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5.ボストン地下鉄年代記 −アメリカ最古の地下鉄−
アメリカ最初の地下鉄 ボストンのトレモント・ストリート・サブウェイ(現グリーンライン)
一部複々線のため2面4線となっているボイルストン駅(この駅の2線は使用休止中)


  アメリカの地下鉄事情は意外に知られていない。ニューヨークに地下鉄があって、これが汚くて危険だというステレオタイプな話は有名なのだが、ニューヨークの地下鉄以外にどこに地下鉄があって、いつごろ開業したのかは専門書の記述でも曖昧だったりする。様々な文献を眺めて見ても、日本人が記したものだと、非英語圏の大陸ヨーロッパの記述のほうがアメリカの記述より正確だったりすることもあって驚かされる。
  この原因はいろいろあって、アメリカの公共交通から学ぶべきものなしと視察が少なくなった事も大きいのだが、最大の原因は混沌としたシステム構成。アメリカ最古の地下鉄はボストンのトレモント・ストリート・サブウェイ(現MBTAグリーンライン)でその開業は1897年のことであるが、接続している地上区間の一部の開業年は鉄道黎明期の1840年代にまで遡る。ボストンの最古の地下鉄は路面電車を地下に潜らせたような規格だから致し方ないところもあるが、実は大型高規格のニューヨークやシカゴの地下鉄も同じで、地上区間の一部は19世紀に建設された蒸気運転の高架鉄道なのである。無駄な新路線を作らないで既存路線を有効活用しようという合理的精神からそうなったのであるが、「何年開業」と記したい歴史家にとっては大きな障害になる。
  そういうわけで謎だらけだった地下鉄事情であるが、大量の資料の読解と現地視察でようやく整理がついてきた。今回は、そういった最新情報を交えての地下鉄紀行の紹介のうち、ボストン地下鉄の紹介である(本当は他都市も含めて一気に紹介の予定だったが路線図作成のあまりの手間に挫折、今後の展開をお楽しみ)。


<目次>
ボストン地下鉄の特徴

1.トレモント・ストリート・サブウェイ

2.ボストン高架鉄道 −失われた高架鉄道−

3.イースト・ボストン・トンネル −第二の路面電車トンネル−

4. ケンブリッジ・サブウェイ −本格的な地下鉄路線−

5.シルバーライン −ビッグディッグプロジェクトと新バストンネル−

6.おまけ −ハロウィンの地下鉄試乗記−


ボストン中心部の地下鉄路線図
といってもオレンジライン、ブルーラインの末端区間、レッドラインの南端は地上区間が中心
南北に伸びる高架鉄道の廃線区間が話をややこしくしている

公式の地下鉄路線図はこちら

  ボストン地下鉄の特徴

  現在のボストンの地下鉄を運営するのはMBTA(マサチューセッツ湾交通局)。MBTAは特定の市や町に属さない公的機関(アメリカにおける交通局運営の典型的パターンで日本でもっともそれに近い存在は自治体・・・。市町村と州の間に交通局だけある県があるようなものである。もっとも、市町村から独立しているせいで住民の監視が甘く、日本の特殊法人と同様放漫経営の要因にもなるらしい)で州法にもとづいてボストン近辺の市や町に公共交通サービスを提供する事をその使命としている。ボストン中心部の交通運営を行っていたボストン都市圏交通局を拡大発展させるかたちで1964年に設立された。
  現在のボストンの地下鉄はレッド・オレンジ・ブルー・グリーンの4路線。レッド・オレンジ・ブルーは一見普通の地下鉄。もっとも、後述のように歴史はかなり複雑で、鉄道の廃線敷を有効活用した区間を中心に地上区間も多い。グリーンラインは路面電車が地下に潜った形態。ドイツに多い典型的なLRT路線「シュタットバーン」であるがこういう形態になったのは、路面電車が本格的に普及するようになって間もない1897年の事である。現在の路線延長、車両数などは以下のとおり。

延長 車両数 1日利用客数 駐車場駐車台数
グリーンライン 40.9km 196 204800 1919
レッドライン 33.0km 218 210500 8912
レッドライン(マッタパン支線) 4.2km 10 7800 257
オレンジライン 17.9km 120 154400 2720
ブルーライン 9.5km 70 55600 2231
シルバーライン(ワシントン通り) 3.6km 931 14100 336
シルバーライン(地下専用線) **** ****
バス路線 1210.2km 356400
バス路線(トロリーバス) 17.7km 40 11900
****:新線のため未公表
MBTAに関してはWikpediaの日本語記事が詳しい


1.トレモントストリートサブウェイ

  ボストンの都市交通の誇りは「統合経営」。アメリカというと「競争原理=自由競争」のイメージから交通事業者が乱立して互いに競争していたようなイメージがあるが、ボストンで都市経営に携わる人々はそういった競争が効率的でないことに19世紀末には気付いていた
(注1)。初期の市街鉄道では複数事業者の競争もあったが、それも馬を用いていた時代まで、スプレイグ方式を用いた電化が実現する直前の1887年、それまでの複数事業者を統合した「ウェストエンド市街鉄道」が誕生。ウエストエンド市街鉄道の経営は州や市の監視下に置かれ、今でいう公的部門の委託経営体制に負けず劣らずのパフ−マンスを実現することとなった。設立当初のウエストエンド市街鉄道の保有車両数は1480両、これを牽引するために7816匹の馬を飼育していたという。会社は当然のことながら当時世界最大の市街鉄道会社であった。リッチモンドでの路面電車運行が成功すると、会社は電化工事をはじめ、10年の内に馬車鉄道は電車に置き換わった。
  経営の統合が完了したボストンの都市交通(「鉄道会社の」ではない。すでに住民と企業のパートナーシップで都市交通経営が行われていたからだ)の次の課題は混雑問題の解消。ボストンの中心市街地の街路は狭く、路面電車は大混雑。都市交通の混雑解消手段としては、すでにニューヨークで高架鉄道が採用されており、シカゴでも高架鉄道の建設が進んでいたが、ボストンが採用したのは地下鉄。ボストンに先立つ地下鉄として定着していたのは世界最古の地下鉄として知られるロンドンの地下鉄(1863年)のみ。その他、グラスゴー(イギリス 1896年)とブタペスト(ハンガリー 1896年開業)が同時期のものとして挙げられる程度である。
トレモント・ストリート・サブウェイ
中心部の路線図(青色部分は高架区間)
クリックで拡大図
  1894年、地下鉄の建設を行うための公的機関である「ボストン交通委員会」が結成され、この委員会の調査結果をもとに、1895年にトレモント通りのトンネル開削がはじめられた。このトレモント通りの地下鉄の大きな特徴は地上を走る路面電車の地下化を目指したということにある。ドイツでよく見られる路面電車路線の地下化であるが、当時他に例もあるわけもなく画期的なアイディアである。おまけに、路面電車集中路線を移行を図るためにトンネルは当初から一部複々線という立派な構造になっていた。2年ほどの工事の後、最初の区間である、プリーザント・ストリート(現廃止)〜パーク・ストリート間は1897年開業。続いて、パーク・ストリート〜ノースステーション間が1898年に開業した。最初の開業区間はわずか1km、1898年の開業区間をあわせても全長は2km程度であったが、無数の路面電車路線と接続していた事から時間短縮効果は絶大であった。この地下鉄の名称はトレモント・ストリート・サブウェイ、アメリカ最古の地下鉄にして、現在のボストン・グリーンラインのはじまりである。
  この路線は以降100年にわたってボストン市民の足として活躍を続けたが、路線はかなり変化している。最初の延伸は1912年の事、この時、ノースステーションから北進して川を渡る路線が開業している。その後1914年には西側のボイルストン・ストリートを通るトンネルが開業、1932年、1941年、1959年に延長が行われ、現在のグリーンライン各路線の原型が構築される事になった。その一方で、当初開業区間のボイルストン〜プリーザントストリート500m間は1961年に閉鎖。路面電車の一部地下化という形態をとった為、路面電車が廃止になる事で一部路線が不要になってしまったのである。1963年には都心再開発で複合施設「ガバメント・センター」が登場。スコーレイスクエア(この時ガバメント・スクエアに改称)〜ヘイマーケット間ではトンネルの掘りなおしが行われ、路線もかなり変更された。路線の更新はつい最近でも行われていて、2004年から2005年にかけてノース・ステーション以北を閉鎖し、もともと高架式であった路線を地下化する工事が行われている。ボストンでは後述のように再開発と絡めて公共交通のルート変更が盛んで、綺麗な駅が多くなるのはいいのだが、路線の理解を難しくする要因となっている。
パークストリート駅
ホームが増設されているため、かなり大きな印象を受ける


開業当初のパーク・ストリート
ホーム上の柱が細く、今以上に広々とした印象
Street Railway Journal 1898 Sep. p498

ボイルストン駅
この駅は2面4線なのだが道路幅に制約があり、上下線のホームがばらばらの場所にある


開業当時のボイルストン駅
新旧対比をしたいところだが、この写真は線路上で撮ったものの上この線路側には現在柵があって比較は困難
Street Railway Journal 1898 Sep. p498

ボイルストン駅
1961年に廃止になったプリーザントストリートに続くトンネル


開業時の雰囲気を残すボイルストン駅の入り口

1898年9月のStreet Railway Journal(p474)の記事から
下の入り口は上の写真と同じものである

開業当初のパブリック・ガーデン斜坑(現存しない)
Street Railway Journal 1898 Sep. p499



2.ボストン高架鉄道 −失われた高架鉄道−

  地下鉄に引き続いて建設されたのは高架鉄道。この路線は、現在のオレンジラインに相当する路線網を持っていたが、その変遷の経緯は複雑である。
  トレモント・ストリート・サブウェイ開業後のボストンの都市交通の課題は南北を結ぶ路線の建設。沿線は19世紀の後半に干拓が行われ、急速な宅地化で人口が増加しており、輸送力がある大型車両による高速鉄道建設が不可欠であった。こうした問題を踏まえて高架鉄道の建設計画が1897年に策定され、1899年に工事開始、スリバン・スクエア〜ダッドリーストリートが開業したのは1901年の事である。
高架鉄道の路線の変遷(1)
  さて、この時の路線は上の左側の路線図のとおり。トレモント・ストリート・サブウェイの路線図と見比べていただけるとわかるのだが、都心部分西側の路線、ノースステーション〜パーク・ストリート〜ドーバー・ストリート間はトレモント・ストリート・サブウェイを改築、ホームを高くして第三軌条を取り付け大型車両の通行を可能にして直通させたのである。一方、都心部東側、ノースステーション〜ロウズワーフ〜ドーバーストリート間は、アトランティック通り沿いに高架軌道を建設した事からアトランティック通り高架鉄道と呼ばれた。両路線ともボストンの繁華街を縦貫するルートにあった事はいうまでもない。
  ところが、トレモント・ストリート・サブウェイの転用に関しては路線自体は悪くなかったのだが、輸送力を考えると問題があった。もともと路面電車用のトンネルだったために長編成の電車の走行はできず、路面電車の折り返しループの為にトンネル内にはいたるところにカーブがあり、高速運転には不向きであった。そこで、新トンネルの開削工事が行われ、1908年、移設工事を完了させている。なお、このエピソード、トレモント・ストリート・サブウェイの使用が最初から暫定的なものとして計画されていたのか、それとも当初は恒久的なものとして考えたが、開通後に蓄積した問題点を反映して変更になったのかどうかが気になるのだが、詳細は今のところ不明である。
  地下新線開業後も路線の変遷は続いた。1928年にはビーチストリート周辺の高架橋が損傷。アトランティック通り高架鉄道の列車は北駅〜南駅のシャトル運行となった。さらにカーブが多くて使いにくかった事と、施設の老朽化した事からアトランティック通り高架鉄道は1938年に運行停止となる。ニューヨーク高架鉄道と並び、都市の高速鉄道の廃止の最初の事例である。
  ややこしい路線変遷の最後は1975年と1987年の路線変更。1970年に都市大量輸送法が改正され、都市交通に連邦政府が大量に補助金を支出するようになったのだが、これを受けて1964年に誕生した公共事業体MBTA(ボストンとボストン周辺の自治体の出資で設立された公営事業者)は老朽化した高架鉄道の置き換えを実行。ノース・ステーション以北の路線については1975年に地下鉄主体の新線に置き換え、エセックス(1987年にチャイナタウンへ改称)以南の路線は1987年に新線に置き換わった。この変遷で現在のオレンジラインの路線網が完成する(ちなみにオレンジラインの名称が与えられたのは路線変更前の1960年代のこと)。
 ちなみに、南に向かう路線は所得層が比較的低い地域にあり、沿線の公共交通依存率が比較的高い、そのため路線移設にあたっては地元住民からは反対があったが、それに対してMBTAは代替交通機関を約束。しかし、15年たって運行開始となった「シルバーライン」は準LRT扱いで地下鉄路線図にも記載されたが、その実態は単なる「銀色のバス」。当然の事ながら住民からは大ブーイングで、これを受けてMBTA当局ではトロリーバストンネルの建設を計画しているとか。
開業当時のノーサンプトンストリート駅
Electrical World June 15, 1901 p1020

バスターミナルとなったダッドリー・スクエア駅跡

ダッドリースクエア駅の現役時代
ホーム上で高架鉄道と路面電車の乗換えが可能という統合経営の長所を見せつけるような利便性の高い構造になっていた
Wikipedia Commonsより引用


どう見てもバスにしか見えないシルバーライン(ワシントン・ストリートルート)


3.イースト・ボストン・トンネル −第二の路面電車トンネル−

  高架鉄道に続いて建設されたのは、ボストン中心部と北東部を結ぶ路線。湾口によってさえぎられていた北東部の利便性を高めることを目的とした路線である。1900年に工事がはじめられたが、水底トンネルの建設は難しく、完成したのは1904年の事。当時デトロイトで建設されていた水底トンネルなどを参考にシールド工法を採用したという。当初の開業区間はコート・スクエア(スコーリースクエア⇒ガバメント・センターと改称)〜マーベリックであったが、1916年に一駅延伸され、ボールドウィン駅が開業している。
  トレモント・ストリート・サブウェイと同じく、イースト・ボストン・トンネルも路面電車用のトンネルであった。この時代、ボストン北東部には無数の路面電車路線があったので、これと接続する事で利便性の向上を図ったわけである。もっとも、あまりにも多くの路線が集中し混雑する事から1924年、地下区間の車両大型化が図られ、路面電車とは乗り換え連絡となった。
ブルーライン路線概要
薄青がもともと路面電車だったイースト・ボストン・トンネル
空港駅はシルバーラインのおかげで影が薄くなってしまった

  この時代、ボストン北東部ではボストン・リベアビーチ・アンド・リン・レイルロードという近郊鉄道会社(1870年開業)が通勤列車を運行していた。この会社はナローゲージ(3フィート=914mm)でのターミナルは対岸のイースト・ボストンにあり、中心部とはフェリー連絡であったが、北東部近郊を連絡する利便性の高さから1920年代の全盛期には年間700万人を輸送していた。しかし、1928年に電化の為に多額の投資を行った事と大恐慌の影響で経営は悪化、1940年に路線は廃止となった。
  線路幅の差はあったが、この路線とイースト・ボストン・トンネルはそれほど離れていない場所を通っていて、マサチューセッツ州はイースト・ボストン・トンネルの車両大型化が実現したのを期に、1925年に連絡路線を建設する事を勧告している。このアイディアはかなり良いものと思われるのだが、実現したのは1952年の事、放置されていた廃線跡の有効活用というかたちになった。延長区間には1923年開業のボストン・ローガン空港があり、アメリカ最初の空港連絡駅の誕生となった(ターミナルへはバス連絡)。この後、1954年にはワンダーランド駅への延伸が完了。現在のブルーラインの骨格の完成である。
1930年代のボストン高架鉄道の車庫
この両数から想像するに全路線共通の車庫と思われるが詳細不明
Transit Journal 1935 Sep. p331

4. ケンブリッジ・サブウェイ −本格的な地下鉄路線−
レッドライン路線図
  ボストンで最後に建設がはじめられた路線はレッドライン。といっても最初の区間の開業は今から90年以上前の1912年である。もともとは高架鉄道の建設が行われた時に、ケンブリッジの住民がループ上の都心の高架路線から伸びる延長線を建設を要望したのがはじめだといわれている。
  都心ループから伸びる延長線というのは当時建設が進められていたシカゴの高架鉄道と同じ発想であるが、ボストンの場合、一部に地下鉄路線を転用した路線があるなどややこしい構造になっていて、工事の複雑さから市の交通委員会はこの案を採用する事を拒否。かわりに都心部を東西に縦断する地下鉄路線の建設を行う事とし、1909年に工事開始、1912年にハーバード〜パークストリート間が開業した。南東への延伸は引き続き行われ、1918年にアンドリューに到達した。
  以南の路線は地上区間で、ブルーライン同様廃線となった近郊鉄道路線の転用である。1926年、ニューへブン鉄道はシャウマット支線を廃止。これを利用して路線の延伸が図られた(路線の取得主体がボストン高架鉄道なのかそれ以外なのかは確認中)。アッシュモントへの延伸が1928年までに行われ、さらにその先は路面電車車両を利用しつつもかつての近郊鉄道の路盤を利用して高速化を図った「マッタパン高速鉄道」として1929年に開業している。1932年にチャールズ駅(現チャールズMGH駅、MGHとはMマサチューセッツGゼネラルHホスピタルの略)が開通し、路線網は一応の完成をみた。1965年にはハーバード大学のスクールカラーにちなんでレッドラインとなった(それ以前はケンブリッジ-ドルチェスタートンネルと呼ばれていたようである)。
  オレンジラインと同様、この路線は1970年以降大幅な改良が加えられている。交通補助金の増額を期に路線は南進、1980年に現在の終点であるブレインツリーまでの延伸が行われた。路線図を見ていただければわかるように、この新線区間は地上で駅間は長く、高架鉄道の伝統を引き継ぐ伝統的な高速鉄道規格の路線にBARTやワシントン地下鉄のような1970年代の新設計の高速鉄道を繋げたような構造になっている。1980年代半ばには北端でも延伸工事が行われ、1985年にエールワイフまでの路線が開通している。こちらは地下トンネルであるが、やはり設計は新しく、非常に地下深くを走行している事が特徴である。
レッドライン パークストリート駅

レッドライン・チャールズMGH周辺
高架鉄道の風格漂わせる鉄骨高架であるが、これはチャールズ川をわたる橋につなげるための高架で純粋な高架路線ではない

ポーター駅(ハーバード側の新線区間)
ここは地中かなり深く。岩盤をくりぬく都合とかで上下線で高さに違いがある。


ハーバード駅には地下バスターミナルがある
(もともとは路面電車 現在でもトロリーバスの発着がある)



5.シルバーライン −ビッグディッグプロジェクトと新バストンネル

  「ビッグ・ディッグ(Big Dig)」とは、1990年代からついこの間まで行われていたボストンの再開発プロジェクト。アトランティック高架鉄道を廃止したボストン市当局は戦後中心部を東西に縦貫する大高速道路を建設し、これぞ未来都市と喜んでいたのだが、高速道路を建設しても道路混雑はなくならないばかりか酷くなるばかり、しかも高速道路沿道は寂れる一方、しまいには中心市街地全体の停滞が影響してボストン都市圏全体の活力まで低下してきてしまった。
 この事態にボストン市とマサチューセッツ州は、高速道路から地上を取り戻すプロジェクトを計画。といっても、高速道路を単純に撤去するのでは道路混雑を招くだけ。市と州は市内を縦貫する巨大な地下高速道路を建設し、地上交通との分離を図ることにした
(注2)。日本円にして1兆7000億円をも要した大プロジェクトである。
  シルバーラインはこのビッグ・ディッグプロジェクトの副産物。2つあるシルバーラインのうち2002年に開業した第一期線(ワシントン通り)はバス優先道路を走る普通のCNGバス。巨大プロジェクトのドサクサにまぎれてバス停改良とバス増備の予算を獲得するための口実ではといった感じの路線だが、ビッグ・ディッグ・プロジェクトの関連事業として進められ、MBTAの報告によると、開業後利用客は倍増との事。もうひとつあるシルバーラインは2005年開業でこちらは専用トンネルとトロリー/ディーゼルハイブリットバスを使うという本格派。ビッグ・ディッグ・プロジェクトと同時並行で行われたボストン南駅東部のウォーターフロント再開発で、この地区にはコンベンションセンターが建設された。その足として建設されたのである。 
シアトルのトロリーバストンネルを思わせるシルバーラインの専用トンネル
豊富な予算と第一期線の苦情対応のために、そのうち鉄道(LRT)になるのではないかと思っているのは私だけ?


6.おまけ −ハロウィンの地下鉄試乗記−

  私のボストン滞在は2006年10月30日〜11月1日。すわなちハロウィーンである。
  日本ではハロウィーンと言ってもそんな日があったなと思う程度であるが、アメリカでは子供がお菓子を集めに回る日として親しまれている。配るお菓子に毒が混ざっていたとかで手作りお菓子が禁止になってしまっているのはアメリカらしいといえばあめりからしいところ。
  さて、ざっとみたところ、ハロウィーン最大の特徴は「仮装」。子供が仮装するのは勿論のこと、祭り好きの大人は仮装する。ニュースを見ていると、アナウンサーが「今夜の仮装はどうするの?俺はスーパーマンだよ」とか話している。仮装大会も開かれるようだし、この日に限っては仮装で仕事をするというつわものも現れるらしい。10月31日は朝からボストン市内をうろうろしたが、いきなり狼男が自転車に乗っているのを目撃した他、骸骨男、てんとう虫(?)、御伽噺のお姫様、悪魔と様々な仮装を目撃する事ができた。
シルバーライン停留所にて
かぼちゃは菓子入れ


レッドライン車内にて 車内に1〜2人はこんな人がいて面白い
  さて下の写真、なぜか写真を撮っている私にも注目が集まっているが、その理由は・・・私も仮装していたからである・・・。今考えるといい年して何してるのという感じだが、子供には大人気、他の仮装している方も声をかけてくれるのでなかなか良かった(写真見たいという方はメールください)。

注1)さて、自由競争に任せると効率的ではない、というのは経済学の理論と矛盾するようなイメージがあるが、そんなことはないことを説明足しておく必要があろう。
  まず、自由競争=効率的の説明。企業がものを売る時の価格は、消費者の需要の度合いと競争相手の有無によって決まり、販売価格が高くなるか低くなるかは需要の度合いより競争相手の有無のほうが重要になる。例えば、需要の規模が少ない場合、価格を下げる事で販売数量を伸ばす事ができるが、企業としては売上額や販売数量より利益(売上額-費用)が重要である事から、競争相手がいない場合は最大限の利益が見込める販売量(少なめ)・価格(高め)を設定するのが常套手段である。これを独占価格という。しかし、大概ものを売る時には競争相手がいる。競争相手を新規参入者とすると、既存の企業より安い値段をつけると既存企業の儲けのかなりを奪う事ができて大儲けできるので、安い値段付けをしようとする。もっとも既存の企業もそうやって儲けを奪われてはたまったものではないので、価格を下げて対抗、結局両者ともあまり儲けの出ない価格に落ち着いてしまう。この価格のことを競争価格という。実はこの状態、経済理論でいうと儲けなし、なのであるが、通常儲けとして理解されている最低限の配当(低リスクだが低リターンの大企業の一般的な配当水準に相当)や儲かったからといって社員に分配されるボーナスなどは理論的には「儲け」ではなく「費用」(配当=資金調達のためのコストの一部、ボーナス=優秀な社員をつなぎとめるための人件費、というわけである)であるので、ちょっとした儲けがあると解釈するのが正解である。なお、新規参入者にすれば、ちょっとした儲けでも獲得できるだけ幸運で、だから既存大企業にベンチャー企業が参入するという構図ができるのだが、既存大企業同士が規制緩和の影響などで競争する場合には、企業にとって競争は特にならない。そこで談合して右ならえの価格(カルテル)を設定したりするわけである。
  で、ここまでが自由競争の説明。なぜ公共交通でこの原理が通用しないのかを以下で説明しよう。
  公共交通では複数企業が存在してもあまり効率的にはならない。上の説明から考えても、公共交通の経営の安定には数年が必要で、立ち上げに数年もかかる企業同士では談合構造になるといった説明が成り立ちそうだが、これは枝葉な問題で、主な問題は費用にある。
  最初の説明では省略したが、企業一社で生産活動する際と複数社で生産する場合には、同じ量の生産を行う時でも費用が違う事がある。工場が全国に十数か所しかなく、建設に1個所数千億円単位の費用がかかる製鉄業などはその典型的な例、新規参入が100社あったとすると、競争によって儲けが減少することによって低下する分を上回る費用の上昇があって価格が高騰してしまう。
  公共交通の場合も事情は製鉄業と似たようなものである。鉄道業の場合は線路を複数引けば費用が上昇してしまい、価格が高騰するか、経営が傾いてしまうのは自明の理。この場合、複数社を競争させようとするよりは、儲けすぎ(儲けすぎかどうかの判定は非常に難しい。同じくらいの大きさの企業の平均的な利益率=妥当な儲け、として規制するのが一般的であるが、監視する面倒を避け政府が自ら経営するというパターンも存在する)ていないか、適当なサービスを提供しているかを監視するという方法が望ましい。なお、公共交通が全く競争できないかというとそういうわけではない。大阪〜神戸、大阪〜京都間などは、複数者がサービスを提供したからといって無駄なコストが生じるわけではない。事実、この区間の運賃や列車ダイヤは他社を意識したものとなっているが、無駄ではないのは異なる場所に路線を引いて沿線に区間利用客を提供しているからでもあり、2都市間だけで競争が成り立つかは微妙である。
  ちなみに、バスの場合、バス10台を必要とするバス路線の運営を10台一社で経営しても、5台2社で経営しても費用にかわりはない。しかし、15分おきのバスが、A社とB社の交互運行になったからといって、運賃が下がったりサービスが良くなったりという競争の効果が大きく働くかどうかは不明である(働く事は働くだろうが、1社のみであっても自動車との競争の影響もあるので、複数社となる事によってのみ起こるサービス向上効果はそれほど大きくはない)。

注2)理想をいえば、道路を撤去して公共交通主体にすればいいという話になるのだが、車になれ親しんだ人は待ち時間のある公共交通よりは渋滞を選ぶ。おまけにトラックの積荷は近距離電車には乗れない。そういった制約を考えると、ある程度の自動車交通を容認した上でそれをどこに上手く流すべきかを考察する必要があろう。

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2006年11月25日作成
2009年3月21日 章番号変更 9章⇒5章