「アメリカ旅客鉄道史+α」トップ「アメリカの幹線旅客鉄道」表紙>1.寝台車の発明

1.寝台車の発明
 1838年、アメリカの複数の鉄道で、最初の寝台車の営業運行が行われた。この頃まとまった鉄道路線を持つ国は限られていたから、寝台車の運行はアメリカが世界初ではないかと考えられる。プルマンの豪華寝台車の話をする前に、寝台車の話を検討してみよう。


目次
1−1 旅行の一般化と長距離公共交通
1−2 最初の寝台車


1−1 旅行の一般化と長距離公共交通

 現代の先進国の人間は行きたいと思えば大概の場所に出かける事ができるが、これは歴史上非常に稀な事である。
近代に至まで、生産力、および、信仰や文化などさまざまな要因が、人間が自由に移動する事を妨げていた。巡礼や貿易商は比較的あちこちを移動する事が出来たが、それでも行ける場所は限られていたし、それぞれ属する身分のしきたりや流儀を守って旅行する必要があった
(1)
 事情が変わってきたのは17世紀の中頃であろうか。16世紀の大航海時代以降の西欧人によるアジア貿易は、いままでのイスラム、インド商人による商品のみが直通する中継貿易とは異なり、商品も人も長距離を移動する事が特徴の一つなのであるが、彼らによる植民地経営や貿易が定着すると共に、ヨーロッパとアジア、アフリカ大陸との間に定期的な人の流れが出来てきたのである。さらにこの頃のアメリカ植民は、冒険的な商人のみならず、移民、もしくは比較的裕福な人間に限られたというものの、普通の人を含めた長距離の移動が行われたのである。
 ここまで来ると、次の課題は、「不特定多数の人間を乗せ、一定のスケジュールを元に運行される交通機関」すなわち公共交通の起源は何時かという話になる。起源は2つあり、一つはヨーロッパ諸国の官僚制国家の発達による道路と郵便網の整備と、これを利用した駅馬車(Stage Coach)の発展、もう一つは大西洋をスケジュールを定めて横断する帆船パケットである。イギリスでは18世紀の終わりには駅馬車のネットワークが完成し、他方、イギリスとアメリカの間は、帆船パケット船が登場しつつあった。鉄道登場前に公共交通の基本形は出来上がっていたのである。
 ところで、イギリスの創業当時の鉄道は、旅客輸送においては駅馬車の輸送形態を真似たものである。イギリスでは馬車を基本にしてそれを高規格化する形で鉄道が発展し、アメリカも当初はそれを見習ったが、広いアメリカの鉄道では快適性に問題が生まれた。その対応策として登場したのが寝台車である。

1−2 最初の寝台車

 「アメリカの旅客鉄道車両」(American Railway Passenger Car) という本によると、最初の寝台車は、ペンシルベニア州のカンバーランドバレー鉄道で1938年に導入されたもので、さらに同年、同州のもう一つの鉄道会社とヴァージニア州の鉄道会社で寝台車が使用されたという。
 寝台車のアイディアはこの20年程前から存在する。1819年にボストンのベンジャミン・ディアボーンという人物は、「鉄道車両は沿線に出没する夜盗からの安全性のみならず、帆船パケットのごとく食事や睡眠のための設備も確保すべきだ」という発言を残しているし、1827年にリチャード・モルガンという人物は、河蒸気をそのまま線路上に持ち込んだような、大平原を移動する寝台を備えた鉄道車両のイラストを残している(このイラストは、邦訳のある「鉄道旅行の歴史」という本で参照する事ができる)。鉄道網の発展を考えるとこの時期の寝台車の登場は適当と言うべきだろうか。
 最初の寝台車にはチェンバーズバーグという愛称がつけられていた。カンバーランドバレー鉄道は、ピッツバーグとフィラデルフィアの中間にあるハリスバーグというところから南西のチェンバースバーグまでの路線を持ち、当時鉄道が通じてなかったピッツバーグから駅馬車でチェンバースバーグまでやってきた旅客をハリスバーグまで運んでいた。しかし、駅馬車に比べて高速であるとはいえ、丸一日の馬車旅行で疲れた旅客を背ずりの低い座席車に乗せるのは酷ではないだろうか。この、開拓時代のアメリカに時折見られるサービス精神が、最初の寝台車の導入に結び付いたのである。
 カンバーランドバレー鉄道は、フィラデルフィアのリチャード・イムレイ
(2)の車両工房に寝台車を注文した。イムレイはさまざまなボギー車を製作し、その普及にあたって大きな業績を残した人物である。彼がカンバーランドバレー鉄道の注文に応じて製作した寝台車もボギー車で、乗降用のデッキを除く長さは10メートルほど、その半分が寝台にあてられ、寝台数は16(男性用の3段寝台が4、女性用の2段寝台が2、当時は男性用、女性用で区画が異なるのが普通であった)。寝台は昼間はロングシート、夜間は下段は座面がそのままベッドになり、中段は背もたれの部分を引き上げて使用、上段は上部に固定していたものを下ろして使用、という構造になっていた。残念ながら、現存する情報は極めて少なく、どの程度快適だったのかは不明である。
 寝台車のサービスはそれなりに好評で、カンバーランドバレー鉄道は1842年ごろ、もう一両の寝台車を導入したが、1850年に運行を休止し、2両の寝台車は座席車に改装されてしまった。ピッツバーグとフィラデルフィアを直通する鉄道が開通し、サービスそのものの需要がなくなってしまったのが主な理由とされている。

 1838年に寝台車を導入した会社は他にもある。一つはやはりペンシルベニア州の、フィラデルフィア・ボルチモア・ウイルミントン鉄道で、メリーランド州(おそらくボルチモアの近く)とペンシルベニア州のフィラデルフィアを結ぶ路線に寝台車を導入している。この寝台車もイムレイの設計だったようで、カンバーランド鉄道の寝台車と良く似た車両だったらしい。フィラデルフィア〜ボルチモア間は蒸気時代でも3〜4時間程度の距離で(電化後の鉄道黄金時代には所要3時間程度のフィラデルフィア〜ワシントン、ニューヨーク〜ボルチモア間の寝台車の運行はあったが)、列車スピードの向上により寝台車は不要になり、1840年代の中頃寝台車の運用は休止されている。
 もう一つの会社は、1960年代まで幹線鉄道会社として存続した、リッチモンド・フレデリックスバーグ・ポトマック鉄道で、こちらのほうは1849年に運用を休止している。

 1850年以前に寝台車を運行した鉄道会社はこの他に5社存在したが、どれも1850年代に運行を休止している。当時の小規模な鉄道会社では、ニーズの変動に対応するのは難しかったであろうし、初期の鉄道会社の寝台車は短距離輸送における特別サービスをその目的にしていた。長距離の旅は、途中下車してホテルに宿泊するのが前提で、長距離を直通で移動する需要は少なかったし、初期の寝台車はそうしたニーズに上手く応えられなかった、というのがその理由らしい。
 また、1850年代までは各地の線路は規格もばらばら、河川や峠で寸断されている状態であった。当時の寝台車は迂回運行で余計な時間を要している場所向けのサービスで、架橋やトンネルの開通などで大幅な時間短縮が実現して夜行列車が不要になるケースも多かったらしい。長距離の直通列車が登場すると話は違ってくるのであるが、それは、ニューヨーク〜シカゴ間などの長距離路線の直通運行が可能になる1850年代になってからの話である。
注釈
(1)旅行には無数の危険が存在した。そもそも、自分の生活していた地域から外に出た場合に、外の世界の人間が自分を同じ人間とみなしてくれるかどうかがわからないのである。信書などを携えた公務の旅ではこの危険は減るというものの、異なる生活圏を旅するときには突発的な災害や、自分が免疫を持たない疫病への感染などの危険が存在した。モンゴル帝国の政治的安定の恩恵を受けたといえど、マルコポーロなどが大した病気にもかからずユーラシア大陸を横断できたのは奇跡に近い。
(2)リチャード・イムレイ(Richard Imlay, 1784-1867)
 19世紀初頭の車両製作職人。彼の人生の多くは良く分かっていない。ボルチモア・オハイオ鉄道のボギー車製作に携わった後、独自で工房を開き、各地にボギー車製造のノウハウを広める。寝台車の発明者で、共食設備を持つ車両を最初に製作した人物とも言われている。

掲示板はこちら(ご意見、感想など書き込んで下さい)

「アメリカ旅客鉄道史+α」トップ「アメリカの幹線旅客鉄道」表紙>1.寝台車の発明



<ページの履歴(著者備忘メモ)>
2004年1月11日作成
         2月6日 加筆(リチャード・イムレイについて)