「アメリカ旅客鉄道史+α」トップ「アメリカ電気鉄道史」表紙>第T部:3.アメリカ路面電車衰亡史

3.アメリカ路面電車衰亡史
   −黄金時代の路面電車とその衰退理由−
ナイアガラ・フォールズ市(ナイアガラの滝の近くの町)の路面電車 1897年の写真
日本で最初に電車が走り始めた時期と同じ頃の様子である
巨大な「GAR」の飾りが気になるが、これは北軍の戦没者追悼記念日(Grand Army of Republic)を祝ったもの
現在の戦没者追悼記念日に相当するが、当然のことながら南部では容認しがたい記念日で、南部出身の兵士が
多かった第一次世界大戦の戦没者を追悼するようになった第一次世界大戦以降までは南部では行われなかった。

出典:Street Railway Journal 1887,p81

<目次>
3−1.リッチモンド以降
3−2.最初の危機
3−3.黄金時代の路面電車
3−4.路面電車の衰退
3−5.意外に遅い終焉


3−1.リッチモンド以降

 アメリカの都市交通のユニークな特筆の一つは、乗合馬車と乗合バスの間に明白な空白が見られるという事である。欧州大陸の各都市では、自動車の製造コスト低下により乗合馬車を乗合バスが置き換えるという流れが見られるのだが、アメリカの乗合馬車は19世紀末に激減、現在のタクシー的な要素を持つ辻馬車が生き残り、それがジットニーとして自動車化し、それを追う形で1910年代後半に乗合バスは登場するという流れを持っている。原因は勿論、極限に近い路面電車の発展である。
 1887年のスプレイグの吊掛駆動の成功は、電車の爆発的な普及をもたらした。リッチモンドにおける電車運転は確かに故障もあったが、まともに走る事のほうが珍しかったそれ以前のシステムに比べれば確実なシステムであった。リッチモンドでの成功を目の当たりにしたボストン市街鉄道の重役は、ボストンの馬車鉄道のスプレイグ式電車への置き換えを決定、大都市における本格的な路面電車の運行がここに始まった。
 初期の路面電車の発展の図式はインターアーバン発展のそれとよく似ている。主要都市を拠点とする投資家集団や地域の実業家が、金融市場や都市住民から出資を募り電鉄会社を設立し、路線を敷設していったのである。市街電車はインターアーバンと異なり既存の蒸気鉄道との競合もなく、その建設が都市の拡張を促し、新たな利用客を生み出すという効果を持っていたために、莫大な収益を生み、その収益が投資を呼び込むという循環を作り出していった。一都市に複数の会社が設立され、近郊に向けどんどん建設が進められていった。大きくなる需要に対応するために、ボギー台車を持つ大型車両も建造され、大量輸送が行われるようになっていったのである。既存の馬車鉄道路線や、ケーブルカー路線もどんどん電車化されていった(ケーブルカーは急勾配のある市街地では存続した。現存するサンフランシスコのケーブルカーのほか、やはり市街地に急坂のあったシアトルやタコマにも1940年代まで路線が存在していた。また、馬車鉄道は架線集電の認可が下りず、高価な暗渠式集電方式をとらざるを得なかったニューヨークのマンハッタン島の支線路線でバスや蓄電池式電車が登場する1920年代まで存続していた)。

1890年代初頭、ボストンの路面電車
単車→ボギー車の進歩は瞬時で、リッチモンド以後数年でボギー電車も本格的に使用されるようになっている
スプレイグは1880年代半ばのニューヨーク高架鉄道での電気運転の試験運行の段階ですでにボギー電車を走
らせているから必然かもしれないが。
出典:Street Railway Journal 1887,p81

世紀末(1900年)のブロードウェイ
景観にうるさかったマンハッタン島では暗渠集電式の路面電車が普及した
出典:Street Railway Journal 1900, p795

シカゴの路面電車 1910年ごろの様子

 初期の路面電車会社は比較的小規模で、同じ都市でも街路によって運行会社が異なるというケースが多かったが、20世紀になると統合が進んだ。統合の原動力は独占利益を享受したいという資本家の思惑であったが、その背景には統合により経営効率が大幅に高まるといった事情があり、独占利潤が資本家に吸い上げられるとしても、利用者にもメリットがもたらされるものであった。ボストン(ボストン市街鉄道 1880年代)では馬車鉄道時代に統合が行われていたが、多くの大都市で統合が行われたのは20世紀初頭の15年間で、クリーブランド鉄道(1910年)、ロサンゼルス鉄道(1910年)、シカゴ・サーフェス・ライン(1914年:但し運賃等を統合したもので実際の経営は4社が行う)、フィラデルフィア高速鉄道(1907年)、デトロイト連合鉄道(1901年)など、1000両規模の車両を有する大規模事業者はこの時期登場している。例外はニューヨークのマンハッタン島(ブルックリン地区に関してはブルックリン高速鉄道が高架鉄道から市街電車まで一貫経営)で、一度は統合したものの失敗、再分割され市の厳しい認可規制のもと街路ごとに異なる会社が市外電車を運行していた。インターアーバンに大打撃を与えた1907年の恐慌は、路面電車にも影響を与え、その統合の動きを加速させたが、路面電車に関しては路線の拡張が続けられた。
<3−1のおまけ 1907年恐慌と電鉄株式市場>
 さて、通常の電鉄史であれば、「恐慌の説明」といっても「恐慌があった」で終わりであるが、このページはひねくれているので、少々詳細を説明することにする(あんまり面白い説明ではないので興味の無い方は次へどうぞ)。
 1907年恐慌と言っても知る人は多くないであろうが、この恐慌は、1929年の世界大恐慌は別格として、19世紀末から一定の周期で繰り返されてきた大小の恐慌のなかでもっとも深刻なものの一つである。この恐慌は1907年10月の半ば、イギリスの金融市場でアメリカの銀行が発行した手形の引き受けを拒否したことに始った。イギリスの市場がアメリカの銀行に破綻の可能性がありと判断したというわけであるが、これは瞬く間に世界中に広がり、当のアメリカでは銀行間の資金決済が麻痺し(調整する役割を持つ中央銀行がアメリカにはない、1907年恐慌の反省を元に連邦準備制度が発足する)、株式市場は大暴落、混乱は11月末に当時の鉄道王たちが多額の資金を市場に注入して混乱を抑えるまで続いた。
  この恐慌、今でいう我々のような小口預金者にとっても現金による預金の引出しが出来なくなるなど、色々被害はあったらしいが、アメリカの電鉄史にとっては世界大恐慌以上に重要である。1929年の恐慌は確かに被害は甚大であったのだが、電鉄業界はすでに自動車の普及によって凋落の道をたどっており、その進路を変えるようなものではなかったのだが、1907年恐慌は電鉄業界がブームに沸いているさなかに起こったものであり、それに水を指す結果となってしまったのである。無論、その後建設が停滞した理由には「実態とかけ離れた電鉄会社に対する過大評価」というものがあるわけで、そのことに投資家が気づいただけという解釈もできようが、バブル的な状況に陥っていた電鉄の投資市場は一気に冷え込み、この後10年間は過去の過剰な投資のつけの清算に翻弄される事になったのである。但し、影響は前章で取り扱ったインターアーバンで大きく(過度の期待を受けたインターアーバンでは株式や社債の投資がバブル化していた)、市街電車ではそれほど大きくなかった事は前述したとおりである。その事は、電鉄会社の株価の変動に如実に現れている。
  以下は主要な電鉄会社の1907年〜1908年の株価変動を示したものであるが、10月20日〜11月30日の恐慌で電鉄会社の株価はいったん暴落し、その後徐々に恐慌前の水準に戻っていくが、インターアーバン路線を持つデトロイト・ユナイテッド鉄道の株価は1908年末になっても元の水準には戻っていない。これに対し、利用客を順調に増やしていたニューヨークの地下鉄会社、インターボロ・ラピッド・トランジットやブルックリン地区の公共交通を一手に引き受けていたブルックリン・ラピッド・トランジットは1908年春には元の水準に戻っている。ボストン高架鉄道の安定度が目立つが、この会社は州の規制のもとボストン市内の公共交通を一手に引き受けていたことに加え、歴史も古く(ウエストエンド市街鉄道の時代から数えると20年)、経営は安定していたのである。クリーブランド電鉄は、1908年4月にクリーブランド市の経営化に置かれ、「親方日の丸」的な安定感が買われたのか株価は恐慌前以上に上昇するが、クリーブランド市の路面電車経営はあまりにもいい加減で会社は10月に破綻、別会社として再建の道を歩みはじめている。フィラデルフィア・ラピッド・トランジットは1907年に統合を実現したばかりで、ボストン同様市街電車と高架鉄道の両方を運営するのに株価が安定しないのはそのためだろう。株価の出典はStreet Railway Journal。東部や中西部の有名どころの電鉄会社の株式が20社分ほど掲載されているのであるが、主に市街電車が中心(インターアーバンはデトロイト・ユナイテッド鉄道くらい)で、経営統合後はサザン・パシフィック鉄道の子会社で市場で大々的に株式が取引されることが少なかったパシフィック電鉄の株価などは残念ながらわからない。なお、交通関係の株式といったら幹線路線を経営する蒸気鉄道会社の株が市場の花形で、ダウ・ジョーンズの交通産業株の株価指数(当初、ダウジョーンズの株価指数は鉄道会社中心のものであったが、1896年に交通産業は交通産業株平均として独立、今の工業株平均の株価指数が確立する)に登録されていた株もほとんどは蒸気鉄道会社で、電鉄会社で掲載されていたのはニューヨークのブルックリン・ラピッド・トランジットとインターボロ・ラピッド・トランジット社ぐらい、電気を使う交通は今でいうITベンチャーで、1907年恐慌はそういったベンチャーの中でバブル化した会社(主にインターアーバン)とそうではない会社(主に市街電車)を選別する機会となったのである。
1907年版「ITバブル崩壊」の様子
Boston Elevated:ボストン高架鉄道(ボストン) Brooklin Rapid Transit:ブルックリン・ラピッド・トランジット(ニューヨーク市、ブルックリン地区)
Interborough Rapid Transit:インターボロ・ラピッド・トランジット(ニューヨーク市内、マンハッタン島の地下鉄、高架鉄道)
Cleveland Electric Railway:クリーブランド電鉄(クリーブランド)、Detroit United Railway:デトロイト・ユナイテッド鉄道(デトロイト、市街電車とインターアーバン)
Philadelphia Rapid Transit:フィラデルフィア・ラピッド・トランジット(フィラデルフィアの高架鉄道と路面電車)


3−2.最初の危機

  路面電車の最初の危機は1914年に訪れた。不況で街にあぶれた失業者が、日銭を稼ぐために、市街地の街路でT型フォードに客を乗せるという商売を始めたのである。この商売のやり方は簡単で、T型フォードを路上に止め、「○○方面」という看板をボンネットに置き待機。看板を見て数人の乗客が集まったあと出発、沿道で客を降ろしていくという現代で言う乗合タクシーである。ロサンゼルスで失業者が編み出したと言われるこのビジネスモデル「ジットニー」はまたたくまに全米に広まり、路面電車の客を奪い始めた。当時の業界誌では、各地の電車会社による「ジットニー」目撃情報が寄せられ、電鉄会社の狼狽ぶりをうかがうことができる。
電車の脇を駆け抜けるジットニー ロサンゼルスでの様子
ロサンゼルスの路面電車、ロサンゼルス鉄道(写真右側の電車)は人口の急激な増加に対応す
ることが出来ず、ラッシュ時は慢性的なすし詰め状態で都心部は団子運転で遅延も多かった(らしい)。
ジットニーも着席通勤とはいかなかったが、一杯に客を乗せたあとは都心までノンストップだったろうか
らそれなりに好評だったのはそのあたりかもしれない。
出典:Electric Railway Journal 1915, p500

ロサンゼルス 5th&Main付近で客待ちをするジットニーの群れ
出典:Electric Railway Journal 1915, p501

ロサンゼルス市内の中古車マーケット
「$225」「$100」が目に付く。200ドル(今のお金で100〜300万円)あれば中古のT型フォードが
手に入り、ジットニーの経営者になることができた。
出典:Electric Railway Journal 1915, p502
 しかし、「路面電車はこのまま終わりか」と皆が思ったとき、異変が起こった。SF「宇宙戦争」に出てくる宇宙人のごとく、さんざん猛威を振るったジットニーが突然消え去ったのである。首をかしげるような話であるが、冷静にコスト分析をするとその要因は明らかであった。路面電車と勝負できる5〜10セントの運賃でフォードを走らせると、ガソリン代を差し引いた残りは大人1人分の日当くらいにはなったのであるが、営業用に走らせる車の消耗は激しく、じきに車体のあちこちにがたがくるようになる。長期的に運行を続けようとするなら定期的なメンテナンスをする必要があったのだが、当時の車の性能ではメンテナンスコストが馬鹿にならなかったのである。加えて1914年は第一次世界大戦が始まった年、徐々に景気も良くなり雇用も増えていった。中長期的には赤字になるジットニーで日銭稼ぎをする必要はなくなったのである。
 勿論、この時期にジットニーが登場した背景には、自動車が市街電車の代用を務められる程度に性能向上したという事実がある。これ以前にも特注の車体を用いたバス運行はニューヨークなどで行われていたが、車体やメンテナンスに費用がかかりすぎるために一般的にはならなかった。ロンドンやパリといった同時期のヨーロッパの都市では一般的に普及していたので不思議な感じもするが、自動車登場以前に網の目のように軌道が張り巡らされてしまっていたために、高コストのバスで採算の取れるような場所が残っていなかったという事であろう。しかし、ジットニー以降、この状態に変化が生じたのである。自動車の販売、修理などの経験がある専門家は、大型の車両を用いたり、より高運賃を取る貸切の運行などにおいてはメンテナンスコストを含めた場合においても採算が見込める市場が成立しつつあることを見抜いていた。ジットニーとしてひとくくりにされた自動車のなかにはこうした専門の事業者が運行する本格的なバスやタクシーが含まれていて、そういった事業者はその後も消滅することなく徐々に発展していくこととなった。
ニューヨークの路線バスの写真
1907年のもので、T型フォード登場以前のものである。ニューヨークでは集電方式を暗渠式にする必要があ
ったことや、大型路面電車を必要としない少量輸送への需要が大きかったことから、特注のバスを導入しても
経営は何とか成り立った。同じ理由でバッテリー駆動の小型路面電車や鉄道馬車が1920年代まで
活躍していたという
出典:Street Railway Journal 1907, p292

上の写真の10年後のニューヨーク5番街
この間のバスの普及は著しかったが、行き先表示が充実した他は車両デザインに大きな変化は見られない。
(10年後には大変化を遂げるのであるが)
出典:Electric Railway Journal July 31, 1920 ,p209

3−3.黄金時代の路面電車

  第一次世界大戦が終わると、本格的な自動車時代が幕を開ける。
  電車が儲かる時代は終わり、市街電車会社はこれまでの過剰な投資のつけに苦しむ事になるが、利用客やファンにとっての黄金時代はこの時期、すなわち1914年から1924年頃として良いだろう。自動車というライバルに対抗するために「乗せてやる」的なサービスを改め集客に努めるようになったので、車両を中心とした運行サービスの質が大幅に向上したのがこの時期だからである。
  さて、ここ数年の著者の最大の課題の一つは、この時期の路面電車の情景を上手く描写すること。インターアーバンに関しては、Hilton & Due の"The Electric Interurban Railways in North America"があるのでまとめやすいのだが、路面電車には残念ながらこういった名著がなく、特色を見出していくのはなかなか大変な作業である。かくいう私もまだまだ未熟なのだが、ひとまず主要都市の路面電車の情報が集まったのでこれをもとにイメージを構成していくことにする。
  アメリカで路面電車が走っていた都市数は不明。というのも、ニューイングランドや中西部のように、都市間を連絡する路面電車網が存在した地域では、都市毎に区切って数えるということが容易ではないからである(数えてもきりがない、インディアナ州の場合、インターアーバンと別個に市内線を運行していた都市として25程度の都市が挙げられるが、5000キロの路面電車網のあったマサチューセッツの場合、通過していた町や村を合計すると数百のオーダーとなる・・・)。1917年の数字で会社数は940社、車両数は旅客用の車両が79900両、軌道延長は44000マイルという数字があるがこの数字には地下鉄やインターアーバン、幹線鉄道の近郊電車区間のものも(一部)含まれている。主要都市の路面電車網は今の世界の大都市の地下鉄網などから見ても巨大なもので、シカゴとニューヨーク、フィラデルフィアの路面電車路線網の軌道延長は優に1000kmを超え、車両数は2000〜3500両を数えた。これは現在において最大規模の路面電車網を持つ、オーストラリアのメルボルン、ロシアのサンクトペテルブルク、オーストリアのウィーンなど(それぞれ路線延長で200〜250km、軌道延長で500km台)の数倍で、欧州で最大規模を誇った全盛期のロンドンの路面電車(軌道延長で800〜1000km、車両数2000両)をも上回る。
  アメリカの都市で最大規模の路面電車網を持っていたのはニューヨークであるが、大規模な高架鉄道と地下鉄網を持っていたことから、それらの補助的な手段に過ぎなかった。数百両単位のノンステップ車両の導入も行われたが、あくまでも地下鉄の補助手段にすぎず、会社は3社に分立したままで、地下鉄網の整備による衰退も早かった。統合経営や大規模な設備という点ではシカゴとフィラデルフィアのほうが上をいく存在であった。例えばシカゴは、「シカゴ・サーフェスライン」というブランド名で軌道延長1800km、3500両の車両を運行していた。広い街路を疾走する電車の評定速度は時速20マイルにも達したと言われており、駅数が多くあまり速力で優位にたてなかった高架鉄道に対抗した。
 これら3大都市につぐ規模を誇ったボストンやクリーブランドやデトロイトの路面電車も大規模なものであった。ボストンでは1897年に複々線の地下トンネルを開削し、都心部へは地下線で乗り入れるような工夫を行っている(ボストン地下鉄年代記を参照のこと)。またクリーブランドは路面電車を厳しい公的管理下において他都市より安い3セント運賃を提供、デトロイトでは自動車への対抗措置として急行運転をおこなった。クリーブランドやデトロイトには地下鉄がなかったので、15メートル級の車両を2両連結した編成長30メートルの電車がラッシュ輸送で威力を発揮した。電車の制御装置に、加速制御は手動だが総括制御が可能と言う間接手動式(ウェスティングハウスHL方式、日本では名鉄で多様)というものがあるが、これは路面電車で総括制御を行う為に開発された制御装置である。
  この他に、年間乗客数が1億人を超える都市が20ほど、2000万人を超える都市が30ほど存在した。


3−4.路面電車の衰退

  1920年代も後半となると、路面電車業界にも陰りが見えはじめた。
  何せ、景気がいいにもかかわらず、電車の乗客が増えないのである。1917年にフォード社がオートマチックスタータを装備したT型を販売した時点で、自動車は婦人にも扱える乗り物となっっていた。道路整備に関しては第一次世界大戦期にその有用性が評価され、1920年代には舗装等の整備が本格的に進められ、自動車専用道路なるものもこの時期に登場している(最初の自動車専用道路であるニューヨークのブロンクス・パークウェイは1923年に開業)、自動車価格もこの時期に低下、人口1000人あたり300台の自動車、すなわち、一家に一台の自動車を持つ事が当たり前となったのである。この時期にはアメリカ人でも鉄道通勤があたりまえであったが、郊外住宅地においては、最寄の鉄道駅まで旦那さんを奥さんが車で送り出し、郊外型店舗で買い物、というのが当たり前になってきた(ちなみに、奥さんによる送迎を意味する「キス・アンド・ライド」は和製英語っぽい語感だが意外にも本当の英語、但し、初出は1950年代らしいが)。買い物などの生活利用の旅客が減少を始めたのである。
 こうした傾向は、地方都市の路面電車路線で影響を与えた。この頃は人口数万人〜数十万人という小規模な都市でも路面電車網を持っているところが多かったのであるが、1920年代末期に経営が行き詰まり、バスに置き換わるところが続出したのである。こういった都市の路面電車の主力は2軸単車で、ワンマン仕様のバーニー車で効率化が図られたが、バスの効率性にかなうものではなく、路線はどんどん削られていったのである。
  一方、大都市はそれほど悲観的な見方はしていなかった。この時期、経営余力のあった大都市の路面電車会社は従来の放漫経営から脱却して経営改善を行っており、上手く経営できる事に自負もあった。4-3で述べたような、数百人を一度に輸送できる15メートル級大型車2両連結の輸送力にバスがかなうわけもなかったし、一家に一台自家用車が普及してしまえばそれ以上自家用車は増えないのではないかという考えが主流であった。しかし、自家用車の増加は一旦ストップしたが、そういった読みは甘かったといえよう。大恐慌が路面電車の大量輸送の優位性を奪ってしまったのである。

  そんなに詳しくないので偉そうに語るとボロがでるが、大恐慌の原因は、高所得者の使い道がなくなった貯蓄がヨーロッパ方面からの資金と一緒に投機にまわり、バブルを起こした事によるらしい。なんだか現在のサブプライムローン破綻によるアメリカの不景気と事情は似ていて、実際、1920年代後半にはカリフォルニアを中心に不動産ブームが起こるのであるが、公共交通に関する影響は全く異なる。現在のアメリカでは、不況+原油高で補助金付で低運賃の公共交通の利用者が増え始めているが、大恐慌では工業生産が恐慌前の3分の2くらいになってしまい、1929年に4700万人分あった雇用が3700万人に減少。当然大都市では通勤客の減少が起こった。


電車 バス
1925 3億3815万人 417万人
1926 3億7045万人 1674万人
1927 3億3752万人 3446万人
1928 3億1952万人 3936万人
1929 3億5202万人 4443万人
1930 3億1472万人 4557万人
1931 2億3932万人 3473万人
1932 1億9873万人 3338万人
1933 1億5983万人 2983万人
デトロイト市(1930年人口150万人)における市街鉄道利用客数の変動

  上の表は1400両の車両を有し、自動車工場への大量通勤輸送で名を馳せたデトロイト市の市街鉄道利用客の推移である。市街鉄道利用客はこの時期に半減、連結運転のメリットはなくなり、高頻度運転を背景に行っていた緩急結合の急行運転も休止してしまった。
  大恐慌は散々な結果を市街鉄道会社にもたらしたが、悪い事ばかりでもなかった。自動車の普及の伸びも鈍って、一旦利用客が減少した後はその水準が維持されたのである。20年代に引き続き、路面電車の改良が進められ、1936年にはその集大成ともいえるPCC車が登場した。なお、PCC車の思想の一つは大出力モーターによる高加速であるが、これは、輸送量の減少による電気施設の余裕分を出力向上に振り向けたと解釈してもいいかもしれない。

3−5.意外に遅い終焉

  アメリカの市街鉄道の終焉は意外に遅い。
都市名 1960年人口 廃止年
(路面電車)
廃止年
(トロリーバス)
ニューヨーク 778万人 1956年 1960年
シカゴ 355万人 1953年 1973年
ロサンゼルス 247万人 1963年※ 1963年
フィラデルフィア 200万人 現存 現存
デトロイト 167万人 1956年 1962年
ボルチモア 93万人 1963年※ 1959年
ヒューストン 93万人 1940年※
クリーブランド 87万人 1956年◎ 1958年
ワシントン 76万人 1963年
セントルイス 75万人 1966年※
ミルウォーキー 74万人 1958年 1965年
サンフランシスコ 74万人 現存 現存
ボストン 69万人 現存 現存
ダラス 67万人 1956年※
ニューオリンズ 62万人 現存 1967年
都市名 1960年人口 廃止年
(路面電車)
東京 831万人 1972年◎
大阪 301万人 1969年◎
名古屋 159万人 1974年
横浜 137万人 1972年
京都 128万人 1978年◎
神戸 111万人 1971年
福岡 64万人 1979年
川崎 63万人 1967年
札幌 52万人 現存
広島 43万人 現存
仙台 42万人 1976年
熊本 37万人 現存
長崎 34万人 現存
静岡 32万人 1962年
新潟 31万人
アメリカと日本の主要都市の路面電車の廃止年
※:LRTが走行中 ◎:近郊路線が残存

アメリカの都市人口はアメリカ大陸30000kmを参考にしました
  日本に伝わる「伝説」は、モータリゼーションにより、日本よりはるかに早い時期に撤去が進んだ、というものであるが、実際のところその差は10年ほど。現存している都市もそこそこあり、フィラデルフィアやサンフランシスコの路線は市街域のかなりをカバーする形で路線が残されている。

  この理由は大雑把に言えば、日本で問題になった中心市街の極端な道路渋滞や日本の大都市における路面電車置き換えの大義名分である高速鉄道建設が路面電車廃止に連動して行われなかった事による。ニューヨークやシカゴの路面電車路線の廃止は、両都市の地下鉄路線の大半が完成した後のことであるし、デトロイトでは地下鉄建設はあきらめて、高速道路を使ったバス路線を計画していた(GMがあれこれ青写真を描いていたらしい)。また、クリーブランドの地下鉄路線はクリーブランドの稠密な路面電車網をほとんどカバーしておらず、ロサンゼルスの地下鉄完成は、路面電車の廃止後30年を経た後のことであった(おまけにこれも路面電車網をあまりカバーしていない)、路面電車に地下鉄が置き換わっているというのはワシントンぐらい(路面電車は廃止13年後に地下鉄が開通)なのである。要するに、多くの都市で施設の老朽化と継続的なモータリゼーションによる需要低下で大量輸送のメリットが薄れた後代まで生き残ったというのが現状なのである。1960年代のロサンゼルスと言うのは自動車保有率でいえば現在の日本の地方都市水準、他に大した大量輸送機関が無かったからとはいえ、よく残したという評価が適切であろう。

  さて、この時期にどういう風に路面電車が撤去されていったかが面白いところであろうが、これについての記事はしばらくお待ちを。

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