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3.プルマン社のライバル
 プルマン社にはいくつかの競争相手が存在した。プルマン社が成長しても会社独自で寝台車サービスを提供する会社は存在したし、プルマン社と同種の豪華寝台車提供サービスを行う会社もあった。「パイオニア号」で名声を勝ち得、巨大な帝国を築きつつあったプルマン社に対し、ライバル会社はどの様に対抗したのだろうか。ここでは彼らの活躍についてまとめてみる事にする。


目次

3−1 先駆者の苦悩
3−2 ワゴンリー対プルマン
3−3 ワグナー社の栄光
3−4 その他の寝台車会社



3−1 先駆者の苦悩

 夜は幅一メートルほどの2段〜3段ベッド、昼間は向かい合わせのクロスシートになる寝台車は「プルマン式」寝台車と呼ばれる。ジョージ・プルマンが経営したプルマン社で盛んに用いられた寝台であるからそう呼ばれるのだが、この寝台は、プルマン社が作ったわけではない。最初に考案したのは、今では省みられることも少ないプルマン社の先駆者である。

○セオドア・ウッドラフとセントラルトランスポーテーションカンパニー

 1950年代中頃の中西部のある鉄道会社に、車両製作に関わる仕事をしていた、セオドア・ウッドラフ(Theodore T. Woodruff 1811-1892)という男がいた。彼は、革新的な寝台車のアイディアを持ち、これを実現に移そうとしていた。前述のように、アメリカの鉄道に初めて寝台車が登場したのは、1830年代後半の事であるが、この時はじめられたサービスは1850年代までに相次いで休止してしまっていた。理由は先に記したようによくわからないのであるが、初期の寝台車は、ロングシートを3段寝台にするというもので、特に昼間の居住性に問題があった事も原因の一つである。ウッドラフは、これに対し、下段寝台を組み立て方式にして、昼間は快適な向かい合わせ座席として使用できる寝台車を考案した。すなわち、これが現在の「プルマン式寝台」の原型である。これなら、当時一般的であった転換クロスシートの座席車と同程度の居住性が実現できる。彼は1856年にこのアイディアに関する特許をとり、1857年に車両製作を開始、製作した車両の試験運用を開始した。試験運行のうち、ニューヨークセントラル鉄道での扱いはさんざんであったが、他の会社ではそこそこの評判を得る事が出来、まもなくシカゴ周辺の鉄道会社と運行契約を結んで、1858年、21両の寝台車が運用に入った。
 このウッドラフの最初の寝台車は14区画で、座席定員は56人、昼間はボックスシート、夜は長手方向の3段寝台になるというものであった。日本の国鉄の583系のような寝台車であるが、上段寝台のみを天井に収納。座席を中段に使用、下段は座席下に収納という面白い機構をもっていて、初期の記述には、下段は二人用で、寝台定員も56人になるとある。重量があったせいか、乗り心地を重視したせいか、この車両は4軸ボギー台車(8輪台車、16輪車両 sixteen-wheelとも呼ばれる)というとんでもない台車を履いていたという(これは後のプルマンの車両にも引き継がれた)。
 当初ウッドラフは複数の出資者兼経営者で共同経営を行うパートナーシップ方式で会社を経営していたが、事業が発展したので、1862年に「セントラルトランスポーテーションカンパニー」として会社化、鉄鋼王カーネギーの助力もあり、会社は発展を続けた。1866年には88両の車両を保有、さらにこの年、兄で副社長のジョーナ・ウッドラフは「シルバーパレスカーカンパニー」という子会社を設立。この会社は、1869年に開通した大陸横断鉄道(ユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシフィック鉄道)の寝台車運行契約を獲得した。1969年には両者は併せて119両の寝台車を保有。16の鉄道会社で寝台列車を運行していた。また、1858年に事業を開始したワグナー社は、特許使用料を払ってウッドラフの寝台機構を使用。もっとも、プルマンが寝台車会社設立を思い立ったのはワグナー車が経営するウッドラフ式の三段寝台の悪い思い出のせいとも言われているが・・・。
 会社は順調で、配当も良かったが、その発展は1870年突然幕を閉じてしまった。プルマン社がセントラルトランスポーテーション社を支配下においたのである。背景にはカーネギーが支援相手をウッドラフからプルマンに変えた事もあった。以降、会社はプルマン社の子会社というかたちで形式上の存続を続けるが、創始者のウッドラフは経営から離れることになる。なお、。大陸横断鉄道の寝台車がプルマン社の直営になるのはしばらく後の事であった。
 プルマン社はセントラルトランスポーテーション社を自社の傘下に置いた時、ウッドラフの特許も手にした。プルマンの初期の寝台車はウッドラフの特許に抵触するのを避けるために、機構を微妙に違ったものにしていたのだが、この買収により本格的に、「昼間はボックスシート、夜は長手方向、上段寝台は天井収納」の寝台車を自社ブランドで供給し始めた。「プルマン式寝台車」がプルマンのものになったのはこの時からだったのである。

○ジョーナ・ウッドラフとウッドラフ スリーピング アンド パーラー コーチ社

 プルマン社の支配下で、ウッドラフをはじめとするセントラルトランスポーテーション社の旧経営陣は経営権を失った。セオドア・ウッドラフをはじめとする旧経営人のほとんどは引退を決めたが、セオドア・ウッドラフの兄のジョーナ・ウッドラフ(Jonah Woodruff 1809-1876)は異を唱えた。彼は資産もアイディアも持っていたので、独自に「ウッドラフ スリーピング アンド パーラー コーチ カンパニー」を設立、プルマンに対抗する寝台車会社の経営をはじめた。ウッドラフの最初の寝台車の特許はプルマン社に押えられていたが、ウッドラフには勝算があった。彼は、これまでの自社やプルマンの寝台車に不満を持っていて、特許に抵触しないよりサービスの良い寝台車の製作によりプルマン社に対抗できると考えたのである。会社に寝台車を供給した車両メーカーであるハーラン・ホールディングワース社も協力的であった。
 ウッドラフの考案した寝台車は非常にユニークなものであった。両端に円形の展望室を持ち、広いラウンジを持つ寝台車が製作されたのである。後に徐々にプルマンのデザインに近づいていくが、上段寝台を天井に収納せず、組み立て式にすることで、広い天井を有したのが特徴であった。
 ウッドラフの試みはそれなりの成果をあげたが、以前の彼の会社の吸収によって一気に巨大化したプルマン社に対抗する事には困難があった。1888年にマン社と合併するが、この時のウッドラフ社の保有両数は127両。すでに1000両以上の車両を保有しているプルマン社に対抗するのは困難であった。両社はユニオンパレスカー社と名を変えて生き残りを図るが、1889年にプルマン社に吸収されてしまった。




3−2 ワゴンリー対プルマン
 <マン・ブードワー社の全個室寝台車「La Traviata(椿姫)」、1883年製造。19世紀の木造車には似つかわしくない右側屋根にある構造物は冷房装置である。>


 日本で海外の豪華寝台車というと、ヨーロッパのワゴン・リ社が有名である。ワゴン・リ社はヨーロッパ全域で寝台車運行を行ったから、サービスの規模などで言ったらプルマン社の最大のライバルといえるかもしれない。両者の経営手法は良く似たものであるが、1930年代までは設備面で大きな違いがあった。プルマン社が開放式寝台車主体なのに対し、ワゴン・リ社が個室寝台車主体だったのである
1)。サービスが違うという事は、直接競争させた時に面白い結果が出る可能性がある。実は、実際に2回ほどその機会はあったのである。
 1870年、プルマンは家族を連れヨーロッパ旅行に出かけた。彼はイングランド各地を周遊した後、ドーバー海峡を渡り大陸ヨーロッパに渡航、ライン川沿岸、ウィーンを観光した。この旅行は、典型的な成功したアメリカ人実業家の観光旅行であるが、同時に視察の目的も持っていたらしい。鉄道設備の検分は入念で、また鉄道資本家のJ.S.モルガンにも面会したという。
 数年後、プルマンは、旅客サービスの向上に熱心なミッドランド鉄道と契約を取り付け、ブリテン島におけるプルマン車運行をはじめた。営業車両は寝台車、パーラー車の他、開放式普通客車の売り込みもあったようだが、普通客車の方は上手くいかなかったようである。彼は数年のうちに複数の会社との契約を締結し、ロンドン〜グラスゴウ間などの主要長距離路線で寝台車の連結が当たり前のものになっていった。こうなると、次の目標は大陸ヨーロッパである。彼はパリに大陸への進出拠点を置き、営業活動をはじめたが、事はそれほど簡単には進んでくれなかった。ライバルが出現したのである。
 南北戦争が終わってまもなくの頃、ジョルジュ・ナヘルマッカーズというベルギー人がアメリカを旅行した。彼は、旅行中に利用したプルマン車のサービスに感心し、同種の車両をヨーロッパで走らせる事を思いついた・・・。これは、現在でもヨーロッパの寝台・食堂のサービス部門で活躍するワゴン・リ社の創業時の有名な逸話である。しかし、思いつくの事と実行する事の間には大きな格差がある。大西洋の向こうの鉄道のサービスの良さはヨーロッパでも周知の事実であったようで、視察に出向く人物も多かった。ミッドランド鉄道におけるプルマン車導入は、社員のアメリカ視察の影響が直接のきっかけで、また、プルマンの進出に先立って行われたグレートノーザン鉄道
2)における寝台車運行では、新聞に「サービスはアメリカのプルマン社に劣る」と評されたという。格安で極めて快適なアメリカのパーラーカーはヨーロッパでも有名だった。ともかく、アメリカにおけるプルマン車の存在は良く知られていたし、ナヘルマッカーズはこのアメリカ旅行の際にプルマンに面会もして話もきけたから、後はどうやって資金を集め、経営を成り立たせるのかが鍵であった。ナヘルマッカーズは資産家の家の生まれであったが、さすがに本格的な寝台車会社を設立するだけの資金はなく、数両の車輛を製造した後、あるアメリカ人実業家の助けを借りる事となった。それが、ウィリアム・ダルトン・マン(William d'Alton Mann 1839-1920)である。彼は、石油で得た財を元に「マン鉄道寝台車両会社」(Mann Railway Sleeping Carriage Company)を設立資金面でナヘルマッカーズを支援すると共に、ヨーロッパの気風にあう、個室寝台車のアイディアを提供したのである。アメリカは開放式、欧州は個室と言うのが現在の定説であるが、ナヘルマッカーが最初に試作した車両はプルマン社の様式に倣った引出し式のプルマン寝台で、個室寝台はマンが会社に参加した後のことであった。マンの寝台車の最初のものは1872年に製作されたが、その後数年で、その数は50両になり、パリからウィーン、ベルリン、ブカレストに至る寝台車の路線網がつくられた。「マン鉄道寝台車両会社」は1876年に「国際寝台車会社(Compagnie Internationale des Wagons-Lits)」に再編、この会社が現在のワゴン・リ社である。
 ライバルの登場にプルマンはただ手をこまねいていたわけではない。宣伝のため、イギリス向けの開放寝台の他、個室寝台を備えた新鋭寝台車を大陸ヨーロッパに持ち込み、各国の鉄道会社と交渉を行った。しかし、彼の開放式寝台中心の寝台車の評判はヨーロッパではあまり芳しくなかった。かねてから交渉を進めていたフランスの北部鉄道はマンの寝台車を採用し、他のフランスやドイツの鉄道会社もそれに続いた。唯一成果があったのはイタリアで、湖水地方近辺の鉄道などを中心に20両ほどの引き合いがあり、20年ほどはワゴン・リ社を寄せ付けずにその地位を保つ事が出来た。しかし、他の大陸ヨーロッパの国々ではプルマン社の入る余地はなかった。現在でも会社が存続している事を考えると、ワゴン・リ社はプルマン社に対する唯一無二の勝者ともいえよう。

 プルマン社との競争に勝利を収めたワゴン・リ社は、1883年、東洋とヨーロッパを高速で連絡する「オリエント・エクスプレス」
3)の運行をはじめた(この時点ではイスタンブールまで鉄道が直通しておらず、一部渡船連絡)。この後、会社は順調に発展する事になるが、この年、ワゴン・リ社にはある異変が起こっていた。株式の大半を所有していたマンが経営から手を引いていたのである。
 もし、マンがワゴン・リ社の経営を続けていれば、「オリエントエクスプレス」の創始者は、ナヘルマッカーズではなく、ダルトン・マンということになっていたかもしれなかったが、彼は、ヨーロッパ市場の伸びが相当期待できたにも関わらず、彼は会社をナヘルマッカーズに売却し、アメリカでマン・ブードワー社
4)を設立し新大陸での寝台車事業を試みたのである。当時のアメリカのプルマン社のサービスは開放式寝台主体だったので、個室寝台車の導入でプルマン社に勝負できると考えたのが第一なのであろうが、会社売却の理由には、社交的で宴会で喋っているのが大好きなマンには言葉が通じない異国での生活が耐えられなかった事や、能力はあるものの関心が広く、一つのことに集中できず、そんな振る舞いが胡散臭く見えてしまった事(イギリスで出版された"The Orient Express"ではナヘルマッカーズの経営を妨害する山師扱いをしている)、また、そんな性格がナヘルマッカーズとの不仲の原因になったからという事も挙げられるので、アメリカでの事業の発展をどれだけ彼が期待していたのかはよくわからない。生真面目なプルマンなら、自分の楽しみより儲かっている商売の方を優先したのだろうが、マンにはそれが出来ず、分が悪いのは承知でアメリカで事業を立ち上げた可能性もある5)
 マン社のアメリカでの最初の寝台車は1883年に登場した。これらの寝台車は個室寝台車で、図を示した「椿姫」の他、オペラやオペラ歌手の名前にちなんだ
6)愛称がつけられ、内装に相当金がかけられていた。中でも有名なソプラノ歌手の名前にちなんで愛称がつけられた「アデレーナ・パッティ」は別格で、車内には当時の値段で2500ドルもするスタンレーのピアノを備えた広々としたラウンジがあり、客室には風呂が備えられ、総制作費は4万ドルとプルマン社寝台車「パイオニア」の倍もしたのである7)。また、彼の製作した寝台車は単に個室であるだけではなく、機構的にも大きな特徴があった。なんと、暖房に加え、冷房装置を備えていて、高度なエアーコンディショニングを実現していたのである。外気はフィルターを通して客室に送り込まれ、その際、夏季には氷によって冷却、冬季にはヒーターによって暖める機構が備え付けられていたのである(冷房については車輪から動力をとった、回転力をそのまま伝達してファンをまわすというしくみ)。暖房のみようやっとストーブから蒸気暖房に代わりつつあったプルマン車の寝台車とは大きな差があった。
 車両製作に金がかかり、個室寝台主体で定員が約3分の2であったため、マン社の寝台料金はプルマンの開放寝台の倍であったが、ニューヨーク−ボストン間や、シカゴ−ミネアポリス間の夜行列車に連結され、乗客には概ね好評であった。最盛期には50両ほどの車両が存在した。
 しかし、定員が少ない事や、営業地域が各地に散らばっていた事から収入以上にコストが嵩んだ。そのうえ、『一見安全性が低そうに見える開放式寝台は全乗客とポーターによる監視の目があり安全なのに対し、個室のマン社の寝台車では誰が乗っているのかわからないので危険だ。』とか、個室寝台車に対する批判的な見解も多く、結局この会社のサービスは定着しなかった。1885年にマンは経営の継続を断念。最終的にこの会社はウッドラフ社と合併しユニオンパレスカーカンパニーとなり、その後、プルマン社に吸収されることとなり
8)。勝負はそれぞれ一勝一敗に終わった。

 アメリカではプルマン式寝台車は消滅したが、マンの寝台車の伝統はヨーロッパに今も残っている。マンが関わったワゴン・リの初期の寝台車は、3軸車(トキ900のようなもの、といってわかる?)であったが、オリエント急行運行を期にボギー車が登場。枕木方向にベッドを備えた2人用個室は今のヨーロッパの車両に引き継がれている。車端に流し台があり、軽食を調理できるのも同様である。

一方、プルマン寝台車のイギリスでの活躍機関はそれほど長くはなかった。当時のプルマン社の売りはサービスの完全な代行と、改良された換気、暖房システムに代表される最大の寝台車製造メーカーとしての快適な寝台車の提供にあったのだが、走行時間がそれほど長くなく、気候もアメリカに比べれば穏やかなイギリスの鉄道においては多少の乗り心地の差は大きな問題とはならず、コスト高や重量増加が問題となった。各鉄道会社では簡素ながら軽量、安価の寝台車を製作して、自社で寝台車サービスを行うようになった。プルマン社はパーラーカーを主体とする列車サービス、すなわち昼行の豪華列車のサービスに力を入れるようになる。これがイギリスでプルマンカーというと豪華なつくりの座席車を指すようになった理由である。プルマン社のイギリス子会社は昼行の豪華列車運行会社として活動し、その後、鉄道国有化の影響で1963年に英国国鉄に吸収されたが、プルマンの名のつく豪華列車は後の時代まで存続した。

この話には解いていない謎も存在する。1880年代のやり取りを考えると、ワゴン・リとプルマン社が仲の良いわけはないのだが、一方で、ワゴンリ社は開放式豪華座席車を「プルマンカー」と呼んでいる。この「プルマンカー」は、イギリスのプルマンカーと同種のものなので、そう呼ばれるのも当然ではあるが、本家本元のプルマン社はどう思ったのだろうか?

<関連リンク>
ワゴン・リ社公式HP
現行の各国のサービスを紹介。このページをみる限り食堂車非連結の現オリエント急行でも寝台車では夜食を楽しめるらしいが・・・。
Le materiel teck de la CIWL et ses reproductions au 1/87 
初期のワゴン・リの車両、およびHO模型に関するページ(フランス語)



3−3 ワグナー社の栄光

 1870年のセントラルトランスポーテーション社の買収により、プルマン社の地位はゆるぎないものになっていた。この巨大化するプルマン社に唯一脅威を与えられる会社があったとしたらワグナー社を置いて他には無かったであろう。ワグナー社は1890年代の最盛期には700両の車両を持ち、その運行区間の多くは人口稠密な5大湖周辺の各鉄道会社で、経営上かなり有利な立場に立っていたのである。しかも、この会社はコモドア・ヴァンダービルとの庇護下におかれ、ニューヨークセントラル鉄道の路線下ではプルマン社の営業は許されなかったのである。プルマン社以外の会社で生き残る可能性があった会社があったとすれば、それはこの会社以外には存在しなかったであろう。
 ニューヨークセントラル鉄道の小駅の駅長をしていたウエブスターワグナー(Webster Wagner 1817-1882)は1858年、ニューヨークセントラル鉄道のアルバニー〜バッファロー間で寝台車の運行を開始した。この寝台車は彼のオリジナルではなく、ウッドラフの開発した寝台機構を特許使用料を払って使用したものである。1857年の恐慌で経済状況は散々であったが、事業は順調で1960年には彼は寝台車事業に専念することになる。
 ワグナー社はニューヨークセントラル鉄道の寝台車部門というべき会社である。それゆえ、ニューヨークセントラル鉄道の立役者コモドア・ヴァンダービルトとワグナーの出会いは伝説的に語られる。ある伝説では、1858年にワグナーが試作した寝台車をたまたまヴァンダービルトが見つけ大いに称賛し、彼に資金を与えたというシーンが登場し、別の伝説では、ヴァンダービルトが視察で利用した列車に彼の寝台車が連結されていて、ヴァンダービルトが大いに関心を持ったというシーンが登場する。とはいえ、これらは伝説でワグナーとヴァンダービルとの出会いは1860年代中頃のようである。
 初期のワグナーの寝台車は3段式で、サービスはそこそこといったところだったようだが、1860年代の後半に作られた寝台車は2段式になっている。この頃作られたプルマン社の「パイオニア」「スプリングフィールド」といった豪華寝台車に対抗するためである。この頃からヴァンダービルトの援助が強化された。
 1870年代にはプルマン社との競争が激しさを増した。ヴァンダービルトの助力もあって、プルマン社はニューヨークセントラル社と周辺の系列会社の路線から締め出され、ワグナー社は人口稠密な地域で有利な事業展開が出来たのである。その一方で、プルマン社は、ウッドラフのセントラルポーテーション社から買い取った寝台車特許を元にワグナー社に対抗した。また、それほど両数は多くないが、1880年代には全個室の個室寝台車が製作され、ニューヨーク〜シカゴ間の列車に連結されている。
 このように、ワグナー社は事業面でプルマン社の優位に立っていたが、当初からいくつかの問題点が存在した。ニューヨーク・セントラル鉄道の子会社的な存在で、その寝台車はオリジナルのものではなかった。資金が潤沢であったゆえに効率的な経営が行われていたかどうかは謎である(子会社で会計資料が少ないのでよくわからないらしい)。ウエブスターワグナーの死後は経営のオリジナリティーも完全に失われてしまった。
 1890年代の終わりには30の鉄道会社で700両の寝台車を運営していたが、その直後に会社はプルマン社に譲り渡されてしまった。親会社内でどういう判断があったのかは謎であるが、プルマン社に営業を任せたほうが効率的だったのかもしれない。



3−4 その他の寝台車会社

 アメリカで寝台車会社を経営した会社は、プルマン車とここに挙げた3社のみに留まらない。小規模なものを含めると20社ほどの寝台車会社が存在し、さまざまな寝台車を運行していた。
 ほとんどの会社は取るに足らないものであるが、1885年に登場し、30両の車両を保有したモナーク車の寝台車はユニークであった。
 この会社の寝台車の特徴はなんと言っても昼間の居住性にある。夜間はプルマン車のセクション寝台と同様の二段式の寝台であるが、昼間は寝台が完全に取り払われ、回転機構を備えたパーラーカーと同様の座席になるのである。会社はマン社と同様、設備面での優位性でプルマンに競争を挑んだのである。
 とはいえ、時代は1880年代も後半、新参の寝台車会社にとって競争は楽ではなかった。モナーク社の寝台車はカナダ、フロリダ、ニューイングランドとお互いかけ離れた地域の鉄道会社で運行され、管理に膨大な手間がかかってしまったのである。結局会社は1894年頃、消滅してしまった。
 もう一つの面白い例としては寝台電車でビジネスを展開しようとしたホランド社を挙げる事ができる。この会社については電気鉄道のところで詳しく話したが、電鉄の敷設がもっと広範囲に及んだらこの会社も発展し、長大編成の電車寝台列車が中西部を走りまわっていた可能性もある。実際はシカゴやセントルイスとインディアナ州・オハイオ州のネットワークの結合が上手く行かなかった。シカゴからインディアナ州に向かうサウス・ショアー線はこの頃は交流電化だった上に、シカゴまで直通していなかったし、インディアナ州南部のネットワークはイリノイ州南部に路線を張り巡らせていたイリノイ電鉄とはわずかな距離を残してつながっていなかった。車両の方も、当時としては最大級の150馬力のモーターを備えていて、当然の事ながら吊り掛け駆動だったので、騒音・震動に悩まされ、夜行列車として使用されたのはほんのわずかな期間に留まっている。電鉄会社の寝台車運営はその後も細々と続けられているが、全て付随車である。
  直営で寝台車を経営した会社もある。グレート・ノーザン鉄道やミルウォーキー鉄道の自社保有の寝台車サービスは有名であった。しかし、全体から見ればそれほど規模は大きくなく、設備面での違いも小さかった。両社は20世紀の始めに寝台車の経営をプルマン社に委託するようになっている。
 一方、食堂車やラウンジのサービスに関しては、完全なプルマン社の独占とはならず、一部会社では直営だったり、別の会社に委託していたりもした。全室食堂の食堂車を実用化したのはプルマン社であったが、経費がかかりすぎるため会社は波動輸送用以外では全室食堂の食堂車をあまり保有せず、食堂営業のみの受託経営を含めてもその規模はわずかなものであった(半室ビュッフェ車の保有・経営は盛んに行っていた)。食堂経営は鉄道会社や鉄道会社独自の食堂車会社の運営によるもので、様々な個性的な料理でサービスが競われた。食堂車会社で有名なのは、サンタフェ鉄道で食堂車サービスを提供したフレッド・ハービー社。また、ボルチモア・オハイオ鉄道の食堂車のオリジナルのブルーの陶器は有名で今でも多くのコレクターがかつて使われた食器の収集を行っている。

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<注釈>

1)第二次世界大戦後のアメリカの寝台車は個室寝台主流であるが、1930年代、ストリームライナーが普及する以前は、開放式寝台車が主流であった。1910年までの木造車時代にプルマン社が製作したの全個室寝台車は極めて稀で、30〜50両程度、またそのほとんどが1890年代以降の製作である。
 なお、第二次世界大戦後のワゴン・リの寝台車にはルーメット(デュプレックス・ルーメット)形式を採用したものも存在する。

2)グレートノーザン鉄道(Great Northern Railway)はアメリカにもあるが、これはイギリスのグレートノーザン鉄道の事。ロンドン〜ヨークを結び、現在の東海岸本線の一部である。グレートウエスタン鉄道と並んでイギリスでももっとも優れた線形を誇り(HSTを用いて非電化在来線で表定150KMの運行を行っていた)、「フライング・スコッツマン」他、高速列車で名を馳せた。この会社はイギリス最初の本格的食堂車で有名。

3)オリエント急行の名前はパリ〜ウィーン間のユーロナイト(国際夜行特急)に名前だけ残っているが、下の写真で示すような有様なので、期待しない方が良い(ウィーン側で言えば、ドイツのドルトムント行き寝台列車「ドナウ・クリューワー」やチューリッヒ行き「ウィンナー・ワルツアー」、パリ側で言えば、ヴェネツィア行き「リアルト」などの方が設備は良い、これらの列車には食堂車やシャワー付個室寝台の設備がある)。ロンドン〜ベネツィア間で運行されているヴェニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスは豪華列車だが、過剰演出という話もある。オリエント・エクスプレスを名乗る列車には代表的な鉄道会社のストリームライナーで組成され、黄金時代のアメリカの鉄道旅行を演出するアメリカン・オリエント・エクスプレスという列車もある。

 なお、ワゴン・リの創生期におけるマンの役割はワゴン・リの公式ホームページには出てこないが、彼に触れたフランス語やドイツ語の趣味のサイトもあるので、英語による記述はアメリカ人のお国自慢で強調されているわけではないようである。
パリ東駅におけるウィーン行きオリエント急行(EN263)の発車風景(2004年3月21日撮影)

ウィーン駅におけるパリ行きオリエント急行(EN262)の編成表

その詳細。標準型寝台が1両、簡易寝台車が2両、2等車が3両という組成である。寝台の後ろの2両はザルツブルク止め、パリ〜ストラスブール間でも増結がある模様

4)当初BOUDOIR「ボウルダー」としていたが、原語に忠実に「ブードワー」に直した。「婦人の寝室」という意味で、いかにも物議をかもしそうな名前である事は確か。

5)但し、当時のワゴンリ社の車両数は120両程度で、2軸車、3軸車も多く、マン・ブードワー社がそろえた大型のボギー車50両と輸送力で見れば大きな差はなかった。それに、複数の国家が覇権を競い合っている欧州はアメリカに比べれば政情不安定で、国際列車事業には不確定要素もつきまとっていた。大国の狭間にあったベルギー出身で外交情勢を熟知していたナヘルマッカーズならともかく、(日本人と並んで)今も昔の外交音痴で有名なアメリカ人のマンにとっては、こういった情勢で事業を続けることは問題点が多かった事も確かである。

6)「リゴレット」、「ファウスト」、「タンホイザー」、「トルバトーレ」・・・そのうち全車両の愛称を紹介するつもりだが、オペラ王ヴェルディのオペラが多い。現代でも有名なオペラの他にもマイナーなものが混ざっているが、これは、1870年代のパリのオペラコミック座で上演されたもの、要するにマンの個人的趣味である。演劇にちなんだ愛称付けは19世紀前半に栄えた大西洋横断の帆船パケット(定期郵便船)でも見られた。アメリカの帆船パケットは豪華さがうりで、船の「ドラマティック・ライン」と呼ばれたらしい。
 なお、4人用個室と2人用個室を混在させた車両の様式はオリエント急行登場当初のワゴン・リのボギー寝台車と類似した様式である。マンは初期の中型車両製作後はワゴンリ社の経営に次第に興味を失っていったらしく、個室がずらりとならんだ個室寝台車の開発者の断定は難しい。
 これらの豪華寝台車は、プルマン社に吸収された後、すぐに地味な愛称に変えられてしまった。しばらくそのまま使われたが、多くがパーラーカーに改造されている。

7)4万ドルとは現在の価値になおしてどれくらいになるのだろうか。消費者物価指数で推定する1880年代の1ドルは現在の20ドルになるという。ということは車両価格は現在の80万ドル、日本円に直して9000万円前後でそれほど高くはない(ピアノは500万円でそれなりの値段だが)。購買力から言えば200万ドル程度と見ることもできるが。ちなみに、1850年から第二次世界大戦前夜まで、南北戦争期を除けば、アメリカの物価水準は横ばい、もしくはデフレ状態で、パイオニア製作時に比べて物価は下がっている。(当時の貨幣供給の基準となっていた金の量が限られていたためで、19世紀後半に世界的に不況であったのはこのためと見てもいいかもしれない。このことは当時のアメリカの一般市民も知るところで、金銀複本位制が提唱されている。これは小説「オズの魔法使い」の裏の主題とも言われている・・・エメラルドの都のエメラルドはグリーンバックだそうで。)

8)寝台車事業に失敗し財産を失ったマンは、残りの30年にわたる余生を自分の見込みの甘さを恥じつつ静かにくらして・・・は、いなかった!!彼は1905年にニューヨークで「タウン・トピック」という雑誌を創刊したのだが、これが「週刊○潮」「噂の真○」も顔負けのゴシップ雑誌だった。「泥棒紳士」と呼ばれた鉄道王たちも彼にはかなわなかったようで、彼にあれこれ媚を売るようになった(しょうもない暴露話なのに、上流階級の嗜好にあった編集というのが効いたらしい)。鉄道会社の無料パスを大量にせしめたマンはプルマン社の一番いい場所を陣取って大名旅行していたらしい。プルマンストライキで労働者を敵に回し、心労のため病に倒れた勝者のプルマンとは大違いである。彼の抱腹絶倒の人生については、そのうちゆっくり紹介したいと考えているが、一応ある程度の技術を持っているものの、寝台車製作などという地味な仕事よりは、マスコミ関係の仕事が向いているようなタイプである。ちなみにダルトンというつづりはフランス風だが、彼はオハイオ生まれの生粋のアメリカ人でフランス語も出来ず、どうしてこんな名前が付けられたのかは謎である。


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<ページの履歴(著者備忘メモ)>
2003年7月14日作成
2004年1月14日、3章に名称変更、構成を大幅変更(ウッドラフ、ワグナーの活躍を追加)
    1月19日 加筆
    2月6日 2節を中心に加筆
    7月11日 2節加筆 写真加える
       13日 11日の間違いを訂正