された車両で、内装を少しレベルアップさせている車両も含めると49両存在した。もともとはロサンゼルスパシフィックが計画していたロサンゼルス〜ヴィンヤード間の地下鉄用に製作されたものであるという。この車両は使い勝手がよく、ロサンゼルス・パシフィックは50両の追加発注を行う計画を立てたが、1907年に起こった恐慌のせいで実現しなかった。
 車体は800系とほぼ同じ構造だが、ギヤ比が異なるためにスピードは出なかったという。ロサンゼルス・パシフィック時代はサンタモニカに向かう路線の主力として活躍。大合併後しばらくはパサデナ方面で活躍していたのだが、パサデナに1100系が入り、古巣のハリウッド、ヴェニス、サンタモニカ方面の路線に転用された。当初は700系を名乗っていたが、600系ハリウッドカーが100両を超える大世帯になったためにこれに番号を譲って改番。1940年〜50ごろ廃車。
<↑ 1924年の3月8日発行の Electric Railway Journal のGEの巻末広告。1100系の登場予告として、700系と呼んでいた時代の950系の写真が掲載されている。車両の下は1100系に搭載される予定の電動機、主制御器、マスコン>
950系(700系)諸元
ロサンゼルス・パシフィック鉄道時代の950系
両数 通常仕様44両(950-993)
特別仕様5両(994-998)
製造メーカー セントルイス・カー・カンパニー
車体長 49フィート2インチ(約15メートル)
総重量 電動車 密閉改造前74800ポンド(33.7トン)
     密閉改造後78900ポンド(35.5トン)
制御装置 間接式(GE タイプM)
モーター 75馬力×4
台車 セントルイス61A(Class A-4 Swing Bolster)
座席数 56(シートピッチ762mm)
製造時期 1907
廃車時期 1940 17両
1950 32両
その他 ○オープンデッキには窓が無かったが、1928年、窓ガラスを入れ、密閉化、座席を交換し、喫煙セクションとする。
○994-998は観光用の特別車として製作された021-025を1922・1923年に一般仕様に改造、1927年に改番した車両
○この他に、ロサンゼルス・パシフィック鉄道のビジネスカー(豪華社用車)を1929年に改造した999が存在。座席定員、性能は950系と同一であるが、800系と1001系の中間のデザインを持つ
 

(9)1001系-「テン」(都市間連絡用)

 大合併終了後の輸送需要の激増に対応するために1913年に50両ほどが製造された車両で東部地区に存在した1200ボルト電化区間に対応している。車長が16.6メートル(55.5フィート)と長くなり、100馬力のモーターを4つ搭載していた(140馬力のモーターを搭載した例外と附随車あり)。やはり車体は木造で、登場当初は客室の半分に窓がなかった(オープンスペースがあった)。室内にはバリエーションがあり、中距離運用を考慮して便所、化粧室を設けた車両もある。1947年から50年にかけて廃車になるが、1両(1038)が復元工事を受け、サンペドロ市内で復元運転を行っている。
 1000系列に限り、1001系としているのは、1000が特別車であるため。
<1001系:窓の大きさに注目。車体強度は大丈夫なのか気になるが、この車両は木造車なのである(骨組は鉄であったが)。台車は日本の初期の電鉄車両や路面電車でも使われたブリル27系列。この車両で用いられたMCB3Xが日本で使われたかどうかは不明であるが。絵右サイドのデッキの乗降扉が描かれていないが、運転台右側の出入り口にはドアがなかったのである>

1001系諸元
特別列車として運用中の1037
Electric Railway Journal 1915 p477
両数 52両(1001-1044 1050-1057)
製造メーカー ジュエット・カー・カンパニー
車体長 55フィート6と1/4インチ(16.9メートル)
総重量 100馬力車81700ポンド(37トン)
140馬力車85200ポンド(38.6トン)
制御装置 間接式(ウエスティングハウス製)
モーター 100馬力×4
1001-1012は1919年 140馬力×4に換装
台車 ブリル27MCB3X
座席数 64(シートピッチ:禁煙セクション762mm 喫煙セクション739mm)
製造時期 1913
廃車時期 1943-1950
運用地域 ロングビーチ線、サンタアナ線、サンペドロ線
その他 ○1050-1057はサンノゼのぺニンシュラ鉄道で活躍していたものをパシフィック電鉄が1933年に購入、1937年にアルハンブラ・サンガブリエル線で使用開始、戦時輸送で用いられた後、1950年までに廃車
○600V/1200V両対応である事からサンバナディーノ線の走行が可能であったが、1200系の登場のため使用は短期間に終わった
○1045、1046は1919年にバイサリア電鉄から移籍した車両。概観、仕様ともに異なるが、引き通し線を設けて1001系の付随車として1934年まで使用。

(10)1200系-「トゥエルブ」(都市間連絡用)

 パシフィック電鉄の都市間連絡用鋼製車。もともとは木造車として計画されていたのだが、1913年に死傷者が出る大事故が発生、これを教訓に車体強度の高い鋼製に設計変更されたのである。1000系を鋼製にしたような設計であるが、屋根がパシフィック電鉄の木造車に特有のダブルルーフから丸屋根に、前面が5枚窓から3枚窓になった。これらは1100系にも引き継がれている。
 1915年から1920年代前半に52両が製造され、サンバーナーディーノ線(東部へ向かう幹線)用とロングビーチ線用で仕様と製造年代が異なる。重量があるために、140馬力のモータを4つ搭載しているが、ギヤ比に違いがあり、最高速度と加速度に違いがあることや、化粧室の有無が大きな仕様の差である。
 また、1200系の番号を与えられた電車のうち、後半の12両はサザンパシフィック鉄道のオレゴン電車線から1929年に転入してきた(1912年製造)ものである。車長は他の1200系とほぼ同じで、モーターを交換することで性能も合わせてあったようだが、運転台の部分の窓が「ブリンプ」と同様丸窓である事が大きな相違点である。
 ところで、140馬力とは105KWの事である。パシフィック電鉄では最大級のモーターであるが、加速が要求される併用軌道を走る事を考えるとちょっと心もとない
4)。メイン・6thターミナルに向かう高架区間の取り付け部分には30パーミルという急勾配も存在した。実際、この形式にはモーターなしの制御車も存在したのだが、1M1Tでは運用できず、トレーラーの活躍は三両運転時(2M1T)に限られたという。
1200系諸元
1240 横揺れ対策のため弓形の台車は後に角型(日本の複製版の日車D型タイプと同じ)のものに交換される
 1922年の Electric Railway Journal の記事より

ポートランド近郊電車線時代の丸窓の1200系
704はおそらく後のPE1260になった付随車である
Electric Railway Journal, 1914, Feb. 14, p360
両数 64両(1200-1263)
製造メーカー 1200-1221 プレス・スチール・カー・カンパニー
1222-1251 プルマン社
1252-1263 プルマン社
車体長 58フィート1インチ(17.7メートル)
総重量 1200-1221 109200ポンド(49.5トン)
1222-1241 108080ポンド(49.0トン)
1242-1251 約80000ポンド(36.2トン)
1252-1263 102400ポンド(46.4トン)
制御装置 1200-1221 間接式(GE TYPE M)
1222-1251 間接式(ウエスティングハウスAL 単位スイッチ方式間接自動加速)
1252-1263 間接式(GE TYPE M)
モーター 140馬力×4
1242-1251は付随車
台車 ARA Double Equalizer
座席数 1200-1221 60(シートピッチ851mm)化粧室付き
1222-1251 64(シートピッチ851mm)化粧室なし
1252-1263 60(シートピッチ863mm)化粧室付き
製造時期 1913・・・1252-1263
1915・・・1200-1221
1921・・・1222-1251
廃車時期 1943-1951
運用地域
その他 ○1200番代を名乗るものの、鋼製でドア、窓配置が大体同じというだけで、3種類は全く別物。但し、混結は可能であった模様。
○1252-1263は1929年にサザンパシフィックのポートランド近郊電車線より編入
 

(11)1100系-「イレブン」(パサデナ地区都市間連絡用)

 パシフィック電鉄のインターアーバン車両としては最後に製造した車両で1924年に一挙に50両(すべて同一形式の電動車)が登場。この車両も鋼製であるが、1200系との大きな違いは出入り口にある。車両の両端にドアがあるのは同じであるが、2つの扉を並べてスムーズな乗降が出来るようになっているのである。また、比較的短距離を走る事から、化粧室も省略されていて、東部の1200V電化区間は走行できない。
 車体重量が43トンあるのに対してモーターの出力は110馬力(110馬力×4)、1200系とは異なり、全電動車運転を前提としていたからということだろうが、ちょっと心配な点でもある。実際はどうだったのだろうか?
 1951年、パサデナ周辺の路線は複々線区間を含めて廃止となった。比較的車齢の若い1100系は他線に転用する事も可能であったが、定員が多い「ブリンプ」が生き残って、1100系は路線廃止に先だって1950年に全車がブレノスアイレスに渡った(段階的に路線縮小が行われその際に余剰となった5050系などがかわりに使用された)。このために、他形式のかなりの車両が保存されているにも関わらず、アメリカには残存していない。
1100系諸元
両数 50両(1100-1149)
製造メーカー スタンダート・スチール・カー・カンパニー
車体長 57フィート4インチ(17.5メートル)
総重量 96700ポンド(43.8トン)
制御装置 間接式(GE-PC 電空カム式間接自動制御)
モーター 110馬力×4
台車 ARA Cast Steel Double Equalizer
座席数 60(シートピッチ813mm)化粧室なし
製造時期 1924
廃車時期 1950-1951
運用地域 北部地区
その他 ○1200系とは同形態で、どちらともウエスティングハウスのオートマティック・カプラ-(電気連結器)を持つが、制御装置が全く異なるため混結は不可
○ロサンゼルス鉄道(Los Angeles Railway)に一回り大きさを小さくしたような鋼製車両が250両存在した。ただしこちらはセントルイス・カー・カンパニー製
 

(12)4500系⇒300系 (ノースウエスタンパシフィック鉄道から編入)

 パシフィック電鉄と言うと長大重厚、かつ運転台の窓が丸い電車を思い出す人が多いかと思われる。最初に述べたように、これらの電車はパシフィック電鉄オリジナルではない。しかし、パシフィク電鉄の路線で最後に活躍した車両ではある。
 これらの車両、通称「ブリンプ」は、サザンパシフィックのオークランド近郊の電車線、通称「インターアーバン鉄道(IER)」および、ゴールデンゲートブリッジを渡ったサンフランシスコの北で活躍していた「ノースウェスタンパシフィック鉄道(NWP)」のものである。ここでは、ノースウェスタンパシフィック鉄道出身の4500系を紹介しよう。
 4500系の前身、ノースウエスタンパシフィック鉄道の250〜256と375〜386は1929年から1930年にかけての製造、基本設計は1910年代設計のIERの車両と同じようなものだが、車体はアルミ製で、そのため、車体長が22メートルあるものの車体重量は50トンに抑えられている。NWP時代は第三軌条集電であったが、PEに入線後はポールが取り付けられている。次に説明するIERの車両に比べてシートピッチが広く、窓間隔も若干異なる。
 この電車は1942年(旧版では1943年と誤植していました 修正・お詫びします)にパシフィック電鉄に入線した。パシフィック電鉄はじまって以来の大型電車だったために、ロサンゼルス市内の併用軌道上のカーブではカーブ上でのすれ違いが出来ず、危うく1200系と接触しそうになったり、アンタアナ市街では交通標識を壊すなどの障害が起こった。アメリカには車両限界という考え方がないのか?と思ってしまうが、勿論そういうわけではなく、専用軌道では問題はなく、併用軌道上の一部で起こった支障で、これも直ちに修正が行われている。1943年には付随車の4512〜4518の電動車化も行われた。
 戦後の1946年には改装・改番、座席の4-4化といままで金網であった出入り口をきちんとした扉への置き換えが行われている。パシフィック電鉄に入線当初は付随車には禁煙-喫煙の客室の仕切り壁がなく、定員も多かったのだが、この際に仕切り壁の導入が行われ、共通化が図られたようである。ただし、一連の改装はそれほど大規模ではなく、10年後の廃車を意図(但し、鉄道をなくそうという話ではなく、高速新線の導入で不要になるという可能性も考慮していたようだが)したものだったという。
  それ以降はサンタアナ線とロングビーチ線の主力として活躍、1950年代に相次いで廃車となり、一部が1500系となり最後まで残存した。アルミ車体であることと、酷使されたことからか急速に老朽化が進んでいたという。
4500系⇒300系系諸元
写真捜索中
両数 19両(電動車 4500-4511 付随車 4512-4518)
→1946〜47年に 300-318
製造メーカー セントルイス・カー・カンパニー
車体長 72フィート10インチ(22.2メートル)
総重量 空車時110400ポンド(50トン)
制御装置 間接式(ウェスティングハウス製)
モーター 140馬力×4
台車 セントルイス社製鋳鉄台車
座席数 電動車98 付随車103
(シートピッチ813mm)2-3配置 化粧室なし
1946年〜47年→定員80人へ
製造時期 1929-1930 PEでの運行開始は1942年
廃車時期 1952-1961
運用地域 南部地区
その他 (車両番号などにかなり変遷があり、情報に誤りが多く含まれている可能性があります)
 
(13)4600系⇒400系⇒MTA1500・1700系 (インターアーバン鉄道から編入)

 インターアーバン鉄道は、もともとサンフランシスコ対岸のオークランドのサザンパシフィック鉄道の近郊輸送路線を一会社として独立させたものである。この路線はもともと蒸気鉄道だったが、1911年に電化、その際に導入されたのが、22メートル級の巨大電車群だったのである。同型の車両が1924年まで製造され、延べ両数は147両に及んだ。この路線はベイブリッジを経由してサンフランシスコにも乗り入れたが、需要が減少した事から1941年の夏に路線を廃止している(路線の一部はキーシステムに譲渡された)。
 運の悪い事にこの年の12月に日本との戦争が始まった。アメリカの戦術はとにかく物量戦で、サンフランシスコやサンペドロの造船所では大量の輸送船の製造がはじめられる。ガソリンが配給制となる中、工場の円滑な操業のため、大量の工員を輸送する列車の増発が必要であった。
  パシフィック電鉄では800型の大量廃車を終えたばかりで、車両数は不足していた。戦時下の海運を監督していた米国海事委員会という組織は、この事態に対し、車両の供給を計画、白羽の矢が発ったのが、インターアーバン鉄道の車両であった。海事委員会は81両の車両を獲得、20両をポートランドに送り、61両をパシフィック電鉄のトーランス工場に送った。パシフィック電鉄ではこのうち59両が使用された、このうちの4両は荷物車で、55両がPEで使われた。そのうち、48両にPEの4600番代の車番が与えられ(1946年の事故により4601は二代目が存在)、47両が戦後輸送で活躍した。インターアーバン鉄道出身の車両も改装工事が行われていて、2-2配置への座席の変更、禁煙室-喫煙室の仕切り壁の設置も行われている。
サザン・パシフィック鉄道近郊電車線の風景
 なお、この電車の特徴の一つである運転席の丸窓は、2次車以降のもの、1次車はPEのオリジナル車両をも凌駕する巨大な四角窓だったが、路面区間走行時に窓ガラスが割れる事故があり、1920年代に丸窓に改造されたものである。鋼製車の運転台の丸窓はニューヨークセントラルの近郊電車線の車両などでも用いられており、ある程度の勢力を保っていたことは確かだが、当のアメリカ人はこのデザインをどう評価していたのだろう。
 これらの電車は車体長72フィート(22メートル)大きいだけに非常に重い。しかし、モーターはそれほど大きくはない。ロサンゼルスの博物館(トラベルタウン)に保存されている1543は61トンであるのに560馬力であるという(情報はこちら ただし、製造当初時代の重量は52.5トンとなっていて、それほど重いわけではない、改装工事などが関係しているのだろうが)。また、長大なので併用軌道でのカーブ通過に備えて連結時の車両間間隔が広く取られている。
 通常は最大3両の運行であったが、戦時輸送期と最末期にのレイルファンによる特別運行時には5両編成での運行が行われている。専用軌道区間のみ5両運行を行ったのかと思っていたのだが、ロサンゼルスの6thメインから併用軌道を含めて5両運行を行ったらしい。連結器間隔を加味した場合、合計で何メートルになるのか・・・。
 最後の運行まで活躍するが、その甲斐あってロサンゼルスのトラベルタウンの他、オレンジエンパイヤ鉄道博物館でも数両が保存されている。

 ちなみに、オークランドの造船場への工員輸送では新規の鉄道敷設が行われている。車両はニューヨークマンハッタン島で1940年に廃止になった高架鉄道の車両を使用。高架鉄道の鉄材は日本に輸出されたというから、軌道と車両が間接的に戦争をしたようなものである。
4500系⇒300系系諸元
両数 48両(4600-4647)
→1946〜47年に 400-436 450-459へ
→さらに1958年に1515-1545 1700-1718へ(37両 欠番あり)
製造メーカー ACF(1911年 4600-4609 4620-4647)
プルマン社(1913年 4610-4619)
セントルイス・カー・カンパニー(1924年製造分)
車体長 72フィート10.5インチ(22.2メートル)
総重量 空車時115840ポンド(52.5トン)
制御装置 間接式(GE TYPE M)
4639-4647は電空カム方式
モーター 140馬力×4
台車
座席数 111→改装工事で80人へ
製造時期 1913-1924 PEでの運行開始は1943年
廃車時期 1953-1961 1両事故廃車あり
運用地域 南部地区
その他 最高速度がわずか時速38マイルだったので、編入時に弱め界磁制御を追加、これにより最高速度は時速50マイルと、既存車両のやや遅いものの部類に入ることができた。
(車両番号などにかなり変遷があり、情報に誤りが多く含まれている可能性があります)
 
(14)600系-「ハリウッドカー」(近郊用車両)⇒5050系
 1922年から1925年に登場した、郊外路線用の中型車両で160両も存在した。といっても、低床で中央部に乗降口がある姿は、戦前の大阪市電の標準車や阪堺電車などによく似た形態である。もっとも、長さ13メートル程度であったそれらの車両に比べ、この車両の車体長は15メートル以上もあったが。
 この車両は、北部、南部の複々線区間(シエラビスタ線−ワッズローカル線)の他、ハリウッド周辺の路線で活躍した。ハリウッドカーという名前の語源はそこにある。
 ほとんどの車両が更新工事をうけ、床下をカバーで覆った。また、一部の車両はワンマン化され5050系となった。使い勝手がよかったことと、製造年代が新しいことから多くの車両がかなり後期まで使われ、ブリンプとともに、末期の公営化以降も活躍していた車両もある。
 
600系諸元
600系(改装前):昔の大阪市電や阪堺電車の車両に共通するスタイルであるが、車体長が15メートルあり、しかも、最初から運転台左側の窓がない(現在の阪堺の車両はワンマン化改造で右側扉を撤去)絵の車両は妙な台車を履いているが、セントルイスNO72と言う日本では全く馴染みのない台車を履いているので写真などを手がかりに想像で描いた。写真の車両は地味だが実際には側面に広告が掲示されたりしていた。車内は転換クロスシートだが、恐ろしくシートピッチは狭い。
両数 160両(600-759)
→600-730は1949年に 5050-5181へ
→さらに1958年に残存車は1800-1815へ
製造メーカー セントルイス・カー・カンパニー(1924年 650-699 1928年 750-759)
J・G・ブリル(1925年 700-749)
車体長 52フィート2インチ(15.9メートル)
総重量 57800ポンド(26.2トン)
制御装置 間接式(上スティングハウスHL)
モーター 50馬力×4
台車 セントルイス72(鋳鉄台車)
座席数 65
製造時期 1924 1925 1928
廃車時期 1952年に732-759はアルゼンチンの鉄道会社へ売却
1953年に650 671 673 674 675 677 680 691はポートランド電鉄に売却
その他は1953-1960年にスクラップ
運用地域 全域
その他
  

(15)5000系-(近郊用車両:両運転台のPCCカー)
 PCCカー、それは、自家用車やバスに対抗するために路面電車会社が共同開発した(省エネとかバリアフリーとかを考えない限りは現在でも通用する)究極の路面電車である。
 この車両、車輪はゴムをはさんでいて、おまけにモーターを直接車輪に取り付けないという機構を使用し、静かで震動も少ない。おまけにモーターは1個55馬力と路面電車としては強力、しかもギヤ比が高めてあって、軽量車体と相俟って6.5キロ/時・秒という驚異的な加速(日本の阪神ジェットカーは4.5キロ/時・秒)が実現されたのである。しかも大量生産によるコスト削減も実行されているという理想的な車両で、この車両を大量導入したピッツバーグではこの車両のおかげかどうかはわからないが幾多の統廃合を繰り返したというものの、路面電車の存続に成功している。
 PCCカーは路面電車用でロサンゼルスでも市内のロサンゼルス電鉄に導入されたが、パシフィック電鉄にも入っている。通常、PCCカーはアメリカの路面電車が終端ループでおり返す事から片運転台なのだが、パシフィック電鉄ではこれが出来ないので両運転台になっていて、これが大きな特徴となっている。ちなみに、ロサンゼルス電鉄の線路幅は3フィート6インチ、すなわち1067ミリで、狭軌用のPCCカーとして珍しい存在でった(ちなみに、東海岸のフィラデルフィアには標準軌間より広い線路幅の路面電車が残っていて、過去にはPCCカーも活躍していた←2005年に路線を一部復活させた際、PCC車を改装した車両を導入)
5000系諸元
準備中
両数 30両(5000-5029)
製造メーカー プルマン社
車体長 50フィート10インチ(15.5メートル)
総重量 41600ポンド(18.8トン)
制御装置 間接可変加速方式
加速度 6.5km/s/s
モーター 55馬力×4
台車 PCC標準軌間用台車B2
座席数 59
製造時期 1940
廃車時期 1956年に運用停止
1959年にアルゼンチンへ売却
運用地域 グレンデール・バーバンク線
(ベニス・ショートラインでの試験運用経験あり)
その他 非常減速度は12.8km/s/s
  
(16)荷物車・電気機関車

 パシフィック電鉄では貨物輸送も盛んであった。一般的にインターアーバンが得意とする軽量貨物や小荷物輸送の他、都市間鉄道が運んできた各種貨物をロサンゼルス各地に輸送する業務も盛んにやっていて、こちらの方は旅客営業が廃止され、さらに会社が吸収、合併をした現在でも脈々と続けられている。
  旅客輸送全盛時代には、凸型の小型電気が多数存在し、貨物列車の牽引にあたっていた。電気機関車は総じて小型で、最大のものでも900馬力であるが、電車と同じ機構を持ち、扱いやすかったものと想像される。出力のわりに牽引する貨物列車の重量は重く、300馬力の1553は1710トンを牽引、1556系列の560馬力車両に
至っては2300トンを牽引したという。後の900馬力級の1601は速度向上に重きをおいた性能だったようだが、空車60両(1200トン)を牽引するなどの記録を残している。
 電気機関車は旅客営業の縮小期に、ディーゼル機関車に置き換えられている。ディーゼル機関車はPEの文字が入り、信号用の軌道回路駆動用にポールを備えた独特のものであるが、基本的にはサザン・パシフィックからのリースである。1950年代後半にディーゼル化が完了し、現在でもかなりの貨物輸送が存続しているというものの、普通の入れ替え貨物鉄道と変わりないものとなってしまっている。
電気機関車概要
車番 車体長 モーター 存続期間 追記
1544 35フィート 125馬力×4 1906-1952 1902年ノース・ウエスタン・パシフィック線用として建造
1550-1551 30フィート 50馬力×4 1908-1935 ロサンゼルス・レドンドが建造
1552 32'-3'' 50馬力×4 1906-1948 ロサンゼルス・パシフィックが建造
1553-1554 32'-3'' 75馬力×4 1908-1949 ロサンゼルス・パシフィックが建造
1555 32'-3'' 75馬力×4 1910-1935 ロサンゼルス・パシフィックが建造
1556-1565 32'-1.5'' 75馬力×4 1918-1948 1557 1558 1560 1562 1563は140馬力×4
1590-1591 32'-2'' 75馬力×4 1920-1952
1592-1593 200馬力×4 1948-1952 工場入替用として1927年に製造されたものを購入
1599-1600 31'-2'' 200馬力×4 1905-1951 1599は1921年に1600のコピーとして製造
1601-1618 34'-8'' 225馬力×4 1912-1956 HL方式で総括制御可能
1919-1631 34'-8'' 205馬力×4 1924-1957 GE製制御器で総括制御可能
パシフィック電鉄の代表的電気機関車1601シリーズ

1600の写真
1908年ごろ(51は車番整理前の番号である)

やはり1601シリーズで1611の写真
CP200となっているがこれはオークランド電車線で用いられていた時の車番
これはパシフィック電鉄に編入直後のものでパンタグラフはポールに変えられたが、車番変更は未完ということらしい
  

(17)事業用車両・その他

 パシフィック電鉄には、架線点検車、クレーン車、火炎放射により線路上の雑草を取り除く(アメリカらしい発想といえばそうだが)車両などユニークな車両が多数在籍した。両数が多いのは路線延長800キロならではではある。

○ワーク・モーター
  電動フラットカーとでもいうのであろうか。フラットカーに運転台をつけたものなのだが、運転台の位置は真中、両端に運転台をつけてもポールが邪魔になって効率が良くないという判断なのだろうが、怪しいデザインの車両である。
  別の見方をすると、機械室を省略した電気機関車ともいえるかもしれない。実際、下の写真でもそうなっているのだが、貨物牽引用の小型電気機関車として扱われていたようである。代表的な1531シリーズは1902年から1903年にかけて11両が製造、300馬力と出力的には上記の電気機関車と変わりがないこれらの車両の多くは1910年代前半に本格的な機関車タイプのカバーをつけ、機関車として活躍することになった。
ワーク・モーター(1531系列)

○タワーカー(架線保守作業車)
架線敷設と保守点検に使われた車両をアメリカではタワーカーと呼んでいる。荷物車を改造して屋根上に検査台を設けたような車両と、上の写真のワークモーターのような車両に検査用のやぐらが設けたものの二種類に大分される。
パシフィック電鉄にはおよそ30両が存在。1700番代の車番(1700から1735)を与えられていた。

○ダンプカー
車のダンプカーと一緒で、荷台を傾けて砂利を下ろす事が出来る車両。荷台が動く事を除けば日本の私鉄の無蓋電動貨車によく似た形態を持つ。9両存在。

○クレーン車
パシフィック電鉄には8両ほどのクレーン車が存在した。そのうち6両は小型のもので、レールなどの持ち上げに利用されたようだが、2両は大型で、中でも003は脱線した電車の復旧に使うために数十トンの持ち上げ能力を有していたという。パシフィック電鉄は電車同士、もしくは電車・自動車の衝突事故が絶えない路線で、そんな時に出動するのは003であった。003は1912年に登場、旅客営業の終焉後の1963年まで活躍を続けた。クレーンの動力は電力で、架線撤去後は電気式ディーゼル機関車から動力を得ていたという。

○ウィードバーナー00195
インターアーバン路線にとって路盤の隙間から生えてくる雑草の刈り取りの手間は悩みの種であったが、パシフィック電鉄では1940年に旅客車両だった810に火炎放射装置を装備、火炎放射で雑草を焼き払う「ウィードバーナー」に改造している。パシフィック電鉄の車両形式図"Cars of Pacific Electric"によれば、装置はもともと事業用車1840に装着されたものであったというから、この種の車両の歴史はもう少し古いようである。
1948年、パシフィック電鉄は除草剤による雑草処理を行うようになり、この車両も8年でその役目を終えることになった。

 

更新情報
2003年10月10日更新
2005年4月23日 訂正と総論の加筆
      4月30日 写真追加

2007年3月31日大幅加筆と移転