「アメリカ旅客鉄道史+α」トップ「アメリカ電気鉄道史」表紙>第T部:1.電気鉄道以前

1.電気鉄道以前
電気鉄道登場以前のハイテク ケーブルカー 巻き上げ装置の様子
出典:"Street Railways Construction Operation and Maintenance",
Street Railway Publishing Company, 1892, p111
(1967年出版の "The Times of Trolley"のp36にも同じ図がある)

 これまでの我が「アメリカ電気鉄道史」はインターアーバン(都市間電車)のはじまりからスタートしていたが、都市鉄道の主役であった路面電車の歴史はどうだったのであろうか。その疑問に答えるべく(というより筆者も知りたかったので)、インターアーバン以前の都市鉄道と電気鉄道の歴史をまとめることにした。
 本「1.電気鉄道以前」の対象範囲は馬車鉄道やケーブルカーなど、路面電車の登場以前に活躍した都市交通機関である。日本では路面電車が登場する以前には都市交通の発展はほとんどみられず、わずかに東京馬車鉄道が東京の市内輸送を担い、都市を基点にする鉄道会社が若干の通勤輸送を行っていた程度であったが、アメリカ(イギリスもそうであるが)では大規模な都市内の移動需要が存在し、電車の登場を待たずして様々な軌道を用いた交通機関が登場していたのである。

<目次>

1−1.最初の都市公共交通と馬車鉄道
1−2.蒸気トラムから内燃動車まで・・・馬車鉄道の代用品
1−3.ケーブルカー・・・実用的な都市公共動力
1−4.高架鉄道・・・蒸気時代の都市高速鉄道

馬車鉄道イラスト
出典:"Street Railways Construction Operation and Maintenance",
Street Railway Publishing Company, 1892

1−1.最初の都市公共交通と馬車鉄道

 最初の都市交通機関は何か、というのもなかなか難しい問題ではある。
 マサチューセッツ州ボストンの公営交通事業者、MBTAのホームページではボストンの公共交通の歴史を何と1630年から紹介している(往時の様子を描いた絵もあってなかなか洒落ている)。勿論、鉄道はこの時代には存在せず、1630年代に登場した交通機関とはもともと海に囲まれていたボストン市街を連絡する渡船の事である。渡船は公共交通としてはもっとも古く、古代ギリシャの時代にはお金を払って利用する形態が確立していたというし、日本でも貨幣経済の発展と神社仏閣めぐりの文化の確立とともに、江戸時代には各地で渡船のサービスが確立していたのはよく知られている話である。
 これに比べると陸上の公共交通の成立は相当遅いが、町と町を結ぶ乗合の駅馬車がイギリスでは16世紀に登場、アメリカでもボストンと現在ではボストン市内の一部となっているケンブリッジを結ぶ駅馬車が1793年に登場するなど、
19世紀のはじめには主要都市とその周辺を結ぶ公共交通が成立。さらに、都市内の公共交通機関である乗合馬車「オムニバス」が1820年代から1830年代にかけて、アメリカでもっとも早く都市化が進んだニューヨークとボストンで登場している。
ニューヨークで使われた最初の馬車鉄道車両
 オムニバスを鉄軌道に載せた「Horse Car」こと鉄道馬車はニューヨークでは1832年、ニューオリンズで1834年に登場している。乗合馬車は運行回数の多いところでは、未舗装の道路に穿ってしまうわだちで運行に支障をきたしてしまうという問題があり、街路の舗装が進まなかったアメリカの都市では鉄軌道に馬車を載せることでこの問題を回避したのである。馬車鉄道は1850年代以降主要都市に広まった。
<主要都市の鉄道馬車開業年>
ニューヨーク:1832年 
ニューオリンズ:1834年 
ボストン:1856年 
フィラデルフィア:1859年 
シカゴ:1859年 
シンシナティ:1859年 
セントルイス:1859年 
クリーブランド:1860年?
サンフランシスコ:1860年?
ミルウォーキー:1860年 
モントリーオール(カナダ):1861年 
トロント(カナダ):1861年 
ワシントンDC:1862年?
デトロイト:1863年 
インディアナポリス:1864年 
ヒューストン:1868年 
デンバー:1871年 
アトランタ:1871年 
ミネアポリス:1872年 
ロサンゼルス:1874年 


中小都市でもこの時期の馬車鉄道の開業はある(特に中西部)が省略
ちなみに日本の東京馬車鉄道の開業は1882(明治15)年

馬車鉄道の車庫とその内部(断面図)
1階が車庫で二階が厩舎。断面図に示されているように換気装置が備わっていた。
 
内部図面の続き 平面図で上半分が1階(線上のものは線路)、下半分が2階(細かく区分けされているのが馬用の区画)

運行管理板
電気があまり普及していない時代ゆえ、木のブロックを用いるものであるが、運行管理
のための道具としては洗練されたものと言えよう。車庫の図面とともにかなり洗練された
システムの存在が伺える。20世紀の流れ作業のシステムも、食肉加工施設とか、19世
紀にはすでに確立していたシステムを採用しているわけだから、馬車鉄道の運行管理が
洗練されているのは当然の流れなのかもしれないが。

上に示したように、1870年代にはアメリカの都市ではあたりまえの交通機関になった馬車鉄道であったが、発展するにつれ問題点も明らかになった。
 馬を動力にしているので速力が出ないことも今からみれば問題であるが、当時の一番の問題点は馬が高コストであることであった。新大陸アメリカでは、恒常的に馬不足で、重労働の馬車鉄道牽引用には良馬が必要とされ、酷使されるので寿命は短かった。加えて1870年代には馬の疫病が頻発、馬不足の傾向はますます強まり、馬車鉄道の経営者は馬に代わる動力を追い求めるようになった。


1890年代のニューオリンズ キャナルストリート
複々線の軌道に注目。1834年開業のニューオリンズ馬車鉄道は半世紀経過後の1880年代から
1890年代に発展の頂点に達していた。


1−2.蒸気トラムから内燃動車まで・・・馬車鉄道の代用品


 馬力を別のものに置き換えようという試みはアメリカではかなり行われている。いたるところに馬車鉄道があり、ニーズが多かった事と、軌道もあちこちに敷設されたために走行実験が行いやすかった事がその理由であろう。
 馬車の代用品の一番簡単な形態は「ダミーエンジン」である。これは馬を驚かさないように蒸気機関車に馬車風の覆いをかぶせたもので、そのために、模造(ダミー)と呼ばれたのである。短編成の場合あまりコスト削減にはならず、市街地では煤煙の問題もあったが、元が蒸気機関車だけに技術上の問題は少なく、各地で用いられていた。特に近郊に向かう路線では速力や経済性において有利でしばしば用いられたようである。ダミーエンジンの改良版として、動力を床下に搭載して単行での運転を可能にしたものがあり、構造は複雑になるものの、収容力や形態面では有利であった。
ダミーエンジン各種。車内には蒸気機関が鎮座し、旅客輸送のためには付随車を連結する必要があった。
Street Railway Journal, Jan 1891, p30の図面より

概観と内部構造。車輪の内側に機械部分を組み込んでいるために複雑である
(上図のように機械部分の構成もいろいろあるのだが)
Street Railway Journal, Jan 1891, 写真はp29 図面はp31

図面その2
Street Railway Journal, Jan 1891, p31


 一方で、煙を出さない機関車の研究も行われている。車両にボイラーを積み込まず、あまり煙の件で文句を言われない場所に設置した定置式のボイラーで蒸気を作り、それを巨大なタンクに溜め込んでピストンに供給する無火機関車は、火気厳禁の化学工場や精糖工場では有名だが、市街鉄道でも試用された。また、無火機関車の欠点である一回の蒸気で走行可能な距離が短い事を改善するために、水と蒸気の代わりに化学薬品を使う「ソーダ・モーター」という車両の製作も行われている。有名なものとしてはアンモニアを使用したものがあった。使用後のアンモニアは水に溶けて大幅に容積が少なくなるので、回収と再利用には有利であったと言われているが、ピストンやシリンダーから漏れ出すアンモニアの臭気の問題がありそうな動力である。

アンモニアを動力とする軌道車両
Street Railway Journal, April 1893, p211

 馬車鉄道の代用品の追求は、最終的に内燃機関の試用にまで及んだ。1880年代(1886年〜1889年)、ニュージャージー州で用いられた、「コネリー・ガス・モーター」はナフサと空気の混合気体をシリンダー内で電気スパークで点火してピストンを動かし、これを動輪に伝達するというもので、当時試作が行われた自動車と原理的にまったく同一のものであった(自動車の開発はドイツが先行し、アメリカでは20世紀初頭まで実用に供された自動車は少なかった)。本格的な電気の活用の前に内燃動力の実用化も試みられていたというわけである。後の自動車の爆発的な普及を考えると、この時のエンジンや使用環境の選定などがもう少し賢明であれば、路面電車の発展に影響を与えた可能性もあるが、技術的に不完全だった事と、スプレイグの路面電車システムが爆発的に普及した時期にあたったため、日の目を見ずに終わってしまった。


電車システムの確立以前の動力としては究極ともいえる、内燃機関のコネリー・ガスモーターの写真とイラスト。

出典:"Street Railways Construction Operation and Maintenance",
Street Railway Publishing Company, 1892, p176-177
↑右の写真(一体タイプ)の円盤に注目。初期の自動車と同様、円盤(フリクションドライブ)を利用して無段階の速度制御を行っていたが、この方式では耐久性に問題があり、また、車軸への伝達は信頼性に劣るチェーン駆動であった。といっても、それを改良するとユニバーサルジョイント(自動車用に)を使用する事になり、それが実現できたとしたらおおごとではあるが(カルダン駆動の世界に入ってしまう・・・)。
 バスや鉄道本線用車両(マッキーン車)に20年先駆けての内燃機関の採用、ドイツで実用的な自動車がようやっと登場した時期の製作(アメリカで車が作られるようになったのは1890年代以降)で、内燃動車としてはもとより、北米の内燃動力の交通機関としても最古の部類に入ると思われる(上の車両が乗客を乗せた馬車鉄道用の客車を牽引して試運転を行っている1889年の写真もあるので、ある程度は走行できたものと思われる)。あまりにも先駆的過ぎて、図面が載っていた当時の文献でも、化学薬品を用いた車両の変種として取り扱うなど、その意味を十分に理解していないのが面白い。


1−3.ケーブルカー・・・実用的な都市公共動力


Copyright 2003 Christopher J. Wood.
現代も残るケーブルカー サンフランシスコのケーブルカー
Wikipedia GNUライセンスに従い転載

 ダミーエンジンは成功とは言えなかったが、馬車鉄道事業者は電車の登場まで手をこまねいていただけではなかった。1870年代に高密度運行路線用の実用的な代替手段としてケーブルカーが発明され、電車登場以前の主要都市でかなりの展開していた。 
 ケーブルカーというと、登山鉄道を思い出してしまうが、アメリカでいうそれは「インクライン」で、アメリカのケーブルカーのケーブルは線路の下の地下にある。地下のケーブルは常に動いていて、地上の車両はそれを掴むことで軌道を走行する事が出来るのである。現存するものとしては右の写真のサンフランシスコのものが有名であるが、最初に運行がはじめられた都市もサンフランシスコである。
 ケーブルカーは1870年代初頭、サンフランシスコのワイヤーロープメーカーのアンドリュー・S・ハリディ(1836〜1900)が発明、1873年に運行がはじめられた。ハリディがケーブルカーを考案した直接のきっかけは、坂の多いサンフランシスコにおいて、馬車に変わる勾配に強い公共交通機関を作ることにあったのだが、ケーブルカーの高い登坂能力は平坦線での大量輸送にも適していた。ケーブルカーのケーブルは沿線にある動力ステーションにある蒸気機関によって動かされるのであるが、この蒸気機関は定置式で大型であるため、複数の車両を走行させることが出来たし、車両側はケーブルを掴むための比較的簡単な機械を実装するだけで済み、付随車の連結も出来た。こうした事から1880年代以降、平坦な都市でもかなりの路線網の展開が見られた。

<アメリカにおけるケーブルカーの運行実績>
−30年以上−
サンフランシスコ:1873〜現在
シアトル:1888〜1940
タコマ:1891〜1938


−15年〜30年−
カンサスシティ:1885〜1913
ニューヨーク:1883〜1908
シカゴ:1882〜1906
ブルックリン(ニューヨーク州):1887・1889〜1909
ビュート(モンタナ州):1889〜1907
オマハ(ネブラスカ州):1887〜1905
シンシナティ:1885〜1902
デンバー:1883〜1900
ホボケン(ニュージャージー州):1886〜1902
セントルイス:1886〜1901
クリーブランド:1888〜1903


−5年〜14年−
ポートランド(オレゴン州):1890〜1904
フィラデルフィア:1885〜1897
ロサンゼルス:1885〜1895
オークランド:1886〜1896
ワシントン:1890〜1899
ボルチモア:1891〜1899
プロビデンス:1889〜1895
スポケーン(ワシントン州):1889〜1894
シノックス・シティ:1889〜1894


−5年未満−
グランドラピッド(ミシガン州):1888〜1891
サンディエゴ:1890〜1892
ニューアーク(ニュージャージー州):1888〜1889


ニューヨークの初期の高架鉄道(1868年〜1870年)もケーブル式であった。
イギリスグラスゴーの地下鉄もこの方式で作られたが、パリの路線を例外とすれば大陸ヨーロッパでの採用例は少ない。
1880年代には東京市街での建設計画もあったという

<参考WEBページ>
The Cable Car Web Page http://www.cable-car-guy.com/
ハリディの肖像(上)と
彼の最初のケーブルカー(下)
シンシナティのケーブルカー路線 左:巻き上げ装置のある建物 右:走行風景

 上記のように大都市でかなりの広がりをみせたけ−ブルカーも、しかし、馬車鉄道の代替とはなりえなかった。地下にケーブルを埋設する必要があり、その建設費、維持費用が高額だったのである。そのため、その投資に見合うだけの輸送需要がある大都市の中心部では馬車鉄道に比べて高い経済性を誇ったが、外延部に伸びる路線には不向きだったのである。上記の都市でも馬車鉄道を全面的にケーブルに置き換えると言うケースは少なく、中心部はケーブルカー、その周辺は馬車鉄道と言う路線構成をもつところが多かったようである。

デンバーのケーブルカー
平坦線では上の写真のように付随車を連結するパターンが多かった

デンバー軌道会社(Denver Tramway Co.)のケーブルカー用のパワーステーション(巻き上げ装置の基地)
すでに電車の時代で、左手前を走行中の車両は電車である。
デンバー軌道会社の名前はこの後の路面電車会社同士の合併後も引き継がれ、デンバー都市圏の交通局
が1974年に買収、公営化を行うまで、この名前をもつ会社がデンバーのバス路線の運行を担っていた。

高架鉄道用蒸気機関車
軸重の問題と、駅間の短い路線で使用するための加速力を確保する必要性から動輪が小さいのが特徴である。
いかにも非力そうであるがこれで客車5両を牽引するのが当たり前であった。


1−4.高架鉄道・・・蒸気時代の都市高速鉄道

 1870年のニューヨークの人口は100万人弱。このうちのかなりがマンハッタン島に集中(ブルックリンがニューヨーク市に編入されるのは1898年)していた。これに対処するために建設が行われたのが高架鉄道である。
 最初に建設が行われたのは1868年の9番街高架鉄道である、当初はケーブルによる小規模単線路線としてのもので、技術上の問題から一旦廃線となる。これを購入したニューヨーク高架鉄道は1871年に蒸気鉄道として運行を再開、同時に徐々に路線を延長し、1880年代にはマンハッタンを南北に縦断する高速鉄道が完成した。その後、2番街、3番街、6番街でも建設が行われ、19世紀の終わりには年間10億人を輸送する大量輸送機関となった。なお、9番街路線は蒸気運転の時代に3線化が完了し(後の路線は電化後)、ラッシュ時には急行運転も行われていた。
 1880年代、フィラデルフィアとシカゴもニューヨークに次ぐ大都市として発展していた。フィラデルフィアはペンシルベニア鉄道のニューヨーク(と言っても当時は対岸のジャージーシティ)とワシントンを結ぶ幹線路線の中間にあたり、都市中央部を縦断する路線や通勤輸送サービスの充実が図られた。シカゴにおいても長距離旅客鉄道による近郊輸送が盛んに行われたが、それと同時にニューヨークに続く第二の高架鉄道の建設が行われた。1888年、サウスサイド高架鉄道がシカゴ中心部から南に向かう路線を開業、続いてレイクストリート高架鉄道が1893年に西に向かう路線を開業させている。この両鉄道は蒸気運転で、ニューヨーク高架鉄道と同様蒸気機関車が客車を牽引していた。その後、シカゴではメトロポリタン・ウエストサイド鉄道が西に向かう第二の路線を、ノースウエスタン高架鉄道が北に向かう路線を1890年代に建設しているが、すでに路面では電車が定着しつつある時代で、電気運転が採用される事になった。
 高架鉄道はボストンでも20世紀の初頭に建設が行われているが、こちらははじめから電気運転。とはいえ、蒸気運転の高架鉄道はシカゴやニューヨークの市民に強烈な印象を残したわけである。

<シカゴ高架鉄道>
シカゴ高架鉄道路線図 ループは1897年に開通で電気運行の時代である

シカゴのサウスサイド高架鉄道の走行風景(上)

途中駅の様子(下) サウスサイド高架鉄道は3線化とその撤去など、何度か改良工事が行われているので
現在ではずいぶん変わった様子になっている(都心ループは建設当時のままのところも多いが)


<ニューヨーク高架鉄道>

マンハッタン島における高架鉄道路線
高架鉄道は1885年以降、何度も電化の実験が行われたが、蒸気機関車が電車に置き換えられたのは1903年の
ことである。マンハッタン島内の高架鉄道は1955年までに全廃。ブルックリン地区の1880年代に建設された高架鉄
道の設備が地下鉄路線の一部として利用されている。

ニューヨーク高架鉄道の走行風景(上)とその車内(下)
需要の大きかったニューヨーク高架鉄道では蒸気時代から長大編成の列車が運行されていた
通勤電車なるものがなかったため、車内はクロスシート付きであるが、ラッシュ時には今日の
日本も顔向けの激しい混雑であったと言われている(そのために地下鉄は当初から全体の
3分の1が複々線で建設された。)


↑6番街高架鉄道の駅
↓9番街高架鉄道、北部(都市化が進んでいない地域)の様子

・・・こうした、19世紀後半の都市交通とその動力の問題を解決するために、電気動力は発達したのであるが、当初は試行錯誤の連続であった。その様子を次で紹介したい・・・

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2005年4月15日作成