アメリカ旅客鉄道史実地見聞録アメリカ旅行記>(8)シカゴのコミューターレール

(8)シカゴのコミューターレール
  +オーロラ・エルジン線の歴史など
 
西部の郊外 ヴィラパーク駅にて

  これって「昔の『客車列車』じゃん」。と私は思った。シカゴのコミューターレールに乗った時の事である。
  「コミュータートレイン」というとなんだか格好いいものを想像してしまうし、実際使われているのはステンレス製の二階建て客車。一見日本ではありえない乗り物なのだが、日本語に訳せば「通勤列車」。その実態は国鉄時代の地方都市圏で主役だった旧型客車+ディーゼル機関車の客車通勤列車のようなもので、駅の行き先表示板は(デジタルではあるが)、「改札中」の表示。乗車券は駅窓口では手売りで、車内補充券に関してはパンチによる穴あけ式である。車両に関してもステンレス製だが、古いものになると日本の旧客と同じ1950年代の車両も現役(それを置き換えているのは日本車両製でそれも面白いのだが)で、電源車なるものは存在せず、暖房の動力を機関車からもらうというのも旧客っぽい。もっとも、もらうのは冷房用の電力を含めた電力で蒸気ではないが。
  こういった特徴の他に、郊外が面白いという理由もあり、私はコミュータートレインによる郊外往復を試みた。
シカゴのコミュータートレイン、「メトラ」の路線図(青字)と乗車した路線(ヴィラ・パークまで約25km)
オレンジは1957年に廃止になった、電車路線(インターアーバン)のシカゴ・アンド・オーロラ・エルジン線
オーロラ・エルジン線は突然の運転休止で有名な路線であるが、コミュータートレイン3路線と競合して
1957年まで残ったのは奇跡といえよう

最初の停車駅、オークパーク 以下緑色かかっているのは射光ガラスのせい

郊外の貨物ヤード 川崎汽船のコンテナばかりだが、大陸横断+太平洋航路を経ての日米間連絡?

私の乗ってきた列車の機関車。F40PH (注2)
客車の台車は最新型を含めイコライザー型
  乗車したのはユニオン・パシフィックウエスト線のシカゴ・オルジビー・トランスポーテーションセンター〜ヴィラ・パーク間、ユニオン・パシフィック鉄道は有名な大陸鉄道横断鉄道を開通させた鉄道会社であり、この路線も西に辿ればサンフランシスコに行き着くが、今の大陸横断列車「カリフォルニア・ゼファー」は別ルートを走行、私が選択した理由は、インターアーバンのシカゴ・オーロラ・エルジン線とほぼ平行しているので、廃線跡でも見えるのではないかと期待したからであった。平行区間は、40分ほどいったホイートンというところまでだが、そこまで行くと戻ってくるのが面倒なので、十数分待ちでシカゴ方面への列車への乗換えが可能なヴィラ・パークまでとした。
  首尾よく切符を手に入れ、停車中の車両に乗り込んだ私がまず驚いたのは車内の人種構成。私の乗った車両は全て白人・・・。ここまでの旅で、どうも人種構成と沿線の荒れ具合(治安)と車内には残念ながら関係があるらしいということに気づいていて、乗っている人の人種というのにも敏感になっていたのだが、単人種のみというパターンは皆無で、飛行機のビジネスクラスにだって一定の割合でアフリカ系・ヒスパニックがまじっていた。国勢調査データ等で見ると沿線は日本でいう芦屋市クラスの高級住宅地が並ぶからそういうことになるのであろうが、100%は極端で、「白人専用」とか「非白人はこちら」とか札が張っていないか(勿論、そういったことは違法だからありえないが)とひやひやしながらの乗車である。
  発車してからも驚くことは続く。シカゴの西部郊外は治安の悪いところが多いのだが、そういった地域(約10km)を列車はノンストップで走行、崩壊しかけた住宅が突然綺麗になったところで、最初の停車駅、オーク・パークに到着する。ここはフランク・ロイド・パークの建築で有名なところで、当然の事ながら町並みは綺麗で整備されている。ここは、高架鉄道路線の終点でもあるがここから都心に向け治安の悪い地域を各駅停車で走行する高架鉄道と通勤鉄道は客層が全く異なり、乗り換え需要も多くなさそうである。ちなみにここはフランク・ロイド・ライトの建築を見る観光客でにぎわう場所であるが、ガイドブックには「高架鉄道は危険なので毎時1本のコミューターレールを勧める」とある。
  列車はこの後、郊外の森の中をひた走る。沿線については時折工場が姿をあらわすのと、最初のオーク・パークが綺麗すぎたので、それほど美しくも感じなかったが、家はみな大きかった。駅前には広大な駐車場があり、当たり前のようにパークアンドライド対応である。というよりラッシュ時には1時間に3〜4本、昼間時でも毎時一本はあるのに、駅前には商店が密集しているケースは少なかった。列車は8両編成程度だったが、ホームは短く、ホームのない場所に平気で停まる。一番上の写真のように、乗降口は線路面とほぼ同じだから問題ないといえば問題ないのであるが、このあたりも昔の客車列車風である。20分ほど乗車した後、私はヴィラ・パークで下車した。
ヴィラ・パーク駅駅舎

ホームの様子
中線はラッシュ時の急行運転用でリバーシブル

緑に覆われた駅前通り(駅南側)

"Google Earth"による駅周辺の様子
地上からだと緑多く見えるが、意外に建てこんでいる

駅前に広がる広大な駐車場

何もない駅前といいたいところだが、コンビニがあった。
"White Hen"はシカゴ近辺では有名なコンビニらしい(中の様子
  ヴィラ・パークは「村」。面積は12平方キロメートルで2万人が居住している。1人あたり所得は2万2千ドルほどで、アメリカの平均水準。ラシンからシカゴへ向かう途中、レモネード売りを見かけたグレンビューほどではない(グレンビューはビバリーヒルズを上回る7万ドル台・・・どおりで駅前が綺麗なはずだ)が駅前の住宅は広く、そこそこ豊かな感じが伺えた。駐車場以外何もない駅を想像していたのだが、駅前にはコンビニがある。駅周辺の住民は駅まで徒歩で、行きがけ帰りがけにはコンビニで買い物、という日本的風景が見られるのかもしれない。ここに通勤列車が走り始めたのは19世紀の事で、町並みも自動車の登場以前に形成されたもの、駐車場のあるあたりには昔はもう少し商店があったのかもしれない。
  さて、今回この路線を選んだのは、失われたインターアーバン路線、「シカゴ・アンド・オーロラ・エルジン」線の廃線跡が観察できるのではないかという期待からであったのだが、今回は発見することができなかった。廃線跡は1kmほど南にあり、駅舎も保存されているから時間と情報があればいっていたのだが、当時はどちらもなかった。

  シカゴ・オーロラ・エルジンはシカゴの代表的なインターアーバンであるが、今まであまり詳しく紹介しなかったので、以下で少し写真を紹介する。

メトラの駅の南1kmにあるオーロラ・エルジン線の駅
電車の利点を生かして駅の数は多かったらしい

オーロラ・エルジン線の2つあるヴィラ・パーク駅の写真
左:ヴィラ・アベニュー駅(出典
右:アードモア駅(出典
Wikipediaのパブリック・ドメイン写真を引用

<以下、オーロラ・エルジン線の写真>
アードモア駅については往時の写真が雑誌にのっていた
Electric Railway Journal 10月5日 1912年

シカゴ・オーロラ・エルジン線は第三軌条のインターアーバン

シカゴのターミナル駅
高架鉄道に乗り入れていたが、ターミナルは別だった

ビュッフェ付パーラーカーの車内
短距離ながら蒸気鉄道との競争の都合上付加サービスが行われていた

オーロラ・エルジン線の歴史
1900年 この頃、オーロラ・エルジン・シカゴとして会社設立
1902年 ララミー・アヴェニュー(シカゴ市西部、今のキケロの近く)〜オーロラ開通
ホイートン〜バタビア(ジェネバとバタビアの中間にある町)間開業
1903年 ホイートン〜エルジン間開業
1905年 高架鉄道に乗り入れて、シカゴ都心げ直通
1907年 ホイートン〜ジェネバ間開業
1919年 債務超過へ陥り、再建へ
1922年 シカゴ・オーロラ・エルジンとして再建
1925年 シカゴの電気事業王、サミュエル・インスルの資本下へ
1953年 高架鉄道の移設工事のため、シカゴ市境界付近のフォレスト・パークで運行打ち切り
(高架鉄道は迂回運転を行ったが、C&AEの車両は対応できなかった)シカゴ方面への利用客はここで乗り換えたが、利便性は著しく損なわれた。
1957年 7月3日正午、運行休止
1959年 貨物輸送停止
1961年 シカゴ市交通局による運行復活の議論も実らず、会社消滅

オーロラ・エルジン線路線図(詳細はこちら
出典:Wikipedia Commons
  さて、日本なら別の路線でシカゴ都心に戻るところだが、インターアーバンが廃止されている現在、この近辺にある公共交通と言えば郊外バスのみ、しかも本数はきわめて少ない(駅前を通るバスは1日1往復、南に1キロほど降りると1時間に1本ほど走っている路線があるらしいが)。そこで、当初の計画どおり、逆方向へ向かう列車に乗り換えて都心へ戻る事にする。
  シカゴ行きの列車の機関車は最後部に連結されていて、列車は客車にある運転台からのコントロールで推進運転である。推進運転の最大のメリットは、運転台が二階部分にあるため、一階部分の貫通扉から前面展望が楽しめる事にある。鉄道施設で写真を撮りまくっていると怒られるのだが、幸い近くに座っていた乗客といえば、ノートに漫画(描いているものは日本の漫画そのもの)を一生懸命描いている女子高生だけ。車掌さんはとやかく言わず、「シカゴまで、はいはい」と言いながら車内補充券で切符をつくってくれた。6月の長い昼も終わり、暗くなってきたために写真の写りは良くないが、前面かぶりつきはアメリカでも楽しいものであった。
前面展望を独占

車内発券の乗車券
陽気な感じの車掌さんがパンチで穴を開け作ってくれた

無数の線路が広がる、シカゴ・オルジビー・トランスポーテンション・センター
ホーム部分は、シカゴ・ノースウエスタンの駅であるノースウエスタン駅の伝統を引き継いでいるようだが建物は近代的。近代的なのが日本の駅っぽいとのブログ記事もある・・・

1)アメリカでは、1930年代にはオールステンレス(もしくは超張力鋼)製、電磁直通ブレーキつきの新型客車が登場していたから、客車の新型-旧型の区別は行わないが、こうした鉄道黄金時代の新型車両と現在の客車の違いの一つが電源・暖房の供給方式である。1930年代から1950年代に製造されたこれらの新型車両は車軸発電機やディーゼル発電機で発電を行い(ただし、ドームカーとかよほど大きな電源を必要としない限り、巨大な車軸発電機で冷房電源もまかなったという)、暖房は蒸気暖房で、機関車から蒸気を分けてもらっていたのである。この方式が置き換わったのはアムトラック登場の時で、アムトラックは暖房を電気暖房に置き換え、さらに電力は電気式ディーゼル機関車の発電する電力の一部をサービス用電源として分けてもらう方式を採用した。これによって蒸気発生器は不要になり、冬季に客車が蒸気を出す姿も過去のものになったのである。ちなみにこの方式はシカゴの通勤列車での採用が最初のもので、1950年代登場の車両も当初からこの方式であった。
2)F40PH:GMの機関車部門が1970年代に制作したアムトラック時代の代表的旅客用ディーゼル機関車。出力3000馬力(このうち2割くらいが客車の電源に取られる。後期のものはサービス用電源を別に搭載していた模様だが)、運用最高速度160km/h(メトラの最高速度は112km/h)。400両弱が製造されたが、アムトラックからは引退している(運転台兼荷物車として一部残存)。もっとも、シカゴやボストンの通勤路線では現役である。

アメリカ旅客鉄道史実地見聞録アメリカ旅行記>(7)シカゴの公共交通-高架鉄道とループ-

2007年10月3日作成