アメリカ旅客鉄道史おまけ(雑談と掲示板) 作者のアメリカ鉄道雑談

クリーブランドの小林一三
2007/7/23

「タワーシティ」ことクリーブランド・ユニオン・ステーション

Wikipedia Commons(http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Tower_City_Center.jpg)の写真を加工
 「鉄道会社がデパートのあるターミナルビルを経営して集客に努めたのは日本だけ。」

 日本の電鉄業界の特徴として、まことしやかに、というか規定事実となっている話であり、

 「鉄道と小売業を結びつける世界にも例のない試み」⇒「日本企業の独創性の証し」

 と、しばしば脚色される。
 この手の話は、根拠のない「日本は特別だ」論に繋がるのので、ちゃんとした論理に萌えを感じる(日本は和を尊ぶ心を持っていたからとか検証不明な理屈は根拠ではない)私の好みでは当然ない。自然、粗探しをしたくなるというわけで、いつものごとく、「同じ人間、しかも商業経済が発達したアメリカで日本並の商業アイディアが生まれるのは当然ではないか」と、反証のためのデータを集めはじめて、5年・・・。

 
「住宅開発と連動した高規格(専用軌道)電車路線建設」
 「都心の電車路線終点には売り場面積8万平米のターミナル併設のデパート」
 「メジャーリーグ球団を所有」

 と言った感じで電鉄業を発展させた資本家を発見した。
 クリーブランドの不動産王兼電鉄王のヴァン・スウェリンゲン兄弟である。
 

クリーブランドの高速鉄道網
赤字が地下鉄(1955年開業)
青字がヴァン・スェリンゲン兄弟が建設した高規格電鉄網(1912年一部完成〜1930年全通)
紫の枠は兄弟が不動産を分譲したシェーカーハイツ地区
  ことのはじまりは1909年のオハイオ州クリーブランド。この地の建築業者、ヴァン・スェリンゲン兄弟がクリーブランド東部の丘陵地帯(ハイツ)の土地を買収。そこは禁欲生活で知られるシェーカー教徒のコミュニティが19世紀にあった場所で、シェーカー教徒自体はいなくなっていたが、「シェーカーハイツ」という地名は残っていた。スェリンゲン兄弟はイギリスのハワード(都市計画の祖と言われる)の田園都市論に感化されていて、彼の理想を体現するためにクリーブランドに田園都市の建設をはじめたのである。
  シェーカーハイツはクリーブランドから10km離れた郊外にあり、当時の車両性能と道路事情では自動車通勤は困難であった。1910年代初頭のシェーカーハイツの人口はわずか200人で、住宅開発のためには交通整備が不可欠であった。スェリンゲン兄弟は手始めに、クリーブランドの路面電車網に接続する郊外電車路線を1912年に建設。これはシェーカーハイツ近辺に伸びていた路面電車(クリーブランド鉄道)の路線をシェーカーハイツ(上の航空写真の紫色の部分)内に引き込んだような路線で、長さは2.6kmであった。
  この電車路線の開通により住宅地の足の問題は一応解決されたが、スェリンゲン兄弟の計画はこれにとどまらなかった。全線専用軌道の高速電車路線を建設し、クリーブランド中心部まで道路混雑に巻き込まれずに移動できるルートを計画したのである。
  計画の実現の為に、彼らはとんでもないことをやってのけた。バッファローとシカゴを結ぶ幹線鉄道路線であった、ニッケル・プレート鉄道を1915年に買収した。その目的は軌道敷の一部を電車用に転用すること(小林一三が同様の目的で都市間鉄道の路線免許を購入したことを考えればそう驚く事ではないのかもしれない)で、彼らは、買収したニッケル・プレート鉄道の資本力を利用して、チェサピーク・オハイオ鉄道やイリー鉄道など、クリーブランドに乗り入れる有力鉄道会社のいくつかを買収、最終的に50000kmもの鉄道を支配することになったという。
  大鉄道王となったスェリンゲン兄弟だが、その目的はクリーブランドの電鉄網にあった。但し、方向は少々転換していて、クリーブランド全体の高速電車網と都市開発に転じたようである。彼らはメジャーリーグ球団として現在でも有名なクリーブランド・インディアンズを1927年に買収、そして、1929年には同年に1000万ドルを売り上げたと言う大百貨店であるディラードを買収した。
 百貨店や球団の買収は単なる利益や転売を目的としたものではなかった。彼らは自らの電車路線計画とこれらを組み合わせる事で、相乗効果を狙ったのである。1920年代初頭、スェリンゲン兄弟はクリーブランドから放射状に広がる高速電車網とその中心に位置する巨大ターミナルの建設を発表。1930年に完成したターミナルは50階建て、200メートルにもなる巨大なもので、先に買収したディラード百貨店が入店した。さらに1931年には、ターミナルから徒歩10分程度のウォーターフロント地区に彼らも設立に関与した市営スタジアムが完成、今まで交通の不便な近郊のリーグ・パークを本拠地にしていたクリーブランド・インディアンズはここを本拠地にして興行を活発化させたのである。鉄道と不動産、百貨店事業、そして核となるエンターテイメント事業となる球団の経営という日本の電鉄業で見られた兼業スタイルのアメリカ版がここに完成したのである。日本は丁度昭和初頭、小林一三や五島慶太が日本の電鉄業モデルの構築にいそしんでいた時代であった。
シェーカーハイツの電鉄路線 1956年の様子
http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Shaker_Rapid_Transit_Drexmore.jpg
  しかし、彼らの兼業モデルは長続きしなかった。1929年に彼らの保有していた資産は30億ドル(今の日本円にして10兆円!)に達したと言うが、大恐慌により彼らの持ち株会社システムは崩壊、クリーブランドから放射状に広がるという高速電車網の計画も水泡に帰してしまった。兄弟は1935年と1936年に相次いで亡くなったが、遺産はわずか3000ドルにすぎなかったという。
  彼らの跡を継いで事業を行うものもいなかった。その原因は郊外における自動車の普及にある。上記の写真を見ればわかると思うが、シェーカーハイツのような快適な田園都市を設計すると、広大な庭と広い道路、駐車場と自動車走行には困らないが、駅からはかなり歩かされる、という構図が出来てしまう。ましてや分譲した住宅は高級住宅、自動車利用が促進されないわけがなかった。郊外化は家のみならず、商業施設にも及ぶ。スウェリンゲン兄弟の没落以降もクリーブランド郊外には郊外住宅地が多数建設されたが、もはやそこに電車網は必要としなかったし、不動産−鉄道−商業の兼業の効果も消えていたのである。スェリンゲン兄弟が建設した電鉄会社、「クリーブランド・インターアーバン」は財政難により1944年に公営化。クリーブランド都市圏の公共交通を運営した地域交通公社は高速電車路線(現在の地下鉄レッド・ライン)を建設したが、それはスェリンゲン兄弟の計画の一部を実現したに過ぎないと言われている。

 
【おまけの話】
  小林一三や五島慶太がこの事を知っていたかどうかが非常に気になるところ。小林一三の最初の洋行は阪急百貨店設立以降の話で、直接見ていないのは確かなのだが、戦前の日本技術はアメリカをかなり参考にしていたからリアルタイムで情報が入ってきていたのもまた確か。しかも世界の大資本家のトップ100には入っていたであろうスェリンゲン兄弟は日本の実業界でもそれなりに有名だった可能性もある。本人たちが知らなくても、実際の路線や百貨店の設計にあたった技師はこういった事例を熟知していて、一見無謀に見えた小林や五島の兼業の計画を「まあ、海外に先行事例がないわけでもないし(日本に輸入されていた土木雑誌にはこの事業のことが掲載されていた)」と納得していた可能性もある。このあたりは検証用の書籍を注文中で、データが増えたところで「アメリカ電気鉄道史」の1記事に格上げしようと考えている。

【07年8月18日加筆】
  参考資料”Invisible Giants”読解中。原油価格高騰のため、アメリカからの本の送料は値上げされ、本の価格+送料の合計価格は4000円を超えた。記事一つを書くのに4000円以上かかるとは・・・(最終的にはクリーブランドで資料集めてこようとかいう話になるんだろうからその何十倍もお金が費やされるのだろうが・・・)。
  金はかかるが話は面白くなっている。この時代のクリーブランドは都市交通の公的管理で比較的成功した都市で、市側の人間は市を主体とした資金調達による高速鉄道計画を検討していて、ヴァン・スェリンゲンの民間の資金調達による高速鉄道建設計画は彼らにとってうざったい存在だったらしい。クリーブランド市街には都市間電鉄の乗り入れ実績があり、軌道を自前で用意する鉄道会社の乗り入れを断るわけにはいかなかったのだろうが、このあたりのやり取りは戦前の大阪市と私鉄の関係を思わせる。

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2007年7月23日作成

8月18日加筆