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2.パレスカー・プリンス
    寝台車会社、プルマン社の栄光

はじめに

 「プルマン(pullman)」この言葉には特別な響きがある。辞書を引くと発音記号付きで「豪華な寝台車両」という意味が示されているし、日本でも幅広の中央通路式の開放寝台
(1)を指してプルマン式と呼ぶことが通例になっている。「プルマン」の語源はかつてアメリカに存在したプルマン社という寝台車専門の会社からきている。この会社は、各鉄道会社に車両を貸し出して大いに栄えた。「大いに栄えた」と言われてもあまりぴんとこないが、全盛期のプルマン社は8000両の寝台車・パーラーカー・食堂車を保有し、アメリカの豪華列車の車内サービスを担っていた。プルマンと言う言葉は、空前の鉄道会社、プルマン社が残した最大の遺産なのである。

目次

2−1 アメリカ鉄道黄金時代の鉄道事情
2−2 ジョージ・プルマン
2−3 車両の特徴
2−4 現代アメリカの寝台列車


2−1 アメリカの鉄道黄金時代の鉄道事情

 プルマン社がどんなにすごい会社であったかは、アメリカの全盛期の鉄道事情を知っていると分かり易い。いかにアメリカ広しといっても、大して列車が走っていなければ寝台車の経営を一手に引きうけていたとしても大した事はない。現代のアメリカはまさにそういう状況だが、今から半世紀前ぐらいは随分違った。星の数ほど列車が運行されていて、そのうちのかなりの列車に寝台車が連結されていたのである。
 例として、大陸横断ルートの一つ、シカゴ−ロサンゼルス間を取り上げよう。現在、このルートでは、アムトラック(Amtrak,米国旅客鉄道公社)が「サウスウェストチーフ」という列車を1日1本走らせている。所要時間は46時間程度。全車2階建て客車を使用し、食堂車・ラウンジを連結したなかなか立派な列車である。
 それでは50年前はどうだったか。まず、アメリカという国が、1920年代には自動車や電気冷蔵庫が一般的になるほど早期に経済的な成長を実現していた事に注意しなければならない。そのためにかなりの人間が今と同じように全米を跳びまわる程の余裕をもっていたり、市場の需要により全米を回ってビジネスを行う必要が存在していたりしたのである。当時は飛行機が発展途上だったので、かなりの人が鉄道を利用した。当然、現代アメリカの飛行機利用客の何割かに匹敵する鉄道利用客が存在したのである。
 現在「サウスウエストチーフ」運行されているルート、シカゴ−カンサスシティ−ロサンゼルス間は、当時はATSF(アキソン・トペカ・サンタフェ鉄道)という鉄道会社が所有し、旅客列車も直営で運行されていた
(2)。1956年の時刻表によると、この会社は、このルートに「スーパーチーフ」「チーフ」「エル・キャピタン」「グランドキャニオン」という4本の直通列車を走らせていた。このうち「スーパーチーフ」は全車個室寝台、「エル・キャピタン」は全車リクライニングシートの座席車である。同名の景勝地への観光客輸送を意識した「グランドキャニオン」以外の列車はこの区間を39時間30分運転、表定速度は90キロに達した。ちなみに、1950年代というのは走行速度の面での黄金時代で、表定速度90〜100キロで突っ走る長距離列車がATSFに限らず、群雄割拠の各鉄道会社で花形列車として運転されていたのである。
 1950年代は飛行機との競合がすでに激しくなっていた時代である。すでに旅客は減少を続けていて、高速列車の存在はその対応策である。さらに遡る事30年、1920年代には鉄道の競争相手が少なく、スピードは劣るものの、大量の列車が運行された時代が存在した。顕著な例としては1920年代のATSFの全車プルマン寝台の看板列車「カリフォルニア特急(California Limited)」が挙げられる。この列車は夏季の混雑シーズンには7編成(7 section: それぞれがプルマン車12両で構成されていた)を続行で走らせていた。当時のこのルートは3泊4日が前提、車両が一回りして戻って来るまでに最低6日を要したから、毎日7編成の列車を運行するために、全部で45編成の車両を用意されたという伝説もある
(3)(4)
 話はこれだけでは終わらない。日本であれば1000キロを超えるルートで、所用時間が同条件の別ルートは存在など想像もつかないが、アメリカでは19世紀後半に鉄道会社が乱立、結果主要都市間では数社が競合する状況が常識となっていた。シカゴ−ロサンゼルスルートでは、ユニオンパシフィック鉄道が別ルート(オマハ・ソルトレークシティ経由)で「シティ・オブ・ロサンゼルス」「チャレンジャー」という2本の直通列車を運行。このうち「シティ・オブ・ロサンゼルス」は39時間運行でATSFとスピードを競った。また、最速列車でも45時間を要したものの、サザンパシフィック鉄道もロックアイランド鉄道と連携して2本の直通列車を運転していた。合計すると8本もの列車があったのである。
 勿論、これはシカゴーロサンゼルス間の特殊事情で発生した話ではない。シカゴ−サンフランシスコ、シカゴ−シアトルとかいった他の大陸横断ルートの他、主要都市間ではしばしば起こったのである。あまり知られていない話だが、アセラの走る北東回廊のニューヨーク−ワシントン間などでも競合路線があり、今では存在しない異なるルートで列車が走っていたりしたのである。そして、こうした列車に連結されている延べ10000両近くに及ぶ寝台車やラウンジはほとんどがプルマン社の経営だったのである。


2−2 ジョージ・プルマン
左:ジョージ・プルマン(1831.3.3〜1897.10.19)
(出典:Wikipedia英語版のパブリックドメイン画像庫
 鉄道黄金時代の寝台車経営を一手に引き受けたというのは並大抵の事ではない。そのためか、プルマン社の創始者であるジョージ・プルマンは偉人扱いで、アメリカの児童向けの伝記集の一冊に名前を連ねていたりする。彼、ジョージ・プルマンが寝台車会社を始めたのは1858年の事である。
 プルマン車はアメリカの寝台車の代名詞のように言われているが、彼が寝台車を発明したわけではなく、アメリカには1830年代から寝台車が存在した。ただ、これらの初期の寝台車は設備、付属サービス、利用料金の面でバランスのとれたものではなかったものではない事は先に説明したとおりである。とはいえ、南北戦争以前のアメリカの可航河川で大いに繁栄していた蒸気船では豪華客室を備える事が通例であり、また、ビジネスマンなどの場合はお金があっても寸暇を惜しんで車中泊をするケースもあり、寝台車への需要は必ずしも小さいものではなかったようである。1850年代中頃、ウッドラフ社という会社がプルマン社に先駆けて設立され、鉄道会社の枠を越えた寝台車の運行が行われるようになった。この寝台車に乗って不満を覚え、独自の寝台車会社設立をもくろんだのがジョージ・プルマンであった。
 ジョージ・プルマンはNO9という寝台車を建造し、寝台車運行に乗り出した。しかし、既に先駆者がいる中での参入であるというのに、当初のプルマンには今一つ覇気が欠けていて、NO9は中途半端な寝台車であるという評価が与えられている。NO9は写真が残っているがこれは19世紀末に復元されたレプリカで、実物の構造には謎が残っている
(5)
 やる気不充分なまま数年間西部で過ごした後、プルマンはやっと本格的な寝台車建造に乗り出す。2万ドルを投じて「パイオニア」
(6)という豪華寝台車を建造し、これがリンカーン大統領の葬儀列車(但しこれには異論あり)に使用された事からプルマンは名声を勝ち取る事ができた。
 彼の会社の特徴は大きく分けて2つある。一つは、自らは車両と乗務員だけを保有し、これを各鉄道会社に派遣するという商売を成立させた事である。南北戦争後のアメリカには巨大な鉄道会社が生まれはじめていたが、巨大といっても会社独自で運行する都市間ルートは限られている。見栄を張って豪華寝台車を導入しても乗客には受けないかもしれない(イリノイセントラル鉄道はプルマン社登場以前に豪華寝台車を登場させていたが、他の会社は追随しなかった)、もし受けなかったら無用の長物である。こんな事が鉄道会社のサービス向上の妨げになるのだが、複数会社の列車に寝台車を連結できるプルマン社なら、乗ってくれる会社の路線に車両を派遣すればいい。両者の思惑が上手く一致したのである。先駆者のウッドラフ社をはじめ、いくつかの寝台車も同様のサービスを行ったが、プルマン社はサービス(黒人をポーターとして雇用する)や料金の設定が絶妙で、これによりプルマン社は成功をおさめていく。
 もう一つの特徴は、自社で車両工場を保有していたという事である。ここでは、自社の寝台車だけではなく、金持ち向けの豪華な個人専用車なども製作した。豪華車両を大量生産できたのである。


2−3 車両の特徴

 プルマン社の話の中で意外に知られていないのは寝台車の種類や形式である。日本の寝台車であれば、10系、20系といった系列と「マロネ29」とか「ナハネ10」とかいう形式があって、さらに調べれば「マロネ29はツーリスト型(昼間ロングシートで夜は2段式寝台となる戦前の標準的2等寝台)で定員28」とか「ナハネ10は3段式3等寝台(B寝台)で定員60」とかいった事がわかるのだが、アメリカの寝台車にはそう言った情報が伝わってこない。そういった事から「アメリカ人は適当だから適当に寝台車も作っているんだろう」的な想像で片付けてしまうのであるが、最盛期に8000両もあった車両が適当に管理されているわけがない。プルマン寝台車にも形式があったし、寝台の種類もかなり簡潔に分ける事ができる。

○寝台車の区別

 プルマン社は最盛期には一晩5万人分もの寝台車を提供したといわれているが、寝台の種類は簡潔であり、以下のように大別できる
(7)

@セクション:
 いわゆるプルマン式寝台。中央通路の開放式で昼間はクロスシート。夜は2段式寝台となった。日本の2段式寝台と同じであるが、上段へのはしごが見当たらない(ゆえにアメリカでは上段寝台の人気がなかった)のと下段のマットレスが分厚いのが特徴。

1890年代前半のペンシルベニア鉄道のセクション寝台(形式不明)
(1895年の"Car Builder's Dictionary"より)

セクション寝台の様子その2 1908年製造の”JAMESTOWN”
セクション寝台の様子その3 1936年製造のデンバーゼファー用流線型車両
セクション寝台車の製造は1950年代頃まで

Aデュプレックス・ルーム(デュプレックス・ルーメット/デュプレックス・シングル・ルーム):
 1人用個室。日本の「ソロ」のように、一部重ね合わせる事によって定員を稼いでいる。ベッドは枕木方向のものも枕木に対して垂直のものもあり様式は複雑。
Bルーメット:
 1人用個室。中央廊下式で両側に個室が並ぶ。トイレ・洗面台着き
Cダブル・ベッドルーム:
 2人用個室。側廊下式で枕木方向にベッドが備わっている。
Dコンパートメント(=ステートルーム):
 2人用個室。ダブルベッドルームと同様に側廊下式だが、ダブルベッドルームより広い。

1893年製 Plan1011A 「AMERICA」 10セクション-2ドローイングルーム-1ステートルーム (1895年の"Car Builder's Dictionary"より)
この車両はコロンビア博覧会用の特別車両で、この室内配置を採用した車両は当時この1両だけだった(後のPlan2078で採用される)。

 "America"の個室寝台
ドローイングルームとコンパートメントの間の扉を開け放ったところ。 (1895年の"Car Builder's Dictionary"より)

1936年「デンバー・ゼファー」ダブルベッドルーム

Eドローイングルーム:
 2〜3人用の個室寝台。昼間は広々とした居室となる。トイレ・洗面台がついている。
Fマスター・ベッドルーム:
 2人用の個室寝台。最上級の寝台車で仕様は連結列車毎に随分異なるが、ドローイングルームをさらに広くして、シャーワー室を設けている場合が多い。

 格付けをするとしたら@<A<BC<D<E<Fと言ったところだろうか。一人利用の場合の料金はこの順番と考えて間違えないと思われる。
 ちなみに、デュプレックス・ルームやルーメットは1930年代の個室化の流れで登場したものである。マスターベッドルームも、この頃登場した特別室を区別するために登場したもので、それ以前の寝台車は、セクション主体で、それに、ダブルベッドルームとコンパートメント、ドローイングルームといった個室寝台が付け加わった程度であった。トイレ、洗面台を備え、3人収容が可能な寝台としてドローイングルームは確立した様式をもっていたが、ダブル・ベッドルームやコンパートメントの形式は時と場合によって変化が激しい。なお、古い文献にはステートルーム(Stateroom)と呼ばれる個室があるが、これは後のコンパートメントの事で、名称変更は1906〜1910年の間に行われている。

○12セクション−1ドローイングルーム



<↑プラン2410の初期タイプ、1910年製造の鋼製寝台車「カーネギー」開放区画が10区画(20寝台)と、トイレ付きの個室が一室、更衣室が2つある事がわかる。重量はこれで60〜80トン>

 先に記した7タイプの寝台を適当に組み合わせると一両の寝台車が出来る。同一設計の寝台車にはプランXXXXというかたちで形式番号(プランナンバー)が割り当てられた。ちなみに最初の形式、plan1は先に記したNO9と同形式のNO19(NO9とか19と言った数字は個々の車両番号である)で、「パイオニア」はplan5である。同一のプランナンバーでも製造時期の違いで構造に違いが出る(そこで、ロットナンバーが別に割り振られているのだが)のだが、同じプランナンバーならほぼ同じ形式と考えて間違えないだろう。
 プランナンバーは9000番台まであり、少なくとも3000番台くらいまではぎっしり詰まっている。この中にはプルマン社が製造した座席車が含まれているのではっきりとした数は不明だが、数千形式にのぼる寝台車が存在する事になる。
Plan784C DIOSMA (1891年製)
Plan784シリーズは1890年から1892年に200両ほど製造された12セクション1ドローイングルームの寝台車
(1895年の"Car Builder's Dictionary"より)


「Plan1963D JAMESTOWN」
Plan1963は20世紀初頭の代表的プルマン寝台車であるが、1908年に1両だけ鋼製車両として製造されたのがこの「JAMESTOWN」である。
他の木造車との違いが目立たないように、鋼板は木目調に加工されている(時代・概観はヴァ−ニッシュだが、構造はゴシックに近い)。後のPlan2410の先行試作車とでも言うべき車両。


1936年固定編成式デンバーゼファーの12セクション寝台車
 この大量に製造された寝台車の多くは開放式寝台中心であった。とはいえ、最多両数を占めたのは全開放式寝台車ではなく、12区画(24人分)のセクションと1室のドローイングルームを持つタイプの車両で、最盛期の8000両の車両のうち半数がこのタイプであった。このタイプの代表的なものは、木造車のプラン1963(1904〜1910に700両が製造された)や、鋼製車のプラン2410(1910〜1923製造)、3410(1923〜1929製造)などで、中でも2410は、窓周りの変更などを行いつつ2900両も製造された(このうち、原型とFタイプ(2410の場合、原型とAからHタイプまでの仕様変更車が存在した)が900両も製造されている。ちなみに3410は900両)。
 この12セクションと1ドローイングルームという組み合わせ、日本のA寝台と大して変わらない車内構成で、しかも数メートル車長が長いのに、定員が少ないのは車端に男女別の広々とした更衣室兼休憩室を持つため。これがなければ4区画、8人分ぐらいの定員確保ができるのだが、このあたりが豪華といわれる所以なのかもしれない。

○ツーリスト寝台

 日本でツーリスト寝台というと、戦前の二等寝台車で標準的だったツーリスト式の寝台を指すのであるが、アメリカのツーリスト寝台というのは、格安で利用できる寝台車全般を指す
(8)
 自由と平等の国という国民の意識から、アメリカの鉄道もモノクラスが建前であったが、寝台車は事実上普通座席車の上等級という扱いになっていた。通常の寝台車、すなわち、先の「寝台車の区別」でしめした各寝台は、一等扱いであり、寝台料金の他に、普通座席車の運賃より高い「プルマン運賃(一等運賃)」が必要であったのである
(9)。これに対し、普通座席車の利用者を意識して普通座席車の運賃に若干の追加料金で利用できるようにした寝台車がツーリスト寝台である。
 ツーリスト寝台は、19世紀の終わりごろに建造された寝棚を備えた移民輸送用車両が原型である。この車両は、移民輸送のサービス向上を図って建造されたもので、内装が省略され、自炊用台所が設けられていたものの、機構面では通常のプルマン寝台車と同様の中央通路式の2段寝台であった。当初は移民輸送専用だったのだが、普通座席車に比べれば快適だった事から、一般利用客の利用要望があり、西部の鉄道会社を中心に格安料金で利用できるような制度が設けられ、ツーリスト寝台は生まれたのである。
 ツーリスト寝台は、機構的には通常のプルマン寝台車と同様なので、新造車の他、古いプルマン寝台車を改造したものも多数存在した。新造ではセクションを16区画ないし14区画持つ車両が主で(形式番号で言うと1910年代に製造されたプラン2412など)ある。二段寝台である事から設計図面で言うと非常に豪華な印象を受けてしまうのであるが、プルマン寝台車に見られる化粧板、絨毯などで構成される豪華な内装はなく、床は板敷き、座席のモケットも薄い簡素な車両である
(10)
 こうした車両は1940年代のリクライニングシート車の普及と共に消えて行く運命にあったが、他方、従来優等車両としていたプルマン寝台車の「セクション」を普通座席車運賃で利用できるように改めた鉄道会社も存在した。なお、1940年代末期に登場したカリフォルニア・ゼファーには何故か16セクションの全車開放寝台車が連結されているが、これはれっきとした特別料金を取る寝台車である。また、1958年にはコーチ運賃での利用を前提とした「スランバーコーチ」が開発されている。これは、半二階構造を活用して、一人用個室を24室、二人用個室を8室備えた定員40人の寝台車で、寝台幅は70センチとなったが、各個室にトイレ、洗面台を備えていた。勿論個室寝台ながら普通座席車運賃での利用を前提とした車両である。


○展望車

 1920年代のアメリカの有名列車には展望車がついている。外観は昭和30年くらいまで日本の特急列車にくっついていた展望車(マイテ40やスイテ39とか)と同じような感じである。日本の展望車はきわめて特別な車両であったが、アメリカの展望車はかなり当たり前の存在で、ラウンジの他、10セクションを設けたプラン2521・3521(1914〜1923/1923〜1926製造)などは合計で200両以上も製造されている。20人分のセクションがあるあたり、庶民的な感じがある。
 この他、ラウンジとパーラーカー主体で構成された日本の展望車の室内構成に似た車両も随分作られているが、小ロット生産が多い。

1890年代前半のペンシルベニア鉄道の木造展望車(形式不明)
(1895年の"Car Builder's Dictionary"より)

○形式分類

 こうしたプルマン車両の最大の謎は形式分類である。日本の旧型、新型というような分類を採用するなら、木造(ヴァーニッシュ)、初期鋼製車(ゴシック)、重量鋼製車(ヘビーウェイト)、軽量流線型車(ライトウェイトストリームライナー)に区分出来るようである。。
 このうち、ヴァーニッシュとはニスの事で、木造時代のプルマン車が重厚なニス塗りだった事から付けられた呼び名である。ゴシックは文字のごとく、鋼製車ではあるものの木造時代のデザインを色濃く残し、丸みを持った飾り窓を持った車両で主に1910年代に製造された。外装は勿論、内装も飾りだらけで、過剰装飾と言った感じもなくはない。ヘビーウェイトは1920年代に全盛を極めた車両で、こちらは無骨な感じが強くなる。これら3タイプは3軸ボギー台車、ダブルルーフで、会社間の違いが少ないのも特徴である。
 一方ストリームライナーは名前の通り流線型の車両で、密閉型展望車を従えた固定編成を基本とする車両である。ストリームライナーは満鉄のあじあ号などに使われた車両と同じような感じ
(11)と言えばわかりやすい。ステンレス(バッド車のオールステンレス車は有名であるが)やアルミ、超張力鋼といった最新の素材が用いられ軽量化が図られると共に、デザイナーが設計に立会い、機能美を生かしたトータル・デザインが行われている。ストリームライナーは会社毎にオリジナルの塗装が施されているが、完全にオリジナル設計だったわけではないようで、色さえ変えればそれぞれの会社の客車風になる。アメリカのプラスティックのHOモデルなんかはこの方式で大量生産するので、実際にはその会社にはなかった車両が売られていたりする事がある。

○木造時代、ゴシック・ヘビーウェイト時代の個室寝台

 先に記したように、1930年代くらいまで、すなわちゴシック・ヘビーウェイト時代の車両は開放寝台中心で、個室寝台、特に全室個室の寝台車はあまり多くない。そうした車両は例えば、1910年代にシカゴとロサンゼルスを結んだ、サンタフェ鉄道の豪華寝台列車「デ・ラックス」用に4両だけ製造された7ドローイングルームの2583など(後に10両追加生産されたが)のように、小ロット生産のものが多かった。例外は6コンパートメント、3ドローイングルームの3523(1926〜1930製造)などで、これは200両製造されている。
  それ以前、すなわち木造車時代の全個室寝台は全部合わせても100両ほどで、しかもそのうちのかなりがワグナー車やマン社といったライバル会社からの編入車両である。

木造時代の例外的存在であった全個室寝台車の一つ、Plan 993 「Ferdinand」 (10ステートルーム)
同系車は1893年に10両のみ製造された。

(1895年の"Car Builder's Dictionary"より)
○10ルーメット−6ダブルベッドルーム

 1930年代以降、台頭する飛行機に対抗して、アメリカの旅客列車は大幅なサービスアップが進められた。個室寝台とリクライニングシートの車両で構成された流線型の列車が1マイル1分、すなわち表定速度96キロを上回るスピードで全米をかけまわったのである。先に記したようにストリームライナーの車両構成はばらばら(ステンレス車両でも16セクションとか言う古風な構成の車両もある)なのだが、時刻表の編成構成などを見てみると、10ルーメット−6ダブルベッドルームという車両が目に付く。1950年代のサザンパシフィック鉄道の「サンセット・リミテッド」は全部これで組成されているし、ペンシルバニア鉄道の「ブロードウェイ・リミテッド」にもこの構成の車両が多い。1人用個室が多いのはビジネスマン向けということなのだろうが、ダブルベッドルームというのは、2段ベットとトイレがあるだけという個室で、長距離を移動する為の車両としてはやや窮屈な感じもするが、ニューヨーク−シカゴ間と、シカゴ−西海岸を直通する寝台車のかなりがこのタイプで、ニューヨークセントラルでは100両近くを導入している。
 アムトラックの新型寝台車、スーパーライナーやビューライナーも基本的には10ルーメット−6ダブルベッドルームの系統を引き継いでいる。アムトラックの寝台車は、ルーメットに上段寝台を付け加えたような2人用の個室と、ダブルベッドルームのトイレにシャワーを取り付けたようなデラックスベッドルームで構成されている。

 テキサス・イーグル号寝台車構造図へのリンク 2階部分は ルーメット10室+デラックス5室である

 ところで、ストリームライナーによる高速運転の全盛期である1950年代の後半に、日本でも流線型の新型寝台車、20系が登場している。20系寝台車を使った特急あさかぜには、個室寝台車を多数連結したデラックス編成があったが、このうち、三両存在し、各列車に一両だけ連結された全室個室のナロネ20は、一人用個室が10室、2人用個室が4室という組み合わせであった。ナロネ20の一人用個室と二人用個室はまさにルーメットとダブルベッドルームそのもの(但しトイレはない)で、アメリカ流の言い方をするとナロネ20は10ルーメット−4ダブルベッドルームということになる。当時の日本の設計陣はアメリカの標準的な寝台車を参考にしたのだろうか。


2−4 プルマン社の衰退と現代アメリカの寝台列車

  繁栄を極めたプルマン社であったが、これをどう評価するかは意見の分かれるところであろう。一般的には過酷なポーターの労働や、1890年代のプルマンストライキが批判されるところであるが、車両の歴史で言えば、1880年代から50年もの永きにわたり、開放寝台車にこだわっていたのも問題といえよう。日本のA寝台とは異なり、寝台の上段の昇り降りに使う梯子は常設ではなく、上段の利用客が難儀する姿は様々なイラストで描かれている。しかも上段寝台は永らくの間下段と料金が同じだったのである。このせいもあり、通常、プルマン車は、上段寝台を空席にしたまま運行している事が多かったという。また、列車に設置された便所は男女それぞれ一つずつで、朝には混雑した。こういった問題は、プルマン社の独占のもと、放置されたままだったのである。
  変化は大恐慌と共に訪れた。自動車の普及で鉄道はすでにかなりの乗客を1920年代に失っていたが、大恐慌による利用者の減少はこの問題に拍車をかけた。軽量の流線型客車の導入と個室寝台化は対抗策の一つで一定の評価を収めたが、室内の構造が複雑になり、維持費の高騰を引き起こすという問題が徐々に判明するとともに、流線型車両の寝台車の製作にはバッド社が参入したので、車両管理部門を独占しているプルマン社が車両製造部門を保有している事も問題になった。1940年代前半にこの問題に関しての司法論争が続けられ、司法省より車両製造部門と車両管理部門の分割命令により、1947年には車両製造部門が切り離された。また、この頃から、プルマン社が保有していた寝台車のかなりが各鉄道会社のものとなり、プルマン社はサービスの提供に終始するケースが増えてきた。
  第二次世界大戦後も旅客の減少が続いた。寝台車利用旅客は早期に飛行機に移ってしまったため、1940年代半ばには飛行機利用客のほうが数の上で上回るようになってしまった。費用を補うためには運賃値上げが必要で、これも客離れを導いた。プルマン社の負債は増えるばかりで、1968年をもって、その100年の営業に幕を閉じる事になった。車両製作部門は営業を続け、1981年にはアムトラックの「スーパーライナー」の一次車を製造。しかし、この会社も1980年代には買収される。プルマンと名のつく企業が完全に消えたのは1996年の事である。寝台車の経営は鉄道会社の方に移ったものの、これも立ち行かなくなり、1970年代にはアムトラックが登場。都市間旅客列車は運行も含めて単一会社が行うようになった。
  アムトラックでは、車両面でもセクションが消え去り、2人用普通個室、2人用特別個室、家族用個室、身障者対応個室の4タイプの寝台で構成されるようになっている。アムトラックは現在2000両ほどの客車を保有しているが、長距離列車でも座席車を連結するので寝台車の連結数はそれほど多くなく、寝台車のほうは百数十両にすぎないという(食堂車が100両近くあるのだが)。
 ところで、プルマン社はカナダとメキシコでもビジネスを展開していたために、両国にもプルマン寝台車の伝統がある。メキシコでは、1920年代のヘビーウェイト車が1990年代まで寝台列車として運用されていた。メキシコの旅客鉄道は現在ほぼ全廃状態であるが、カナダでは1950年代にバッド社が製作したセクション、ルーメット、ダブルベッドルームタイプの寝台を備えたオールステンレス車が運用されている。

  チャーター用車両としていくつかの車両が稼動状態で残されている。


<補注>
(1)日本でいうプルマン式寝台は、厳密には中央通路式の開放式で、「昼間は寝台が解体され向かい合わせの座席になる」寝台を指す。
中央通路式の寝台車には、昼間はそのまま窓に背を向けて座るソファになる(座席使用時にも寝台使用時の仕切りを一部残し、3人ごとに仕切られるため、ロングシートと呼ぶ事が適切かどうかは謎)寝台車が存在し、日本では「ツーリスト」式寝台と呼ばれた。山陽鉄道の最初の一等寝台車(国有化後二等に格下げ)や、戦前の標準的な鋼製二等寝台車であるマロネ29(旧マロネ37)などはこの形式にのっとったものである。プルマン車がつくった初期の車両のイラストにも、このタイプの寝台は少数ながら見られる。当時のプルマン車の車体中央部にはピアノがあり、周りのソファ様式の座席に腰掛けて賛美歌を歌ったりして道中の時間を過ごしている写真が残されている。
(2)ATSFは1990年代まで存続、バーリントン・ノーザン(BN)鉄道と合併してバーリントンノーザン・サンタフェ鉄道(BNSF)となり、貨物輸送で活躍している。BNSFの保有する路線は、CBQ(シカゴ・バーリントン・クインシー鉄道)、NP(ノーザン・パシフィック鉄道)、GN(グレイト・ノーザン鉄道)、そしてATSFの主要路線を引き継いだものである。
(3)アメリカの文献には、「1920年代のカリフォルニア特急は7セクション(7 sections)で運行された。」などと記されている。sectionとは開放式プルマン寝台の一区画のことを表すのだが、同時に編成数を表す時にも使われるのである(日本でもセクショントレインという言葉が存在するが)。
(4)続行運転には色々と面白い話が伝えられている。カリフォルニア特急の他、有名な20世紀特急も1920〜30年代には単独で走る事は皆無、常に2〜7編成続行で走らせていて、NYCはそのために20世紀特急専用の寝台車を100両以上用意していたという(流線型化されたときも2編成続行を前提とした4編成配備であった)。編成の多さでは、1940年代に、シカゴ〜サンフランシスコ間をDRGW(デンバー・リオグランテ・ウエスタン鉄道)経由で結んだ「エキスポ・フライヤー」が有名で、最大8編成続行になった事もあるらしい。運用される寝台車の多さでは、冬のフロリダ方面への運用が有名で、フロリダ方面への列車増発用に通常の3倍、1000両ほどの寝台車が用意された(プルマン社はこのために「波動輸送用の食堂車」(!)も抱えていたらしい)。
(5)レプリカのNO9は、昼間は転換クロスシート、夜は二段式寝台になるという珍しい構造を持っていた。が、当初のNO9も同じ構造だったかどうかについてはいささか謎がある。ただ、当初のNO9もおそらく二段式で、3段式寝台が多かった中で際立っていた可能性はある。
(6)「パイオニア」は当時の普通客車から見れば豪華かつ、高価であったが、例外的な存在であったのかどうかについては謎が多い。当時の他社の寝台車なども新造に2万ドル程度の費用がかかるのが普通であったようだし、後にマン・ブードワー社が4万ドルをかけて建造した「アドレーナ・パッティ」に比べれば、費用はさほどではない(なお、南北戦争後にインフレがあり、その後のデフレにより物価水準が戻っているので、パイオニアの建造費が、南北戦争前の物価水準であれば、「アドレーナ・パッティ」の半分程度、南北戦争後の物価水準で測ったものであれば3〜4分の1程度になる)。パイオニアは当時の客車としては重量があり、2軸ボギー台車を2つつなげたような4軸ボギー台車を履いていた。齋藤晃氏の「蒸気機関車の興亡」では2軸ボギー台車を4つ履いたと記されているが、これは誤りと思われる(ただし、アメリカでも初期のプルマン社に関する情報には誤ったものが多く、斎藤氏の責任ではないと思うが)。なお、2軸ボギーを4つ履いた車両は大統領専用車両などで見られる。
(7)2004年5月8日修正以前には、シングルルームという項目を設けていたが削除。枕木に対して垂直にベッドを備えているルーメットに対し、シングルルームは枕木方向にベッドを備えた個室であるが、ダブル・ベッドルームの1人利用ではなく、最初からシングル使用を目的としたものは、寝台部分を半二階構造にして、定員をかせいだデュプレックス・シングルルームである事がほとんどである事が判明したため。
(8)この項目はあいまいだったので調査結果をもとに、2004年5月8日修正で全面的に書き換え
(9)この一等運賃で利用する座席車がパーラーカーである。ただ、一等運賃の加算は現代日本のグリーン料金のような形だったらしく、昔の日本や現代の欧州の等級制ほどはっきりした区分ではない。また、パーラーカーが連結される区間も全体から見れば僅かであった。

木造車時代のパーラーカー Plan1039A 「MAUD」 1893年製造 開放区画の座席は22、定員5人の個室を持つ
MAUD 車内の様子
(1895年の"Car Builder's Dictionary"より)

(10)日本の鉄道雑誌などの豪華の尺度は占有面積や基本的な構造にあるような感じなので、占有スペースに変わりがないのに「雰囲気」の差異によって料金が変わるというには違和感を持たれる読者もいるかもしれない。ただ、古い車両主体なので、乗り心地にも違いがある可能性については指摘してもよいかもしれない。そもそも、どんどん老朽化しているのに、同じだけの料金を取る日本の寝台車の制度は変なのだが(その意味ではJR東日本の「ごろんとシート」は評価できるのかも)。
(11)満鉄、すなわち南満州鉄道の「あじあ号」用の流線型軽量車両は1934年登場、アメリカで同様の車両が普及するのに比べても早い時期である。では、あの車両のデザインは満鉄オリジナルかというとそうでもなく、満鉄であじあ号用新型客車の新造を決定する直前に、後の密閉型展望車の原型となる「ジョージ・M・プルマン」という軽量展望車が落成していて、この車両はアジア号の密閉展望車テンイ8に良く似たデザインを持っていた。当時満鉄の主任技師の座にあった市原善積氏が、1933年に調査のためにアメリカとヨーロッパに渡り、アメリカの主要列車に試乗した上で、車両メーカーで建造中のM10001とパイオニアゼファーの車体構造なども調査し、それぞれの車両の利点を取り入れた車両を製作したのだから当然といえば当然であろう。ちなみに、中国でツアー列車などに使われる1936年製テンイネ2の大型局面窓のアイディアは少し前に登場したニューヨークセントラル鉄道のマーキュリー号に遡れる。アジア号の車体に用いた超張力鋼はドイツから輸入したとはいえ、短期間で海外の技術を導入、応用する技術力には戦後の経済成長時のそれに通じるものがあり(ただし、戦前は主にパテントを購入しての直接の技術導入、戦後は材料を含めすべて基礎研究からやる事が多いという違いがあるのだが)、まことに驚かされる。
  満鉄とアメリカの鉄道との関係は深い。1908年に登場した同社の最初の一等寝台車(イネ1)はプルマン社製である。当時大量に製造されていた、10セクション−2コンパートメント−1ドローイングルームの寝台車(Plan2078)を10セクション−2ドローイングルームに設計変更したような車両を輸入している。

南満州鉄道株式会社 イネ1(プルマン社製造 10セクション2ドローイングルーム) 
姉妹作ともいえるPlan2078は1905年から1909年にかけて100両ほどが製造され、大陸横断ルートなどの看板列車に連結された。
−「南滿州鐵道擴軌事業概要附圖」 明治43年より−

その後は自作を行うようになったが、1925年に大連工場で製造したイネ7はアメリカで標準的な12セクション−1ドローイングルームをそのままコピーした設計となっている。もっとも、開放式寝台を一等寝台車として使うのは日本の習慣に馴染まず、といって二等寝台車にするには更衣室がやたらと広いプルマン様式の車両では定員がとれないといった事からか、後には似たデザインで定員の多い2等寝台車や車体長の短い1・2等合造寝台車(1等は個室)を製作するのが標準となったようだ。


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<ページの履歴(著者備忘メモ)>
2003年4月29日作成 
5月23日 製造両数などの詳しい情報が手に入ったので加筆
7月14日 競争相手 は加筆のうえ、2章へ 
2004年1月11日、1章を作ったので2章に名称変更+誤字訂正を中心とした若干の加筆
同年5月8日誤字訂正、加筆、補注を新設
同年10月12日補注を加筆  2−4を加筆 タイトルを変える
2005年4月28日 写真を加えてみました
     5月2日 写真大幅追加