アメリカ旅客鉄道史おまけ(雑談と掲示板) 作者のアメリカ鉄道雑談

○忘れ物
2005/1/4
  HP移転工事では、自分でも思いもかけないものを発見する事がある。
  次の文章は作成してファイル転送まで行ったのだが、一覧を更新し忘れて日の目を見ないままサーバーに保管されていたものらしい。

○アメリカシート論その2(2004年8月15日)

○パシフィック電鉄シート補足

 「転換クロスシートはアメリカ流詰め込み式?」の項目で、シートピッチ改善をした車両があると書いたが、その内容は、3+2人がけを2+2人がけにして、シートをレザー式にしたというものであった。座席の幅は広がったというものの間隔は広がっていない。対象車両はもともとサンフランシスコ近辺を走っていた、車体長72フィートの「ブリンプ」で、第二次世界大戦後の300・400系列を名乗った車両である。中でも、オークランドのサザンパシフィック電車線を走行した車両は図体は大きいが、製造は鋼製ながら1910年代の古株。藤製の簡素な転換クロスシートは間隔が75センチあるかないかという車両。人々はどういう気持ちで利用したのであろう。
 座席をレザーにして体質改善を図った系列の有名なものに、西部路線で活躍したロサンゼルス・パシフィック出身の950系(700系)がある。レザーシートへの取替えは30〜40年代の更新工事時であるが、この車両は1920年代にもオープン座席を密閉化するなどの大規模工事をしている。もともとは1900年代の製造で、勿論木造車。地下鉄路線用に50両近くが一度に製造されたが、地下鉄は結局実現しなかった。

○パーラーカーとリクライニングシート

 昭和33年に登場し、電車での特急運用を可能にした151系にはクロ151という車両が存在した。この車両、単編成化で登場した近年の特急の運転台付きグリーン車とは訳がちがう。室内には、1人がけのリクライニングシート、先端には6人用個室があり、パーラーカーと呼ばれていた。
 と、ここまでは昔から知っていたのだが、単純に記憶になっていただけでそれ以上の発展がなかった。しかし、良く考えると面白い。問題は、端に個室があるという構造である。アメリカではこれは昼行用ドローイングルームと呼ばれ、北東回廊の長距離列車にかならず存在した。個室は1両につき1室でパーラーカーの一角に設けられていたのである。151系は20系の個室寝台(2人用個室+1人用個室という組み合わせは、戦後のアメリカの標準的な寝台車のパターン)と同様、アメリカの車両のレイアウトをそのままとり入れたということらしい。
 アメリカの鉄道は基本的にモノクラスで、これは階級社会を否定した19世紀のアメリカの世相を反映したものと言われている。長距離列車は普通座席車(Coach)と、プルマン寝台車の二種で構成されていて、プルマン寝台車は、寝台料金の他に、普通座席車より高額の運賃をとられるのが常であったが、これは付加サービスに対する対価という位置付けであった。確かに階級社会を反映した等級制度となると、大してサービス内容に差がないのに料金で明確に差をつけるといった事が起り得る。現にヨーロッパの等級制度はそれに近いものがあった。
 こんな社会ではパーラーカーの立場というのはちょっとした問題である。階級制度のないアメリカの鉄道に優等座席車があるというのはいかがなものかと。それに対しては、付加料金を払って贅沢をしたい人ならだれでも利用できる付加サービスを行う車両である、という微妙な言い訳がなされた。平等というのはある種建前だけのところがあり、黒人の座席車乗車が許されなかった状態が長く続いた
(1のだから優等座席車の存在くらいどうでもいいような気もするが、こういう気兼ねもあったのか、アメリカのパーラーカーでは付加料金に見合うだけの豪華な設備が設けられていて、ヨーロッパからの旅行者はしばしばこれに驚いていた。ヨーロッパでは1等といっても、窮屈な個室に何人かが押し込まれる構造にかわりはなかったのだが、パーラーカーは基本的に1人がけの回転可能な座席が並ぶ車両である。そして、料金は三等の数倍にも及ぶ1等運賃に比べると非常に廉価であった。この種の車両は1860年代にはすでに存在し、アムトラックの特別席に引き継がれている。

 ところで、パーラーカーのみならず、普通座席車の改良が著しく進んでいたのもアメリカの特徴である。1950年代には長距離列車の座席車のほとんどはリクライニングシート、しかも、後に日本で普通車に採用された簡素なものではなく、グリーン車に採用されたような立派なものである。昭和30年代の日本のアメリカ鉄道紹介には「アメリカには日本の3等車にあたる座席がなく、貧乏な人間は旅行できない。」とある。当時の日本の購買力からすればそうなのであろうが、普通のアメリカ人の感覚から言えば日本の特別2等車(グリーン車)級のサービスが3等料金で利用できたとするのが正しいのであろう。なお、リクライニングシートとは言え、2人がけでは、1人用座席のパーラーカーとの格差は歴然としているという認識もあったとも考えられる。リクライニングシートを見て1等扱いしようとした日本人を進駐軍が止めた(但し、この話には異説あり)のはこういった心理があったのかもしれない。
 ところで、現在日本で伝えられているリクライニングシートの歴史には大きな誤解がある。どこの本にも飛行機用の座席が発展してリクライニングシートになったとあるのだが、これはあくまでも、流線型客車などで使われた「軽量の」リクライニングシートの発展の話。鋳鉄製の重量のありそうなリクライニングシートに関しては19世紀には実用化されていた。実際に使うとなると、企業のサービスに対する意識次第ということなのであろうが、競争激しいシカゴ〜セントルイス間を結ぶアルトン鉄道などでは1870年代に追加料金不用のリクライニングシート車の連結がすでに行われていた。これは一次的な試みではなく、1910年代のリクライニングシート座席車の写真なども見たことがある。
 ところで、普通車がリクライニングシートとなると、追加運賃、料金をとるプルマン寝台車の立場が微妙になる。夜間だけならよいのだが、2晩以上にわたる列車運行が日常茶飯事のアメリカの事、昼間のプルマン寝台車に関しては、「常に半分の乗客が進行方向と反対を向かなくてはならない」「座席の傾きが変えられない」と日本の583系にあったような苦情が日本に寝台車がなかった19世紀の頃から寄せられていたという話がある。実はこの問題、解決策がないわけでもない。寝台を完全に撤去し、寝台の下に収容していた座席を使用する形式の寝台車が1880年代に登場していた。夜間はプルマン寝台車、昼間はパーラーカーとなる優れた機構である。しかし、この座席形態は本格的に採用されることなく、標準型のプルマン寝台車が標準となる時代が長くつづいたのである。

↑おまけ写真2枚 アメリカの普通座席車の写真
日本のグリーン車とほぼ同等のもので、かなり深くリクライニングする
10年前の車両といっても通用しそうだが、実は1936年製(シートも往時のもの)
こんな座席が普通車だったのだから、進駐軍が「国鉄へのリクライニングシート車の連結」と「リクライニングシートの2等扱い(国鉄側は1等扱いを検討していたらしい)」であることを要求したのも無理はない。
高いサービス水準を誇るアメリカの鉄道の旅客サービスに対し、当の国鉄側は「アメリカには3等というものがなく、わが国の2等にあたる車両を利用せざるを得ないので豊かな人以外は鉄道で旅行ができない」と報告書の海外報告等でさりげなく反論している。

<注釈>

1)黒人は差別されていたから白人と一緒の車両に乗ることはできなかった。と言えるのかどうかは微妙で、奥が深い問題である。
 黒人と白人の分乗が進んだのは南北戦争で黒人奴隷が開放された以降の話で、それ以前では北部では問題なく乗車可能。南部でも所有者同伴で乗車可能だったケースがあると思えば、荷物車への乗車を可能とするケースもある。南部の鉄道を中心に(特に奴隷でない黒人の場合)貨車への乗車を通常の半分の運賃で認めるというケースは良くあったようだ。貨車であっても乗れる乗れないという移動の権利に関わる問題もある。南北戦争後は、サービス内容は同じでも、分乗というケースが増えたようである。1930年代、流線型車両の時代に至っても、南部の鉄道では白人用座席車、黒人用座席車が分けられていて、気が重くなったりする(東洋人の乗る場所が良くわからないという疑問もあるので・・・、一応座席の質は同等で、当事者は「『差別』ではなく『区別』と言い張ったようだが・・・)。
 もっと良くわからないのはプルマン車のケースである。普通座席車が分乗という状態ではとても乗車は認められないであろうと考えてしまうのだが、プルマン寝台車の料金が払えるくらいの社会的地位のある黒人なら下賎な白人よりましという解釈で南部でも乗車が認められるケースもあったというし、わざわざプルマン社に乗るような人の場合、何がしかの黒人開放運動に関わっていたら事だ、という事であえて咎めず、というケースもあったらしい。他方、北部においても、黒人客がプルマン寝台車から追い出されるケースもあったというし、南部の差別の現場を知らない北部のリベラルな知識人だったりすると、まさに現代人感覚で肌の色など気にせずに南部に向かう列車で食堂車での食事に招いたりするので、当の黒人運動家のほうが恐縮して気を使ってしまったなんていうケースもあるらしい。また、海外からの旅行者については別格だったという話もある。このあたりは時代による差異もあり、謎が多い。
 また、人種差別問題と交通とのかかわりで言うと、公民権運動の時代のモンゴメリーバスボイコットというのも研究対象とすべきなのかもしれない。当時のモンゴメリーはGMのバス子会社「ナショナル・シティ・ライン」の一大拠点なのである。会社がバス車内での分乗や白人優先という事態をどれだけ公に認めていたかどうかは興味深いところで、GMのバス会社が悪者視されるのはもしかしたらこのあたりに原因があるのかもしれない(と思い、探りを入れている)。


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<更新略歴>

2004年8月15日 作成されたものの、リンクがつけられなかったらしい

2006年1月4日 サーバーで孤立していたのでひとまずリンクつけて移設
2007年3月11日 写真追加