アメリカ旅客鉄道史実地見聞録欧州旅行記>16.四捨五入20年ぶりのパリ

16.四捨五入20年ぶりのパリ
旧オルセー駅ことオルセー美術館

 なんだかんだ言ってパリは花の都である。
 建物は煤けていないし、公園は広くて立派、セーヌ川には洒落たボートが停泊している。ウィーンもベネチアも悪くはなかったが、ここまで美しくはなかった。建物の壮麗さで言えばシカゴなんかも頑張ってはいたが、自動車社会の都市ゆえ、町並みを含めた美しさという点では勝負にならない。昨年(2005年秋)他界した我が父は以前フランスでボヘミアン(ニートとフリーターを2で割ったようなもの)
(注1)をしていて、パリとそこに滞在していた事を自慢していたが、確かに頷けなくもない。パリには随分昔に行ったっきりで、次回欧州訪問をするのは何時かわからなかったから念のため行っておこうというのが今回のパリ訪問の趣旨であるが、あながちこの判断は間違いではなかった。
 このパリ訪問はベネルクス以上のハードスケジュールで午前中にベルギーを出発、夕方にパリを出てストラスブールへ、LeTram管理人のところで荷物を受け取り翌朝フランクフルト空港から帰国という過酷な日程である。昨日の強風で私はくたくたであったがなぜか目覚めはそれほど悪くなく、ベルギーチョコを使ったホットチョコレートにあれやこれやの卵やベーコンを使った朝食を満喫。ホテルを出た後、中心街付近でやってきたバスに適当に乗り込み駅に向かう。パリ行きの行路はブリュッセル経由でブリュッセルからは時速300キロのタリスの旅である。列車を待つ客に、旅行かばんを6〜7個も抱えたおばさんがいて目を丸くしてしまった。スイスへスキーにいくとかという話であったがそれにしても荷物だらけ、その人に限らず、鉄道旅行客は巨大な旅行かばんを抱えているケースが多かった。
  この時の細かい時間は覚えていないが、パリ到着は12時過ぎで、私は即座に観光に向かった。
ルーバン駅にて 昨日の荒れ模様がウソのような晴天

タリス

パリにて 早速町歩き開始である
  この時のルートは少々異色。
  まず出かけたのは、フランス第一の教員養成学校である「エコール・ノルマル・スペリオール」。そこがコンセルバトワールと並んで音楽でも結構有名だから覗いてみてという妹の話を聞いて覗いてみたのだが、帰国後に確認すると、そこは違うとの返事。「エコール・ノルマル・スペリオール」は国立の筆頭グランゼコール(エリート養成校)だが、私学のグランゼコールの「エコール・ノルマル」で音楽で強いところがあるとの話。どうもややこしい話である。
  次に出かけたのもやはり学校で、私が向かったのは「エコール・ポンショセ(国立高等土木学校)」、この学校は土木工学の専門教育機関として有名で19世紀には他に例を見ない先進的な経済理論の生み出した研究機関でもあった。しかし、これも外れ、写真をチェックしてみると、「高等高等公共事業学院」とある。この学校のHPにあった学校沿革(残念ながらフランス語で翻訳マシンにかけて解読)によれば、エコールポンショセと若干は関係はあるようだし、経営系の大学院を発展させているというのは経済学に強い証拠ではあるが、外れは外れである。他に、「国立鉱山学校」の前も通った。この学校は、現代の経済学の理論を生んだレオン・ワルラスという人物が一時期通っていた学校で、写真を見る限り実物に間違いなかったが、残念ながらワルラスが中途退学してしまったという事以外、教育内容など細かい話は知らない。その他に、父が居候していたというアパートに行ってみたりもした。死すにあたっても特に資産らしいものを残さなかった父であるが、アパートはリュクサンブール公園の隣の一等地にあり、存在感を漂わせていた。
エコール・ノルマルの正門
正真正銘のエコールノルマルであるが、妹に「私の調べていた学校は違う」といわれる。


公共事業学院の建物カルチェラタンにあり立地は最高

が、探していた「エコール・ポンショセ」ではなかった

父が居候していたというアパート。「屋根裏の狭い部屋で」が父の口癖だったが立地は最高

アパートの反対側はリュクサンブール公園なのだが、その公園というのはこんな感じ。私も京都住まいでは
あるが、なんだか格が違う。やはり親は偉大というわけである。

  ここまでの所要時間は2時間ほど、夕方にはパリを発たなくてはならないのだから、残り時間は2〜3時間。残りの時間はオルセー美術館見学にあてることにした。ルーブルではなくてオルセーなのは無論、鉄道駅を改装した博物館だから、である。
  オルセー美術館は印象派の絵画中心の美術館で、有名なモネの「サンラザール駅」(画像は例えばこちら)がある以外は鉄道との関係は薄いのであるが、駅という空間を生かし中央には開放的な空間があり、ゆったりと時間を過ごすにはちょうど良い構造になっていた。もっとも、当の私はといえばくつろぐどころか時間が気になっていて、絵を見るよりもミュージアムショップでの買物に夢中になっていたという説もあるが。
 
オルセー美術館正面

中の様子
ここは広場になっていて、くつろぐ事ができる
(セルフサービスのカフェとものと本格的な配膳付きのカフェがそれぞれ別の場所にあるが)

  オルセー美術館見学が終われば後は東駅からストラスブールに戻るだけである。
  しかし、川岸で絵を書いている女性と話し込んだり、アール・ヌーボーの地下鉄駅に感動したり、土産物屋でアルフォンス・ミュシャ(アール・ヌーボー時代の広告版画の名手)のポスターを買い込んだりで予定通りに運ばない。東駅に着いた時点で、乗ろうと思っていたストラスブール経由ウィーン行き「オリエント急行」は発車ベルを鳴らしてまさに出発しようとしていた。ロッカーに荷物を置いたままなので、そのまま乗車するわけにはいかない。乗車はあきらめて出発直前の写真を撮る事にした。
  私が乗り込んだのは1時間後のストラスブール行き普通特急。疲れ果てた私は車内で眠り込んでいた(注2)が、あとで編成を眺めたらドイツ国鉄の食堂車が連結されていた。果たして営業していたのかどうかは今もって謎であるが、確かめようがないのは残念である。
アール・ヌーボー調の地下鉄の入り口
この近くでアルフォンソ・ミュシャのポスターを売るみやげ物屋があったが風景に合致して良かった

オリエント急行の出発風景
わざとうらぶれた雰囲気を作っているのではと思ってしまう位車両が無意味に汚れている
この車両はおそらくストラスブールで切り離され、終点ウィーンには直通しない


注1)父はフランスのマスコミにあこがれて渡仏したが、さすがに仏語での雑誌記者になるのは至難の業。1年半ほど滞在したものの、時間を浪費している事に気付いて帰国を決心したという。私はといえばアメリカ留学にあこがれているのだが、大学院卒のアメリカ人の(それもUCのバークレーで分子生物学の博士号を取得したという・・・)知り合いに「院生なんて奴隷みたいなもんだよ」と日本の大学院に関して言われている事と同等の事を言われて同様していたりもする。

注2)実は途中駅で、変な2人連れに会う・・・という出来事があった。陽気+無口という凹凸コンビがコンパートメントに現われて、陽気な感じのほうが「サッカー好き?サッカーの話でもない」とかいうのだが、どうも彼が会話で気をそらせているうちに、もう一人(無口)が棚の手荷物を奪うという手口らしい。寝ぼけていた私は、途中で怪しいということに気付くが、眠っている最中に荷物を盗られたりしないようこれでもかという位防衛策を施していたので、「え〜、まー好きだけど、疲れてるんでそんな話する気ないよ」とかのらりくらりと相手をする。無口のほうが「もーこいつ見込み無し、列車も発車するし、他を回ろうぜ」みたいな感じで目配せしているのが印象的であった。このときの実害はなし。

アメリカ旅客鉄道史実地見聞録欧州旅行記>16.四捨五入20年ぶりのパリ

2006年11月18日作成