アメリカ旅客鉄道史おまけ(雑談と掲示板) 作者のアメリカ鉄道雑談

○山陽鉄道の寝台車と運賃
2004/11/7

 忙しくて更新も、ホームページに関する感想・意見に関する返事も十分に出来ていないのだが、当面この状態が続きそうなので、今後は工夫を試みたい(対応策として2006年1月、掲示板を設置しました。書き込みお待ちしています)。

  さて、最近の活動だが、書きかけの原稿が沢山あり、これは順次アップロードしていくとして、中でも面白いと思ったのは明治時代の山陽鉄道の寝台車の話である。前から山陽鉄道の寝台車には関心を持ってるのであるが、その理由は、定員52人の二等寝台車にある。
  この寝台車、長らく私にとっては謎の存在であったが、「日本国有鉄道百年史」には図面入りで載っていた。形式は9130型、明治36年山陽鉄道兵庫工場製造、自重は20.73トンとの事である。
  一番気になるのは寝台構造であるが、残念ながら、図面では丁寧には記されていない。寝台の機構上の話としては、全長13.5メートルほどの客室を13に区切って寝台にした事と上段用に明かり窓が設けられていた事が判るだけである。
  となると、文章情報に頼らざるを得ないのであるが、日本国有鉄道百年史の本文には、「下段の寝台は実質的には背摺りを傾斜させた椅子に近いもの(日本国有鉄道史 第4巻 p134l17)」とある。文献によっては「寝椅子」と表現される事もある。シートピッチ1メートルの寝椅子というとリクライニングシートを連想してしまうが、どうもそうではないようである。
  この車両の事を考えるとき、アメリカ流の車両の導入に熱心だったんだから、リクライニングシート車にしてしまえばいいのに、といつも考えてしまう。アメリカではリクライニングシートの特許が1850年代には取得され、1870年代にはリクライニングシートの「チェアーカー」が導入されている。そういう事を考えると、この時代にリクライニングシートがあっても不思議はないのだが、アメリカから輸入したのでは高価で整備も大変だっただろうし、車体幅が2.4メートルしかないからシートピッチ1メートルとしても横3列で39人の定員しかとれない。当時の山陽鉄道の技術者がリクライニングシートの存在を知っていたかは謎であるが、現在から見れば中途半端な車両を導入した理由は納得できないものではない。どちらにせよ、この寝台は2等利用客にとってなかなか好評だったのである。

  ところで、日本の鉄道の歴史では、山陽鉄道の一等と、官設鉄道の一等が同等のものとして取り上げられている。しかし、運賃表を見ると簡単にそうとはいいきれない事実が浮かび上がってくる。
  以下は300マイル(当時はマイル制だった)を旅行したときの運賃である

官設鉄道
一等:10円57銭(寝台料金 昼間2円、夜間3円、終日5円)
二等:5円54銭
三等:3円52銭
山陽鉄道
一等:7円53銭(寝台料金2円)
二等:5円40銭(寝台料金上段20銭、下段40銭)
三等:3円27銭

  官設鉄道の一等車は三等運賃の3倍、対する山陽鉄道は2.3倍で、寝台料金にも格差が見られた事から、同じ距離の移動に対し相当の価格差が存在したというわけである。
  こんなに差があって、国有化時に問題はなかったのかという議論が出てきそうであるが、明治40(1907)年に適用された新運賃では、山陽鉄道の水準に近い新運賃が適用されたので、実質的には大きな値下げとなった。このとき、一等運賃は三等運賃の2.5倍となっている。もっとも、大正7(1918)年・9(1920)年に大幅な値上げがあり、一等運賃は三等運賃の三倍に戻ってしまった。設備が大幅に向上したとはいえ、大正9年の一等寝台料金は下段で7円で、これは旅客の一等離れにつながり、最終的には昭和初期の東海道・山陽以外の幹線での一等車の廃止につながることとなった。ちなみに、明治43年に登場した2等寝台の料金は2人用3円50銭、1人用2円50銭で、旧官鉄の一等寝台料金4円、旧山陽・日本鉄道の一等寝台の料金3円に比べても随分高い。大正9年の2人用を改めた大型二等寝台の料金は6円50銭であった。



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