アメリカ旅客鉄道史おまけ(雑談と掲示板) 作者のアメリカ鉄道雑談

【逐次加筆計画】これからの地域交通政策とは
2009/12/04〜?

  夏に書いた「交通政策のマニュフェスト」で、詳しい話をかけなかったので、その続きかわりに作文を書くことにする・・・

【序論(12月4日)】
  地域の公共交通をどうするのか?
  この議論、「今あるバス会社の経営がやばい、どうするのか?」といった現実レベルではかなりの進展があるのだが「10年先、20年先を見据えての議論」となるとかなり心もとない。

  高齢化や地球温暖化の兼ね合いで車は利用しにくくなる、という議論があり、例えば下記のような感じで市民団体によるアピールもある。

 公共交通整備に基本法を 市民団体が緊急アピール

 緊急アピール本文(提供:路面電車ネットワーク 掲載了承済み)

  これをもとに「公共交通ありき」で話を進めると楽なのであるが、これが妥当なのかというと(上記のアピールにはいくつかコメントの末賛同しているものの・・・)個人的にははなはだ疑問だったりもする。日本では「老人=公共交通利用」のイメージが強いのであるが、これは「若い頃車に乗っていなかった」生活習慣を引きずっている可能性が多分にある。70年前に庶民が車を持つ事が当たり前になっていたアメリカでは80歳代のおばあさんがガソリン価格の高騰に顔をしかめ、実際日常の買物は自ら運転する自家用車で済ませる。さすがに90歳代でそれを続けるのは困難だろうが、そんなに歳をとった人が他人に気を遣いながらバスや電車に乗り込み、転ばないように姿勢を維持して目的地まで堪えるのも難しそうに思える。まあ「車を運転できない人は公共交通を利用することもできない」と断言するのは極端で、実際には中間的な世代もあるにはあるのだろうが、とても広範な必要性があるようにも思えない。
  地球温暖化については懐疑論が流行っているが、あれは荒唐無稽(※1)。しかしながら、地球温暖化対策の影響を相当高く見積もっても、ガソリン1リットルあたり50円も課税してしまえば対応できてしまう(排出権取引の相場から言えば5〜20円くらいが妥当ともいえる)。ガソリンの絶対量削減に関しては電気自動車が有効。勿論電気と電池用の重金属をどこから調達してくるかという話があり、原発建設のあり方をめぐってもめたりしそうであるが、今世紀半ばくらいに原発関連の諸運動の当事者になってしまった人たちを想定しても「だから公共交通」という見解にいたる人は少数派のような気がする(「節度ある電気自動車の利用」といった運動は流行りそうだが)。

  勿論、上記のような話があるからといって、「公共交通政策不要」と唱えるのは早計で(※2)、60代くらいでも安価で利便性の高い公共交通網があるなら車もしんどくなったのでそっちを使おうか、というような「条件付」賛同者は「ある程度」いるであろうし、原発建設のごたごた(※3)を考慮すると、公共交通促進を進めたほうが手っ取り早い「可能性」もある。しかしながら、これらは「条件付」「ある程度」「可能性」であり、確実なものでもない。現状を見て、無条件に公共交通へ賛意を示す人というのはそれほど多くはないであろう。鉄道ファンだって、こうした政策実現のために無味乾燥なものとされた路線網や車両群には反感を持ってしまうかもしれない。
 
  というわけで、ちょっと脱線したが、これからの地域交通政策を考える上での議論というのはとにかく心もとないのである。
  心もとないのが素人レベルで、玄人は完璧なものを打ち出せている・・・というのであればいいのであるが、そう断言するのもなかなか難しい。国土交通省では本年11月より、「交通基本法検討会参考資料)」が立ち上げられている。この会合は仕分けの影で全く目立たなかったが、当の仕分けも交通基本法で目標としているような分権型の地域交通政策を意識された議論が展開された。というわけで、玄人レベルでは話は動き出しているのであるが、参考資料に示されているように、個別レベルの対応策提案という点ではかなり高度であるし、交通権の理念と言うのもある程度は理解できるのであるが、残念ながら、普通の人に、「障害者の移動の問題を考えてくれるのはありがたいんだけど、まずは障害者手当ての増額を何とかして欲しい。」とか「私は七十数歳だけど、まだまだ車を運転できる、何でろくに走っていないバスを利用しなくてはならないのか?」といわれた時にきちんと反論できなさそう・・・という意味で脆弱性を抱えている。交通権という崇高な理念がこういった俗っぽい反論に弱いのは、交通権という考え方が生まれた1970年代には、まだ自動車利用者が少数派で、公共交通を使う多数派としての意見主張ができたからなのであろうが、ともかく庶民が当たり前のように自動車を使うという現状を考えるに、権利の現実での適用に関しては乗り越えなくてはいけない課題は多そうな気がする。

 このような批判は−まあ私の十八番のような気もするが−批判だけなら無責任にできるという点でお手軽である。こうした批判に終わるのではなく、交通政策を提案するとすれば、どのようなものを提案していくのが望ましいのであろうか、この点について次回以降議論してみたい。


※1)巷では、データの捏造疑惑が盛り上がっているようだが、真実だとしても特定の特定の研究所・研究者の不祥事にすぎない。公式文書の「Aさんによれば92.3752%の確率で」という文言を「Bさんによれば91.1252%の確率で(以前のAさんの92.3752%という数字には問題があることが判明した)」みたいな感じで全部書き換えなくてはならないという意味で深刻な問題であるものの、温暖化の事実がひっくり返るわけではない。温暖化に関する研究競争の激化が、質の向上ではなくて安直に論文を増やす方向に研究を導いていて、これもそういった風潮の一旦かも・・・という点では気をもんでいないわけでもないが。
※2)優等生的な公共交通優先の議論に嫌気をさして、安直な否定論を論じる人も多い感じがするが
※3)国内の他、ロシア極東あたりに建設して、というようなスキームにのって反面色々問題も・・・というような展開がありそうな気がする

「アメリカ旅客鉄道史+α」トップへ

「作者のアメリカ鉄道雑談」表紙へ


質問・コメントは 掲示板メール でどうぞ


2009年12月04日執筆開始