アメリカ旅客鉄道史おまけ(雑談と掲示板) 作者のアメリカ鉄道雑談

○父と路面電車
2005/11/24
 父が亡くなって一ヶ月になる。
 肺癌療養中に低酸素脳症を起こし、二ヶ月ほど意識不明の状態であった。

 私の父は鉄道ファンではないし、私は鉄道趣味を生業にしているわけではないのだが、父との生前の最後の会話の中には、なぜか路面電車に関わるものがあった。思えば、それは別れの前触れだったのかもしれない。


 療養中の父曰く
 「どうも路面電車というような存在は、最初から懐かしさを感じるようにしか存在していなかったのではないか?」

 アメリカの路面電車は、アメリカの古きよき時代(1900〜1930)の象徴である。にぎやかなマーケットや食堂が並ぶ繁華街を走る、重厚な路面電車、運転手と車掌は詰入りの制服で身を固め、ニス塗りの車内できらきら輝く真鍮の手摺がアクセントになっていた。ダウンタウンは荒廃し、町を走るのはマイカーと薄汚れたバス、バスの運転手はラフな服装といった現在のアメリカからすれば懐かしくなるもの当然であろう。懐かしんでいるのはアメリカ人であるが、路面電車を古きよき時代の象徴とするジャック・フィニイの「ゲールズバーグの春を愛す」という小説は日本でもかなり有名である。父も当然の事ながら、それを読んでいた。
 趣味人として私が考えた事は容易に想像がつくであろう。19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけての路面電車はハイテクな機械であったし、1930年代に登場したPCC車はモダンな車両である。必ずしも古めかしい存在ではない。しかし、他の使われなくなった往時の生活道具がかならずしもノスタルジーを感じさせるわけでもないのに、PCC車もある種独特の魅力を持ちつづけ、懐古趣味の愛好家にもそれなりにうけいれられている。日本でもアメリカでも合理化と称して安っぽい電車が製作された。この種の車両(都営8000系と言えばわかるだろうか)は今走っていても近代的には見えるだろうが、利用者には不評だった。路面電車たるもの、しっかりしたものを製作すると、ノスタルジーとまでは言わないまでもある種の魅力を持つのは確かなようである。その意味で父の言葉は1つの真実を言い表している。

 路面電車の魅力、しいては軌道系公共交通の魅力というのは私の永遠の研究課題である。父もある種の魅力という点では合意していた節があるのだが、それは、文明と人間との接点、その到達点としての軌道系公共交通のある世界という事であるらしい。近年のLRTブームだって、経済効率やエネルギー効率では説明できない事がたくさんある。都市交通の改善は「専用道路に3連接の天然ガス駆動のバスを走らせる」という方法でも安価で同様の効果が出るというのに、欧米を含めてそういった方向に話が進まないのは何故か?裏で鉄道ファンや金のかかる公共事業を好む土建屋が暗躍しているからだというと陰謀めいた話になるのだが、人間と文明の接点からすると、オイルやガスとラバータイヤではなく、鉄と電気のハーモニーが相応しいといってしまうと、哲学的にも肯定できてしまうような気がしてしまう。この議論にどこまで正当性があるのかは不明だが、アメリカの観光地では路面電車を実際に復元したり、そこまでいかないまでも路面電車を模したバスを走らせているところが多い。昔風がいいのなら、1930年代デザインのバスでいいのだが、そういった動きもないわけではないものの、まずは路面電車となることには何か意味があるのかもしれない。


 父のこの世との別れを目にして思った事はもう一つある。
 人の死とシステムの死というと言うのは似ているのではないかという思いである。システムとして挙げれらるのは会社なり、1つの国家や組織なり、色々挙げられるのであるが、鉄道システムというのもその範疇に入るであろう。
 日本では鉄道が依然陸上輸送の主役を務めていて、鉄道システムの死といってもピンとはこない、しかし、アメリカの鉄道の盛衰を見ていくと、否が応にも鉄道システムの死、もしくは死に似た情景を目にせざるを得なくなってしまう。列車ごとに区分された切符受け付けカウンターに並ぶ人々の写真、行きの小駅で列車の接続を待ったあと、出発準備を整えている地方の夜行列車、長距離列車の車内で談笑する人々。いずれも、この国では見られる事のなくなった情景、一世紀前の人間と話すがごとく、最早追体験することが出来ない思い出の一コマなのである。
 勿論、アムトラックは長距離列車の運行を継続しているし、大都市近郊の通勤鉄道の車内発券の切符は穴あけパンチ式、昔の鉄道の名残はたくさん残っているのであるが、それは鉄道が不死である象徴と言うよりは、遠い未来の子孫の姿という印象を強める。

 人は死んでしまったら生き返らせる事ができないかけがえのないものであるが、物は復元可能である。それゆえ、人間は物の消滅と言うのにあまり気を払わないが、物の集合体に人が参加するシステムと言うのも生き返らせる事はできない。復元させる事はできそうな気もするのだが、人間の世界に後継者がいるような感じで、それは同一の存在ではないわけである。


 世の中にはかけがえのない存在が多い、人の死を見、その後システムの死を考え、そして自らの時間の有限さを悟った後、私はそう思った。その一方で、ノスタルジーや魅力と言った、あまり現実の存在の有無とは関係ないところで評価されるものの意外さを感じた。もっとも、そこには現実存在に対する痛烈な批判が含まれているのかもしれない。
 一体、人生とは何なのか、文明とは何なのか、存在とは何なのか?私のアメリカ鉄道趣味は単なる趣味活動ではあるのだが、貴重な人生の時間を割いて行っていること故、こういう問題といつかは向き合っていかなければいけないのかもしれない。


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