「アメリカ旅客鉄道史+α」トップ>「アメリカ電気鉄道史」表紙>第U部:2.ノースショアー線
2.ノース・ショアー線 −最高速度135キロの鉄路の興亡− |
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昭和のはじめ、新京阪電鉄は、全線専用軌道、50キロレールの電化路線を京都と大阪の間に建設、最高速度110キロ/時の高速列車の運転(1)を始めた。 同じ頃、やはり京阪の関係会社である奈良電鉄は京都と奈良の間に高速路線を建設、大阪商船との強いつながりを持つ阪和電鉄(2)は、真偽ははっきりしないが120キロ運転を行ったというし、参宮急行は大軌(大阪電気軌道)と直通運転する形で長距離(延長約120キロ)電車運転を行った。 これらの会社は、アメリカで流行していた「ハイ・スピード・インターアーバン」を参考に建設されたという。ここまでは、多くの日本の本でも載っている常識的な話であるが、具体的に何処の路線を参考にしたのかとか、そうした路線が今どうなってしまったのかについてはあまり知られていない。 色々な文献を調べると、電気鉄道として建設され、旅客輸送中心で運営され、かつほとんど併用軌道を持たない高速路線というのはアメリカでは非常に限られている事(3)がわかる。そのもっとも代表的な路線がシカゴ−ノースショアーミルウォーキー鉄道(以下ノースショアー線と略す)である。 |
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<目次> 2−1 路線概要 2−2 歴史 2−3 旅客車両紹介、そして食堂車サービス 2−4 エレクトロライナー 2−5 ピギーパック輸送 2−6 運行 2−7 しかし、路線は廃止に |
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765は1920年代末に建造された全鋼製新型車両 出典:Electric Railway Journal 1930, p243 |
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(ノースショアー線は赤字・橙字、紫字はオーロラ・エルジン線、青字はその他の電鉄路線) (イリノイ中央鉄道とサウス・ショアー線はひとまず省略) |
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2−1 路線概要 シカゴにはハイスピードインターアーバンの範疇に入る3つの路線があった。南東へ向かうサウスショアー線、西に向かうオーロラ・エルジン線・北に向かうノースショアー線である。ちなみに南方面にはイリノイ中央鉄道が電車運行を行っている郊外路線があり、これを合わせてシカゴは四方に郊外電車路線を持っていたことになる。 この中で、一番本数が多かったのが、シカゴ・ノースショアー線である。 この鉄道は、中心部のループで有名なシカゴの高架鉄道の北端、ハワード(エバンストン地区にある駅)から、その先のワウケガン、ケノーシャ、ラシーンとかいったミシガン湖沿岸の都市を通って、ミルウォーキーへ向かう電気鉄道であるが、頻発運転を特徴としたアメリカのインターアーバンの中でも、際立って本数が多いのが特徴である。1920年代の例でいえば途中のワウケガンまでの本数は普通列車が15分おき、その他に一時間おきの特急、もしくは急行が存在していた。普通列車といってもシカゴの高架鉄道内では複々線を利用した急行運転を行っていて、高架鉄道とセットで一つの路線と考えると、現在の日本の大手私鉄に近い高密度の速達サービスを行っていたことになる。 この鉄道のもう一つの特徴は、高水準の軌道による高速運転である。インターアーバンは、市街区間では併用軌道を持つのが通例であるが、この路線の場合、あちこちで専用軌道化を行っていて、最終的にはミルウォーキー市街で一部路面走行を行う以外は全て専用軌道となった。専用軌道化の最たる例は、高架鉄道の終点からウォーキガンまでのスコーキーバレールートである。開業当時から、この区間の湖岸には併用軌道のショアールートがあったのだが、これとは別に、専用軌道の新線を設け、ウォーキガン以北へ向かう列車の速達化を図ったのである。こうした努力により、約150キロのシカゴ-ミルウォーキーは二時間弱で結ばれたのである。 |
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この時、イベントにより開業以来最大という旅客が殺到していた。 出典:Electric Railway Journal 1926, July, p7 |
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2−2 歴史 ノースシショアー線の歴史は、1895年のウォーキガンの路面電車に始まる。1898年にはシカゴ北部のエヴァンストンに達し、エヴァンストンの市街電車を介してシカゴの市街鉄道網と接続したが、シカゴ市内へ直通しない上に、シカゴ・ノースウエスタン鉄道が蒸気列車による近郊輸送を行っていたために、その役割は周辺の地域輸送を行う路線にとどまっていた。ただし、会社はシカゴとミルウォーキーを直結する鉄道会社を目指して建設工事を進め、1908年にミルウォーキーに達した。南は同年に延伸してきた高架鉄道との乗り継ぎが可能になり、エヴァストン〜ミルウォーキー間に喫茶室とパーラーカーを設けた特急電車を走らせるまでに至ったが、ここまでの建設負債によりこの年に会社は倒産してしまう。 ここまでは他の都市のインターアーバン電気鉄道と同じようなものである。確かにシカゴは大都市で、ミルウォーキーも魅力ある電鉄産業の拠点であるが、競争相手が多い上、乗り継ぎ、延々と続くシカゴ郊外の併用軌道と不利な点が多かった。食堂車付きの特急電車の運行は続けられたが、再建はなかなか進まなかった。このまま行けばニュージャージー州やフィラデルフィアの近郊路線によくあった、低規格のインターアーバンの一つとして終わった可能性もあったのだが、アメリカの電鉄王とでも呼ぶべきサミュエル・インスルがその運命を変えた。 |
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このインスルという人物は、イギリス生まれ、アメリカに渡って発明王エジソンの秘書となった。エジソンの発明は電気産業の可能性を大きく広げたが、インスルはその能力を買われて、エジソンの企業の内、シカゴ周辺の電灯会社の経営を任されるようになったのである。インスルの経営する電灯会社は多いに栄えたが、インスルはそこで生まれた財力を、電気鉄道事業に積極的に投資した。特に目をつけたのは、シカゴ市内と周辺の電鉄会社である。 インスルはこうして、シカゴの市内鉄道と共に、ノースショアー線を傘下においた。そして、単純にこれらの企業を経営するにとどまらず、大都市シカゴにふさわしいものとすべく、様々な改良を行った。市内鉄道に関しては、路面電車の幹線路線の高架化が行われ、現在も活躍する高架鉄道と地下鉄のネットワークが形づくられた。郊外鉄道に関しては高架鉄道との直通運転が計画された。直通運転は1919年に実現し、更なる改良である、スコーキーバレーの新線は1926年に完成する。残念ながら、インスルの電鉄経営は、1930年代には世界大恐慌により衰退するが、1920年代には既に潜在的に進んでいたモータリゼーションや不況の影響を生き抜いてノースショアー線が活躍出来たのは、インスルの長期的な展望にたった巨額の設備投資によるものであると評価されている。 |
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2−3 旅客車両紹介、そして食堂車サービス エレクトロライナー以前のノースショアー線の車両は変化に乏しい。例えば、以下に示す車両 |
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出典:Electric Railway Journal 1909, feb. 13
出典:Electric Railway Journal 1930 April |
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すなわち上の400は1909年の木造車であるが、1930年に登場した下の全鋼製車765と比べ雰囲気にそう違いがあるわけではない。勿論、20年の時間差があるため、屋根が丸屋根となり、窓の飾りは省略されるようになっているが、丸みを持った先頭車、車体長などはほぼ同じである。シカゴ北部とミルウォーキーを連絡した時点で高速運転を志向するようになった事から比較的高めの前面窓と丸みをもった運転台というのがこの会社の一般車に共通するデザインなのである。 ところで、1909年の400は前面こそ共通デザインであるが、ビュッフェをもつパーラーカーである。ノースショアー線は所用時間の点で並行する蒸気鉄道に対し不利だったために、食堂車やパーラーカーのサービスにも力を入れていたのである。 その最たる例は1917年に登場したパーラーカー兼食堂車。普段はパーラーカーで、食事時には食堂車となったのである。 といってしまうと「短距離では食堂車に向かう暇はないのでは」という事になってしまう。1917年時点の起点は、シカゴ市の北辺で高架鉄道からの乗換えが必要だったのだから、なおさらそうなのであるが、心配無用。あらかじめ食事希望のひとは食堂車に乗ってもらい、片道につき1コースを提供するという方式だったのである。食事の内容についても、併用軌道や高架鉄道のカーブの制約により車両に貫通路を設けられず、短時間で客を回転させる事ができなかったので、「短距離=短時間=簡単」とはならず、2時間程度の乗車時間をフルに使え、客単価の高いコース料理を提供していた。アメリカというと味が気になってしまうところであるが、実はアメリカというのはレストランでの外食に関してはこだわりのある人間も結構いるというお国柄、そういう人が急増していたのがこの時代で、「本場フランスで修行したシェフが作らなければ料理ではない。」とかバブル期の日本の成金的な発言をしていたという人間が結構いたという話もあり、があり、かなりきちんとしたものが味わえたようである。食事が意外に立派というのはインターアーバンの食堂車全体の共通事項で、ノースショアー線の終点、ミルウォーキーからウィシコンシン州南部の各地を結んだミルウォーキー電鉄の食堂車はフランス料理の定食「ターブル・ドット(table'd hote)」を売り物にしていたし、インディアナ・ユニオン電鉄のビュッフェはビーフステーキなどのメニューもあったという。1920年の時刻表によれば、食堂車はシカゴとミルウォーキーを朝7:00、昼12:00、夕17:00に出る特急列車に連結されていた。 |
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食堂・パーラーカーが転換可能な406の写真 出典:Electric Railway Journal 1917(以下の写真も同じ) |
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下 食堂車に転換した際の構造
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2−4 エレクトロライナー この会社の売りは高規格の線路による高速運転であるが、中でも取り上げられるのは黄金時代の末期に登場した高性能車、「エレクトロライナー」である。 インターアーバンの車両としては例外的に遅い1941年に登場したこの車両の概観上の特徴は、4車体連接の連接車であることで、全長は約50メートル。エアコンが装備され、車内には婦人専用席や軽食喫茶のサービスを行うパーラーカーもあった。 |
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WN駆動 |
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この列車の紹介は、そんな外見や車内サービスの紹介が中心なのであるが、この電車のもう一つの特徴で、現在の視点で見て特筆すべき点は性能面である。 その特徴とは、駆動方式にWN駆動を採用している事である。モーターの小型化と、ギヤ部分の振動や騒音を大幅に削減する機構が導入されていて、これによって乗り心地が大幅に向上しているのである(4)。その他に、電気指令方式のブレーキ(HSC)と超張力鋼による軽量設計が行われていて、1955年以降の日本で徐々に導入されたの「高性能電車」に相当する技術がほとんど取り入れられている。 編成の総出力は1000馬力(125馬力×8)で、4車体編成のうち、女性専用車両が1両、ビュッフェ車が1両という構成であった。 この高性能車の最高速度は135キロ。シカゴとミルウォーキー、そしてセントポールを結ぶ幹線鉄道の蒸気列車は最高速度180キロ(5)ぐらいで走行していたというからそれに比べれば見劣りするが、高頻度の運行を行う短距離鉄道の列車としては異例の速さである。エレクトロライナーは2編成導入され、これを用いた特急列車は1日4〜5往復運転された。 一つ問題を挙げるとしたら、それは定員が少ない事で、途中まで続行の特急列車を運行して客をさばくこともしばしばだったという。 |
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2−5 ピギーパック輸送 ノースショアー線は、貨物輸送でも著名な業績を残していた。といっても、全米の鉄道が集中し、ヤードと無数の貨物線が存在したシカゴ近辺で普通貨物輸送でそれほど顕著な業績を残せたわけではなく、それは小口荷物輸送の業績に関するものであった。勿論、小口輸送に関しても、それほど大規模ではなく、シカゴとミルウォーキーを結ぶ貨物輸送のうちのいくらかという程度であったが、方法がユニークであった。トレーラーの車体部分のみを搭載するピギーパック輸送を1926年という極めて早い時期にはじめていたのである。 こうしたサービスをはじめた理由は、高架鉄道を利用して直通運転を行ったというこの会社特有の事情がある。他社の場合、併用軌道区間に無理やり貨物列車を直通させ(大抵地元自治体と揉めた)たので、編成や運行時間、貨物の内容などに制約は加わったものの、輸送自体は可能というケースが多かったものの、ノースショアー線の場合、高架鉄道の都心部まで貨物列車を直通させる事は不可能だったために、郊外に積み替えターミナルを設けるしかなかったのであるが、郊外でのトラックでの積み替え輸送は高コストで、経営安定化を意図してはじめた貨物輸送が赤字になるという皮肉な結果をもたらしていた。 この解決策がピギーパック輸送である。会社は1926年、鉄道と自動車輸送両方に対応できるトレーラーを用意し、積み替え輸送によるコストを大幅に減らしたのである。その内容は徐々に拡充され、自動車輸送はミルウォーキーやラシーンでの集荷にも利用されるようになった。さらに1930年には、(実は輸送需要が減少した事が関係しているのであるが)一般のトレーラーの輸送も行うようになった。輸送は1947年まで続けられ、最盛期の1943年には1万8000台を輸送したという。 |
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出典:Electric Railway Journal 1926, Nov. 13
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2−6 運行 細かい事は時刻表を入手した時点で書く事にして(ノース・ショアー線とシカゴ・ノースウエスタンの近郊区間の時刻表を捜索中)、ここでは、1944年の時刻表から抜粋した都市間連絡の特急列車を主体とした時刻表を紹介する。 以下の時刻表は、とにかく競争が強烈であったという事実を示している。シカゴ〜ミルウォーキーは蒸気鉄道の哩程で85マイル。ノースショアー線の特急は2時間程度で走破し、表定速度は時速70km弱といったところだが、蒸気鉄道には1時間15分(表定時速108km)で走行する列車が存在する。本数もあまり見劣りしないし、かなりの列車に食堂車が連結されている(ちなみに、長距離列車だけではなく、シカゴ〜ミルウォーキー間の列車でも食堂車を連結していた)。ただし、蒸気鉄道の場合、現代のアムトラックと同様よく遅れたと言われているし、とにかくシカゴの駅は広大で、発着番線も一定しないので。定時性や切符の購入、乗車時間を含めた所用時間ではノースショアー線にも分があったかもしれない。 ちなみに、ミルウォーキー側に電鉄会社のライバルもいた。ミルウォーキー電鉄を拠点に路線を展開していたミルウォーキー電鉄はケノーシャまでの路線を持っていて(最初はシカゴまで路線延長を行う計画であった・・・)、ラシンなどではダウンタウン側を通過し、比較的乗客に恵まれているせいか専用軌道化などの改良工事も大々的におこなっていた。 <ノースショアー線特急列車時刻表>
(斜字:区間普通列車の始発と最終 シカゴ〜ウォーキガン間は区間便多数) <ライバル1 蒸気鉄道のシカゴ・ノースウェスタン鉄道の時刻表>
(★パーラーカー連結 食:食堂車 軽食:ビュッフェ) <ライバル2 蒸気鉄道のミルウォーキー鉄道(シカゴ・ミルウォーキー・セントポール・パシフィック鉄道)の時刻表>
<ライバル3 ミルウォーキー電鉄> ケノーシャ〜ミルウォーキー間 1日18往復(毎時1本) |
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2−7 しかし、路線は廃止に・・・ この鉄道の廃線は1963年。これは廃止になったインターアーバンとしてはもっとも遅い。 都市間連絡の役割は自動車などの発達で薄れてきたが、高速運転でシカゴ側には併用軌道がなかったことから、第二次世界大戦後もこの路線は通勤客輸送を中心に活躍した。しかし、輸送需要がピーク時のみに集中するのでは利益を上げるのは難しい。他方、人件費は次第に上昇していき、1940年代の後半から会社の経営は厳しいものになっていった。 パシフィック電鉄などと比較すると、この会社は速度の点で有利であったし、凍てつく冬の気候は、一定の公共交通への需要を残した。しかし、パシフィック電鉄は自動車とバス以外に競争相手を持たなかったが、ノースショアー線は、通勤輸送を行うミルウォーキー鉄道と、シカゴ・ノースウエスタン鉄道というライバル鉄道を持っていた。両者は運行間隔こそ多くはなかった(シカゴ側で一時間に1本程度)が、ラッシュ時を含めシカゴ〜ミルウォーキーを75〜90分程度で結ぶという圧倒的な速力を誇り、食堂車やラウンジなどの設備も充実していた。地域輸送はノースショアーライン、長距離輸送は両競合会社というような棲み分けが出来ていれば良かったのだが、需要全体が減る中でも各社は競争を行い、徐々に便数を少なくするという悪循環に陥っていた。 こうした中1958年、新線の登場により支線になっていたショアールートが廃止になる。このルートは併用軌道で需要は多かったのであるが、半面、運営費がかかり、需要は偏るということで存続は困難になっていたのである。おまけに、旅客鉄道路線の廃止許可を司る州際商業委員会(Interstate Commace Commition)は、運賃値上げは認めないものの、バスへの転換は認めると言う今から見ると妙な監督をおこなっていた。1960年代には、法律改正で商業委員会の権限もかわり、旅客鉄道は事前の届出で廃止出来るようになってしまい、会社は全線の廃止を表明。 この当時の写真はhttp://www.northshoreline.com/の歴史のページのものが分かりやすい、これに対し通勤者は反対し、委員会(6)まで作って反対運動を展開し、路線の購入まで申し出たというが、これはこれで価格の折り合いがつかず、法的闘争の末、1963年の1月の21日、路線は廃止になってしまった。手に入るビデオなどで最後の日の映像を見ると、7両編成の電車が走っていたりしていて、決して日本的な意味で利用者がいなかったわけではないのだが、通勤通学のために独立採算により長大な路線を維持するのは難しかったという事だろうか。勿論、ピーク時対応という点では、高架鉄道の規格に影響されるノースショアー線よりは、大型客車を何十両もつないでシカゴ都心に乗り入れられるミルウォーキー鉄道やシカゴ・ノースウェスタン鉄道の方が有利で、これも影響した可能性がある(7)。 ノースショアー線の廃止後、残った、2鉄道は徐々に本数を減らしていったが、近郊路線については現在でもシカゴの公営コミューターレール(メトラ)となって存続している。シカゴ・ノースウエスタン線についてはかつてのノースショアー線のルートに隣接していて、これでケノーシャまで行く事ができる。ケノーシャの南のウォーキガンまでは1時間に1本程度とある程度の本数があるが、機関車牽引列車で停車駅が多いために所用時間は長い。またミルウォーキーとシカゴの間については、(旧)ミルウォーキー鉄道の線路を使い列車運行が存続している。ウィスコンシン州の補助を受けたアムトラックの「ハイアワッサ号」という特急列車を1日6往復運転され、表定速度は90キロ程度と、中西部のアムトラック路線としては何故か高速である。またシカゴ市内の線路は、高架鉄道の延長線として整備されている。 車両の方も若干保存されている。車齢の若いエレクトロライナーは、廃線後、フィラデルフィアのノリスタウン線で1980年代まで活躍した後、イリノイ鉄道博物館で保管されている。この博物館にはノースショアー線の旧型車も多数保存されている。 部外者の日本人としては、環境問題や道路混雑の反動から路線復活、と言うのを期待してしまうのであるが。確かに、スコーキーバレールートを一部復活させ、高架鉄道をさらに延長させようという計画や、1日6本のハイアワッサ号を気動車化、スピードアップ、一部ルート延長(セントポールまで)した上で、シカゴ−ミルウォーキー間はかつてのノースショアー線のように毎時1本ぐらいの運行にしようという計画もないわけではない。とはいえ話はそう簡単ではなく、今出来る事はハイキングコースとして整備されている一部の廃線跡を歩く事ぐらいだろうか。 |
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<注釈> (1)新京阪電鉄は今の阪急京都線に相当する路線。京阪電鉄は今の京阪線の改良も積極的に行ったが、カーブが多かったことと、淀川の東岸では距離短縮に制約があった事から、西岸での新線建設を行ったのである。大阪側のターミナルは天神橋、ここは現在の天神橋筋六丁目で、地上にはターミナルビルが残っている。京都側は当初は西院まで、その後大宮まで延長された。大宮は当時は京阪京都と呼ばれていたらしい。当時の国鉄(鉄道省)の2等車並のシートピッチをもつクロスシートの電車(デイ100型)が使われていた。京阪電鉄は戦時合併で阪神急行などと合併し京阪神急行電鉄となるが、戦後の分離の際に新京阪線は阪急(名前はしばらく京阪神急行電鉄であったが)にもって行かれる。 (2)阪和電鉄は、現在のJR阪和線に相当する路線。全線50キロレールで建設され、天王寺〜東和歌山(現和歌山)間を45分で走行する超特急列車を運行した。転換クロスシート車(モヨ100、クヨ500:ただし背ズリが低いアメリカのインターアーバンでありがちなタイプ)や一部回生ブレーキ付のロングシート車(モタ300、クタ700)があり、回生ブレーキ付のモタ300とクヨ500の2連で超特急は編成されたという話がある。やや過剰投資気味のこの会社の経営はたいへんだったらしい、ようやっと経営が軌道にのりはじめた第二次世界大戦中南海に吸収され南海山手線となった後、終戦直前に国鉄に買収される。 ところで、阪和電鉄の120キロという数字は鉄道雑誌にも遠慮がちに書かれている。問題は@性能的に可能であったか、A法的にどうであったか、B実際はどうだったのか、という3つに分類出来よう。 @にかんしては、線路状態の悪いアメリカ中西部のインターアーバンの木造電車が120キロで走った(4章参照)という事例がある。中西部のインターアーバンの表定速度は50キロ程度であるが、市街地の併用軌道が長いので、専用軌道区間ではかなりの高速運転を行った可能性がある。東部のワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄の専用軌道部分の平均速度は105キロといわれており、最高速度についてはもう少し高かった可能性がある。ノースショアー線、サウスショアー線は120キロを越える高速運転が普通だったという話もあり、両社の車両より大型の200馬力モーターを持った阪和電鉄の車両であれば、1067ミリという軌間のハンディがあるとしても可能であったであろう。Aは不明(未調査)、ただし、これが一番問題であるような気がするので調べてみる必要はあろう。Bに関してだが、当時の阪和電鉄の車両にスピードメーターがあったかどうかは未調査。スピードメーターは速度査定を行う保安装置に対応して設けられたものだから、こういったものがなければ不用という話もあるので、高規格の阪和電鉄といえど装備していなかった可能性はあるし、あったとしても精度の問題もある。ということで、スピードメーターがない事をいいことに120キロ(もしくはそれ以上)ぐらいで飛ばした可能性はある(速度自体はキロポストなどを用いて計測可能)。天王寺〜和歌山間は最高速度100キロでも45分運転は可能なのだが、黒潮列車という客車を3両も連結した列車でも可能かどうかは不明(付随車が多くなると加速が悪くなるので高速運転でカバーする必要がある)。 (3)戦前の日本のインターアーバンの設備から言って、インターアーバンそのものではなく、蒸気鉄道会社の都市周辺の電化区間を参考にした可能性はある。ニューヨークのマンハッタン島は電車が登場する頃には蒸気機関車の乗り入れが禁止されていて、ニューヨークセントラル鉄道やペンシルバニア鉄道、ロングアイランド鉄道などの電車が大活躍していたし、シカゴではイリノイ中央鉄道が貨物線とは別個に複々線の電車線を設けて電車運行を行っていた。 (4)電車は通常台車内にモーターを置くのだが、モーターの回転力の車軸への伝え方が問題になる。車軸と台車との間にバネがあって、走行中は揺れ、衝撃などにより別々に動くからである。昔の電車は、車軸にモーターをぶら下げ、台車台枠と車軸双方でモーターを支える「吊り掛け式」を採用していた。これは19世紀末のスプレイグによる画期的な発明なのだが、線路からの衝撃がそのままモーターに伝わる上うるさいという問題があり、1940年代頃から、台車にモーターを固定して、回転力を車軸に伝えるモーターの軸の部分に揺れや衝撃への吸収機構をつけた駆動方式が採用される。この方式には、モーターやその軸の向きによって「WN駆動」「直角カルダン駆動」「並行カルダン駆動」などがある。こうした方式を採用した車両を日本では「高性能車」「新性能車」「無音電車(路面電車の場合)」などと呼んでいる。 最近(2002年12月)の鉄道ピクトリアルによると、WN駆動は1940年代の終わりにニューヨーク地下鉄に導入されたあと、それを参考に1950年代に地下鉄丸の内線の開業時の車両に導入されたらしい。そういわれてみるとエレクトロライナーの台車と丸の内線の台車は似ているような気がするが、筆者の調査が中途半端なため、エレクトロライナーからニューヨーク地下鉄への経緯が良くわからないのと、エレクトロライナーが大型車への最初の最初の導入例かどうかはよくわからないという問題が残っている。電気機関車との兼合い(ペンシルバニア鉄道のGG1という電気機関車はクイル式という駆動方式で非釣りかけ式)やヨーロッパでの動向(最高速度180キロのイタリアの特急電車「セッテベロ」は1950年代の製造)なども見る必要があろう。 (5)1930年代以降、長距離バスとの競争、蒸気鉄道会社間の競争などから、シカゴ〜ミルウォーキー〜セントポール間で高速列車の運行が行われるようになった。180キロというと驚異的な印象があるが、線路状態の良い欧米では在来線の最高速度は160キロ程度で、アメリカでも表定速度100キロ前後の蒸気、ディーゼル列車が盛んに運行されていた(現在のアメリカのアムトラックは遅いように言われているが、北東回廊以外でも線形の良い区間では表定速度80キロぐらいで走っているところが多く、最盛期に比べれば見劣りするというものの、日本のブルーとレインなどに比べれば高速である。問題は定時性で、手元にある資料には「1993年の長距離列車の定時運行率は47%」という恐ろしい数値がでている。趣味人としては遅れが出れば回復運転で黄金時代の区間平均速度が出るのでは?という期待をしてしまったりするのであるが。)。 (6)日本ではローカル線で沿線自治体や住民が運動をしたりする程度で、都市鉄道では一部の人々が議論をする程度であるが、アメリカでは多くの人、しかも利害関係者を巻き込むらしい。通勤者組合、通勤者委員会という方式は、法廷闘争に持ち込めるという点で有利で(日本でも鉄道の廃止やサービスに対する訴訟が行われた事があるが、原告が一部の地域住民に限られ、原告不適格で棄却されることが多い。)、アメリカでは今でもかなりの力を持つらしい。 最近のアメリカではTMAという交通環境整備のためのNPOの活動も盛んである。日本でも交通問題に関心をもつNPO、NGOの存在があるが、多くの人を巻き込む魅力という意味ではまだまだである。 (7)並行路線という点では、オーロラ・エルジン線が一番大変であったという話もある。この路線はシカゴの高架鉄道からまっすぐ西へ向かい、途中のホイートンで二股に分かれてオーロラとエルジンという町に向かうのであるが、分岐点のホイートンまでほぼ並行する路線と、オーロラにもエルジンにそれぞれまっすぐ直行する蒸気鉄道がある。しかも、どの線も対シカゴの通勤需要を見越して三線、もしくは複々線になっていて、通勤列車が運行されていたのである(現在でもメトラとして存続中)。対するオーロラ・エルジン線は複々線区間こそなかったものの、全線専用軌道の高規格路線(本数もノースショアー線以上に多かった)で1950年代まで健闘したものの、高速道路建設の為に高架鉄道の一部区間が撤去(現在は一部地下化、地上区間は高速道路中央に移設。高架鉄道本体は路面-併用軌道ではなく、平面交差の多い地上らしい-を迂回運行したが、オーロラ・エルジン線の車両にはそれができなかった)されてしまったために命脈が尽きてしまった。この線は1957年 |
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<ページの履歴(著者備忘メモ)>
2003年1月16日作成/2月15日更新
2004年5月4日路線図追加(ただし2006年6月30日に削除)、加筆
2006年4月3日 章番号とリンクを変更
2006年6月30日 サーバー移転、内容と写真を大幅加筆(旧版はこちら、但し新版も旧版の内容をほぼ反映させています)
2007年4月2日 テキスト部分の表記ゆれ(Racine=ラシーン、Evanston=エヴァンストン、Waukegan=ウォーキガン)とオーロラ・エルジン線の記述修正
2009年3月21日 章番号変更 5章⇒3章