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4.サウス・ショアー線
−最後のインターアーバン−

 どこにでも電車がある日本に比べると、アメリカで電車が走行している区間は非常に少ない。1963年のノースショアー線の廃止後の公共交通の一番厳しい時代を生き延びた路線は、


地下鉄       :ニューヨーク・ニューアーク・ボストン・フィラデルフィア
            クリーブランド・シカゴ
郊外鉄道     :シカゴ・ニューヨーク・フィラデルフィア・ニュージャージー
路面電車     :ボストン・クリーブランド・フィラデルフィア・ニューオリンズ
           ピッツバーグ・サンフランシスコ
インターアーバン:シカゴ−北インディアナ(サウス・ショアー線)

 などの限られた都市の限られた路線に過ぎない。さすがに純粋な地下鉄に廃線はないようだが
(1、蒸気鉄道を一部電化して行っていた郊外旅客輸送サービスが廃止になった例は各地にあり、路面電車も縮小の憂き目にあったのである。
 最初に記したが、このようないくつかの形態の電気鉄道の中で、インターアーバンはもっとも存続が危うい存在である。いまで言う都市間高速バスを専用道路を建設・維持して行うようなものであるから、道路が発達すれば、廃線になるのは運命づけられたようなものであった。しかも、インターアーバンの路線の中には今ではもはやグレイハウントの都市間路線バスすら走らないような町を通過するものも多い。最後まで残った路線の多くは貨物輸送の比重が高かったり、通勤輸送や都市の郊外路線として活躍していたものである。
 現在、インターアーバンとして登場し、旅客輸送を存続させている路線は2つある。シカゴとインディアナ州北部を結ぶサウス・ショアー線と、フィラデルフィアのノリスタウン線である。このうち、ノリスタウン線は完全な郊外鉄道と化してしまったが、サウスショアー線はコミュターレールの性格を帯びつつも、初期のインターアーバンの雰囲気を色濃く残す路線で、「最後のインターアーバン」と呼ばれる。
 ここでは、この路線の現在までの歩みを辿って行きたい。


<もくじ>
(1)現在のサウスショアー線
(2)歴史@ −交流電化のインターアーバン−
(3)歴史A −インスル帝国の時代−
(4)歴史B −苦難の時代ー
(5)車両そのほか


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(1)現在のサウスショアー線

 人口密度が日本とは明らかに異なるアメリカでは、都市部と郊外部に純然たる差が存在する。1軒あたりの住宅面積が大きいから、中心部を除くと低密度拡散型に市街地は広がるのだが、それでも中心部をある程度離れると、森や畑の中に市街地が点々、という様相になる、そうした郊外地域を結ぶ鉄道をアメリカでは一般的にコミューターレールと呼んでいる。この種の鉄道は都市部に乗り入れる蒸気鉄道会社が副業的にやるのが一般的であるが、ニューヨークやフィラデルフィアの大都市圏では、郊外輸送に重点を置く会社も存在した。コミューターレールはインターアーバンよりは客を掴む事が出来たのだが、それでも第二次世界大戦後は経営が苦しくなる。かなりの列車が削減され、残ったのはシカゴ、ボストンと前述の2都市程度であった。
シカゴ ランドドルフ駅で出発を待つサウス・ショアー線の電車
営団5000系電車を思い出す

 サウスショアー線は、現在では、シカゴのコミューターレール「メトラ」の一路線のように扱われている。列車が朝のシカゴ方面と、晩のシカゴ発に集中する事はコミューターレールそのものなのであるが、少々違う面もある。運営主体が他のメトラ線と違い、公式ホームページの路線案内でも特別のロゴマークが入っているし、車両は平屋建の電車、しかも日本車両製とはいえ妙に日本的な電車がつかわれている
(2。走行距離は長い上に途中には併用軌道区間もある。この路線には全盛期のインターアーバンの雰囲気が色濃く残っているのである。


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(2)歴史@ −交流電化のインターアーバン−

 サウスショアー線はインターアーバン建設ブームのさなかの1907〜8年に建設された。当初の名前は「シカゴ・レイクショアー・サウスベント鉄道」であった。この時代、一部のインターアーバンでは交流電化システムで建設を行う事が流行っていたが不幸な事にサウスショアー線はこれを導入してしまう。サウスショアー線の当初の20年の経営は非常に厳しいものであったが、その原因は、シカゴまでいくためには途中で蒸気鉄道だったイリノイセントラル鉄道に乗りかえる必要があったことと、この高コストの単相交流電化システム(6600ボルト)を導入してしまったことにある。
 単相交流電化システム
(3は、今でも世界各地で使われている電化システムである。交流は変圧器があれば比較的簡単なしくみで電圧を下げる事が出来るので、車両側に変圧器を置くことを前提として架線の電圧を高圧にすることが出来る。架線の電圧が高いと、架線の抵抗による電力ロスが減るために、変電所間隔を長くすることができる(4。全盛期のインターアーバンでは長大な路線における変電所設置の問題が大きかった。交流電化は変電所コストを逓減させる方式として盛んに売りこまれたのである。電圧には、サウスショアー線の6600ボルトのほか、3300ボルト、11000ボルトなどがあった。
 しかし、この時代の交流電化には問題もあった。現在の交流電化では、直流に変換した上で、直流モーターを使用したり、三相交流に変換して同期電動機や誘導電動機を使用するのであるが、当時は車両側に搭載する整流器が開発されていなかったために起動時のトルクが低い交流モーターを使用する必要があったのである。おまけに、路面走行区間では、高圧電化はできなかったので、そこだけ直流600ボルト前後で電化して直流電流で低速走行をする必要があった。交直流両用電車といえば聞こえがいいが、現場では相当使い難かったにちがいない。加えて変圧器も重かったらしく、木造電車の18メートル車で60トンぐらいになるのが当たり前だったらしい。重ければ当然加速も鈍る。
 交流電化では変電所は劇的に減らせたが、直流なら40トンで済むところが60トンでは、重さで線路が傷んで維持費用がかかってしまう。こうした事から、交流電化システムは次第に直流におきかえられるようになった。しかし、当時のサウスショアー線にはお金がなかった。シカゴ直通の件は、付随車をイリノイ中央鉄道の蒸気列車に併結することで一部解決したとはいうものの、これ以上の改良は行えなかったのである。

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(3)歴史A −インスル帝国−

 1925年、会社は売りに出された。運が悪ければ鉄くず業者に行っていたかもしれないが、幸運にも、この会社を買い取ったのはノースショアー線の章で紹介した、シカゴ都市圏の高速鉄道網の整備に燃えるサミュエル・インスルであった。
 インスルの改革は大胆なものであった。まず、全線の電化方式を変更、直流1500ボルトにした。そして、交流時代の木造車を鋼製電車に置き換えた。このころ連絡するイリノイ中央鉄道の近郊路線で電化が行われたが、この電化方式に合わせた改良をすることでシカゴの都心への直通運転を可能にしたのである。
 この改良によってサウスショアー線は大きく変わった。全米の電気鉄道のスピード記録に毎年登場する高速運転を行うようになったし、食堂車を連結した長大編成の電車運行が行われるようになったのである。

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(4)歴史B −苦難の時代−

 ところが、インスルの巨大な企業連合は1930年代のはじめに崩壊する。世界大恐慌もあったし、彼は結局のところ手を広げすぎていたのである。インスル帝国の崩壊によりサウスショアー線は別の企業家の手に渡るが、彼の行った大改良により、1960年代くらいまでは上手くやっていくことができた。1940年代には20メートル級で、190馬力クラスのモーターを搭載した大型車両も導入され、ハイスピード・インターアーバンの水準を維持していくこととなった。
 しかし、さすがに1960年代になると雲行きは怪しくなる。モータリゼ−ションはどんどん進み、利用客は減少、一方鉄道廃止の手続きは容易になって、相方のノースショアー線は廃止になってしまった。一部路線が並行している、ニューヨークセントラル鉄道
5)、ペンシルバニア鉄道が通勤輸送サービスに不熱心だったおかげで、鉄道間での客の奪い合いはなかったものの、先行きが危ぶまれた。会社側は、車両新造をするほどのお金がないので、従来車両を改良、エアコンディショナーを導入するなどサービスの向上も図ったが、1967年にサウスショアー線を買収したチェサピーク・オハイオ鉄道は、1976年にサウス・ショアー線の廃止を表明したのである。
 もっとも、運がいいというか、条件がよかったというべきか、すでに最悪の時は過ぎ去っていた。1960年代に生じた公共交通の廃止にともなう諸問題は、社会の歪みの一例であるとも解釈出来るが、そうした問題に積極的に関与していこうという政策変換があったのである(パシフィック電鉄の項でも論じたが)。沿線であるインディアナ州の結論は、地域で財政支出をして路線を存続させようというもので、その目的の為に、北インディアナ通勤交通局(NICTD:North Indiana Commuter Transport District)が設立される。
 NICTDの当初の施策は、サウス・ショアー線に資金投入をし、同時に政策介入を行う事で通勤輸送事業を維持しようというもので、1982年には新車を導入。車両数は50両弱から68両に増加し、利用客も増加に転じた。一方でチェサピーク鉄道の倒産騒ぎなどもあって、サウスショアー線の旅客部門は1989年に完全にNICTDの保有となった。

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(5)車両そのほか

 サウスショアー線のユニークな点は車両と運用である。この会社は5キロにわたる併用軌道がありながら25メートル級八両編成の電車の運行を行っているのである。しかも車両の製造元は日本車両。アメリカにしては珍しい運転台部分のロスを減らすための切妻構造と、無数に入ったステンレス車体、そして四角い窓は営団地下鉄5000系を思わすが、これが道路上を走行するのである(営団5000系10両が地上を走行することを想像しよう。
 便利な事に、アメリカのヘビーレールの路面走行ばかりを集めた「ストリート・ランニング」というビデオが世に存在し、このビデオには朝ラッシュ時のサウスショアー線のミシガンシティ11番街(道路上に存在)での発着シーンがある。道路とはいえ、電車はかなりやってきて、通勤通学客を乗せた後、無遠慮に加速して駅を後にする(併用軌道区間の最高速度は40キロ/時、ちなみに安全地帯はない
(6)。音を聞く限り、界磁チョッパ制御か電機子チョッパ制御のような気がするが詳細は定かではない(アメリカ人は細かな省エネへの関心は低そうだし)。


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<注釈>
1)インターアーバンが都心に乗り入れる時に地下線を用いた例が、パシフィック電鉄の他、ロチェスターに存在するらしい、勿論廃止されてしまっている。また、シカゴ都心には地上の交通渋滞を回避する目的でつくられた総延長50キロの貨物地下鉄が存在した。これは地下トロッコ程度のものであるが、ギャングの闇ルートという噂もある曰く付のトンネルである。このトンネルは廃線後も放置されている。水底部分の管理を怠ったために水浸しになってしまったが、今でも原型をとどめているという。大規模な地下鉄道の廃線跡としては、ロンドンの初期のチューブ線の廃線跡が有名。
2)日本製でもアメリカ的な風貌のものが大量に導入されている。サウスショアー線の車両の前面はすそを絞った営団5000系と言った感じだが、これは、この線がインターアーバンであった事に起因するといえるかもしれない。
 日本的なのもの=インターアーバン、とは変な話に聞こえるかもしれないが、日本の電車のデザインはなんだかんだいって第二次世界大戦前のアメリカの電車のものを引き継いでいるのである。
3)初期の電化システムとしては別に三相交流電化システムが存在する。これは4本の集電線から直接三相交流を取りこんで、誘導電動機や同期電動機を回すもので、山間部などで高出力、かつ定速運転が求められる場所では重宝された。
4)もう一つのメリットとして、集電時の接触抵抗によるロスも減るので、パンタグラフの数を減らす事が出来る。これは高速鉄道の騒音軽減に有効で、変電所設置コストが低下した現在においても交流電化が行われる1つの要因となっている。
5)ニューヨークセントラル鉄道は途中のギャリーまでの通勤輸送サービスを行っていたようだが、本数は1日数本である。
6)路面電車には日本のものに良く似た安全地帯があるところもある。インターアーバン系では見たことがない。LRTの停留所は場合によっては高床式のものもあり立派であるが。

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