アメリカ旅客鉄道史おまけ(雑談と掲示板) 作者のアメリカ鉄道雑談

マラヤンタイガートレインに乗ってみる
ジョホールバル駅で出発を待つ「マラヤンタイガー」

  初渡航から2年しかたっていないのに、滞在日数のべ27日(アメリカが30日+αなので、次回行ったらそれを上回る事になる、その次は仕事で行ったベトナムの14日)と、マレーシアにはまりつつある私。治安はいいし、国内に中国系、マレー系、インド系の3民族が文化的にあまり干渉しないで生活しているので、その延長線上で他国の人間に寛容。民族に代わる国のアイデンティティは経済立国で、高度経済成長期の日本のように、「他国から学ぶ」事が大好きで、その過程を観察するのは、今の日本の問題を分析するのに結構役立つ(※1)。
  というような感じで、そもそも観光や勉強で行くのも面白い上に、バスシステムにも「ハマり要素」がある。最初は無秩序・・・とびっくりしたが、日本と同様、1930年代から50年代にかけ、英国を参考にバスの規制システムを作り、それに基づいてバスは運営されているので、結構統一が取れている。バス会社は無数に存在するが、基本的に都市間バスは整備されたバスターミナルから発着するので、「都市間バス乗りつぶし」といった、日本では難しい&達成感の薄いイベントも楽しむ事も可能である。
・・・随分語ったが、マレーシアでバスの魅力に取りつかれると、それほど路線も運行本数も多くない鉄道への関心が薄れてくる。但し、鉄道にはバスにない魅力がある。それは、「寝台車」の存在である。マレー半島には、西海岸を南北に結ぶ路線と途中から分岐して東海岸を走行するバス路線があるが、幹線路線にはすべて夜行列車があり、寝台車が連結されている。以前にシンガポール〜クアラルンプール間の夜行列車は乗ったので、今度は別の路線を試したいと思ったところ、シンガポール対岸の街、ジョホールバルに向かう機会が出来た。昨年の秋からマレー鉄道では日本の元ブルートレインの寝台車を導入し、東海岸線に投入している。在来の夜行列車は夜の出発時刻が早すぎ、ゆっくり眠ろうと思うと、タイ国境近くの町まで行かなければならない。そこからクアラルンプールに戻るとすると、鉄道でもバスでも丸1日がかり。それに対し、日本のブルートレイン車両を使った夜行列車「マラヤンタイガー」は、出発が夜遅く、クアラルンプールから近すぎず・遠すぎずの位置にある途中停車駅で下車して、そこからバスで町々を転々としながらクアラルンプールに向かう事ができる。日本で未だ体験していない個室寝台に乗れるというのも魅力的である。というわけでどちらかというと、「バス」と「寝台車」が先行する動機となったが、同地で活躍する「日本のブルートレイン」を体験してみる事にした。

 

ジョホールバルの屋台街
あんまり観光地化されていなくて好印象(ごちゃごちゃしているが衛生管理は日本人でも許容レベル)
前日の中華料理は良かったのだがこの日はハズレ

激辛ナシゴレン(NASI GORENG)の屋台
ナシゴレンと串焼き、スープ、飲み物をあわせて15リンギット(400円)ほど

  夕食は外れだった・・・。
 食べたのはナシゴレン(マレーシア風チャーハン)であったが味は辛口(日本で言う激辛)で唇に痛みが・・・。ちょっと口直しに、と思って頼んだ羊肉のスープはこれに輪をかけるがごとく激辛。この時を含めて計5回、延べ20日の滞在の中で、ミーゴレン(ヤキソバ)は辛いものばかりに遭遇したが、ナシゴレンや羊肉系で辛いものに遭遇した事はないので、油断していた(そもそもスープを作っていたのはインド人だったので警戒すべきだったのだが)。
 私は食べる分には多少辛口でも大丈夫だが、唇に染みるような辛い物を食べると翌日の腹の調子がおかしくなる。予定では(笑)、コンビニでビールを買って車内で寝る前に一杯やるつもりだったが、今後の体調悪化を警戒して、やめにすることにした。
 ジョホールバル駅は、シンガポールとの出入国管理施設に隣接し、きれいな建物である。ややマレーシアに慣れてくると、ちょっと大きすぎる、歩くときにやたらと遠回りさせられるので不便とか、気になる点も見えてくるのであるが、その辺りはマレーシアの新しい駅やショッピングセンターにも共通する話である。
 切符は食事前、夕刻に入手しておいた。運良く、と言いたいところだが、常にネットを確認し(前回訪問時に無線データ通信用のモデムを買ってある)、残席があるのを確認しつつ、購入をぎりぎりまで先延ばしにしていたのである。今回の行き先はマレーシア中部のグアムサン、8時半着で時間的に丁度良いし、少数ながらクアラルンプールへのバス便もある。運賃は個室寝台で118リンギット、日本円で3000円程度で、日本では20000円以上した事を考えると非常に安い。時間は9時、列車の到着までは1時間ほどあるが、お腹の調子も怪しいのでベンチでじっとしている。
 10時頃、改札が始まった。ホームに降りると・・・
  停車していました。日本のブルートレインが。
 懐かしい・・・と言いたいところだが、私の場合、幼少期にドキドキしながら乗車した夜行列車は電車寝台のプルマン寝台(これはプルマン式以前のアメリカの寝台車の形態・・・と言うのは私のホームページで詳しく解説しているが・・・)、客車寝台はあまり乗りたくない時に乗せられたとか、ブルトレブームの影響で電車寝台が下位に位置づける鉄道ファンの知人がいて内心ムッとしたりとかで、車両が悪いわけではないのだが、そこまでの思い入れはない。まあ、内なる愛着心が私をここに導いている可能性はあるが。

隣に停まっていた2等寝台車、変なことになっている隣国製の寝台車だが個人的にはこっちのほうが懐かしい印象

私の乗車した個室寝台車 BDNF1101
(オロネ25−1⇒オロネ15−3001)

私の乗車した部屋の様子

 私の乗った個室寝台車は、個室寝台ブームが始まる前、昭和50年代の数少ない個室寝台車、オロネ25のうちの1両(オロネ25-1⇒オロネ15-3001)、「はやぶさ」、「富士」、「出雲」で運用され、2009年3月13日、大分⇒東京の「富士」でラストランとなった車両である。末期には大数の鉄道ファンが詰めかけたが、ここではそれもなく、静かにホームに入線し出発を待っている。異国と言うよりは幻想の異世界で再開したという感じがないでもない(※2)。
 車内は日本そのままだった。いくつか張り紙がなされているもの以外はそのままで、個室に至っては、そういった張り紙すらない。マレーシアは全体的に英語を理解する人が多いし、住民の3割の中国系は漢字を理解する。日本時代の英語併記の漢字表記で特に問題はない。個室寝台の中の装備もほぼ同じで、ごみ箱が据え付けられていないのと、寝具がマレー鉄道仕様となり、マットレス付となっているのが僅かな違いである。洗面台がきちんとメンテナンスされているかどうかが気になったが、開けてみると石鹸が用意されていた。
 10時30分、列車は静かにジョホールバル駅を動き出した。この列車は急行列車であるが、都市近郊の小駅にも停車しながら客を拾っていく。11時10分ごろのKULAIの写真が残っている。眠りについたのはここを出て少しあとだろうか・・・。
心配をよそに、きちんと掃除されていた洗面台

深夜の小駅にて

 列車内と言う事もあり、私の眠りはそれほど深くない。時々目が覚めて、藪のようなジャングルの中を走っている様子を見た記憶が残っている。12時〜5時頃の記憶はないからその間は熟睡していたのだろうが、それ以降はどこを走っているのかが気になる。朝6時、列車はどこかに停車、予定では下車する駅の一つ前、KUALA LIPISであるが実際のところは良く分らない。もうひと眠りして、7時30分、下車予定のGUA MUSANG駅は8時半だから、そろそろ起きだして身支度しても良いだろう。
朝7時半ごろの車窓

朝8時ころ、列車はクアラ・リピスに到着、2時間近くの遅延

ホームの様子
  8時頃、列車は大きな町の駅に停車する。GUA MUSANGかと思ったが、見てみるとKUALA LIPIS、列車は約2時間遅れで走行していたようである。動き出す気配もないので、ちょっと空気を吸いに下車してみる。狭い待合室の脇に旅行会社、その先には、「ようこそ、クアラリピスへ」という看板があり、その先に商店街が広がっている。何だか、少々駅前が手狭な日本の田舎の駅のような感じである。何か買い物をしたかったが、ホームには売店はなく、駅員は「乗務員交代のため停車中、5分ほどで発車」という。5分ならもうすこし歩き回ろうか、とも一瞬考えたが、警戒して車両から顔を出すにとどめると、5分もせずに列車は動き出した・・・。
ジャングル(という名の藪)の中を走行中
同様の景色は外房線 蘇我〜鎌取間で体験可能

 街を出ると、列車は森の中、熱帯雨林=ジャングルなのだが、目の前を珍獣がうろうろしているわけでもなく、高校生の頃毎日乗っていた、外房線の蘇我〜鎌取間のような藪が広がっている(その頃は北海道の原生林みたいだなあ、とおもっていたが)。
 KUALA LIPISを出た時に気付いたのだが、この列車、ドアが手動である。しかも、大きな細工なしに、非常用ドアコックを開放するという方法で手動化している。手動ドアは、マレー鉄道の在来の客車も同様なのだが、それらが手動を前提に、カチッとしまる開き戸(イギリスの少し前の鉄道車両と同じである)を採用しているのに対し、こちらは折扉。カチッとしまらないので、開けっ放しの車両もある。もう一つ付け加えると、幌が随分劣化していて、人がすり抜けられそうな位の隙間も出来ている。結構なスピードで走行し、良く揺れるのでどうも危ない感じがする。デッキから身を乗り出して撮影、なんて事も一応可能だが、車両限界無視の木々がカメラや顔を直撃する上に、鉄橋等との隙間が20〜30センチしかない、小型カメラでの撮影位なら良いが、ビデオカメラなどで撮影しようとしたら命にかかわりそうな感じである。こちらはこの種の事をとやかく言わないが、自己責任である(まあ、大げさな機材を持ち込むと、インド系の職員などはガミガミ言いそうな感じであるが)。

走行中もドアは開けっ放し

これは車掌室脇の通路にある開閉可能な窓からとったものだが、ドアから身を乗り出しての写真撮影も可能・・・
 列車は1時間ほど走って、小駅の側線に進入し、停車した。MERAPOHとある。駅舎はあるがホームはない。折角の機会なので、降りて(線路へ飛び降りである)撮影とかをしていると、前方から普通列車がやってくる。完璧なローカル線の客車列車であるが、車両自体は、急行用車両と同一で、客車2両と電源車の代わりに工事現場で見かける大型のディーゼル発電機を搭載したフラットカーを連結していた。これを見送ると、列車は出発、車掌が現れて、次の停車駅がグアムサンだという。
メラポー駅

一応駅舎とレールより低い高さのホームらしきものもある

降りて写真撮影(まえの4両)

後ろ3両(14系座席車)

ちなみにドア下にドアコックがあり、これで開閉が可能
(改造ではなく、日本時代からの仕様の模様)
レールはかなり細くて結構揺れる

しばらく待っていると、2両編成の普通列車が現れた

エアコン付き車両で当然電源がいるのだが・・・
これが電源車らしい

 しばらく藪の中を走って9時40分ごろ、列車は終点グアムサン駅に到着した。先のクアラリピスでは結構長時間停車していたのに、ここではあっさりしていて、列車はさしたる休憩もなく、次の駅に向けて出発していった・・・。マレー鉄道海岸線の旅はひとまずこれで終わりである。

※1)ちなみに、石油への補助金でモータリゼーションを実現したマレーシアは、このまま石油の車依存を続けると、国内の石油枯渇で、海外の高価な石油に依存せざるを得なくなり、国家が破綻する・・・。このため、近年になって公共交通政策が非常に重視されるようになっている。政策の優先度という観点からいうと、国の7大目標の一つに公共交通改善が挙げられ、専門の管轄機関が設けられている(陸上公共交通は、2011年より首相官邸直轄の陸上公共交通庁が管轄するようになっている)マレーシアは世界の最先端を行っているが・・・、目標を実現に移す手段という面では色々課題が大きいのが現状である。
※2)そういえば、ブルトレ廃止で苛立った大学鉄研の若い鉄道ファンが、私の化身のような異国かぶれの鉄研OBに誘われて、鉄道全盛期のアメリカのような異国に連れて行かれる(お前は景麒か!という突っ込みはさておき)と言う十二国記もどきのファンタジー小説のネタを考えた事があった・・・。マレーシアは中国とインド、マレー文化が融合もせずに混在、あと英領時代の雰囲気もところどころに残っていて、料理選びや町歩きの仕方でどれを選ぶかが選択できたりもする。昔良く見た、「見慣れた街を少し歩くと突然異国」という夢がリアルに再現されていると言う点では、ファンタジックさを感じたりもする・・・。

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2012年8月28日作成