◎中西部 |
○レイクショアー電鉄(オハイオ州)
Lake Shore Electric Railway 1901-1938(最初の路線開業は1893年) ⇒総延長は300キロほどであるが、クリーブランド〜トレド(1901年開業)間は一部複線で毎時1本の特急が運行されるなど(速度は同区間190キロを4時間ほどで結んだというから中程度)オハイオ州内でもっとも高頻度な路線で経営状態も良く、デトロイト、リマなどへの直通列車も運行した。とはいえ、1930年代の大恐慌の影響は深刻で、1938年にはバス化されるに至っている。 |
○デトロイト・ユナイテッド電鉄(ミシガン州)
Detroit United Railway 1901-1932(最初の路線開業は1895年)
⇒1890年代に発展したデトロイト近辺の都市間電鉄網を買収、補完して形成された電鉄会社。デトロイト・モンロー・トレド鉄道の名で運営されたトレド〜デトロイト間が一番のメインラインで、他の鉄道とは立体交差、軌道は砕石バラストを敷き詰めた分厚いもので、90キロの同区間を特急列車は2時間で走行。レイクショアー電鉄と直通運転も行い、デトロイト〜クリーブランド間の特急列車が運行されていた。
600キロもの路線を保有していたのにも関わらず、この会社の消滅は早く、全ての路線が消滅したのは1932年の事である。デトロイトでの自動車生産の影響で自動車の普及が早かったことや、デトロイト〜トレド間以外はローカル線だった事、主要な収入源であるデトロイトの市内線が市営化されたことなどがその原因で、1920年代前半には早くも経営が行き詰まり、いくつもの所有者の間を転々としていた。末期にはオハイオ電鉄の後裔のシンシナチ・レイクエリー鉄道と連絡するデトロイト〜シンシナチ間の特急電車も運行されている。 |
○ミシガン・ユナイテッド電鉄(ミシガン州)
Michigan United Railway 1906-1929(最初の路線開業は1900年)
ミシガン州西部、北部の電鉄会社を統合して生まれた路線。第三軌条(建設費が高く、保守費用が安く、ポール集電に比べると高速運転に適していることから、高規格の鉄道路線向きと考えられる事があった。)で線形も良く、表定速度60キロで走行する特急列車も存在したが、沿線に大きな都市がなく、維持費用が高額だったために、第一次大戦終了後には経営が悪化、1929年には路線は完全消滅してしまった。 |
○オハイオ電鉄(オハイオ州)
Ohio Electric Railway 1907-1922(最初の路線開業は1890年代) ⇒路線延長最大の電鉄会社で1000キロを超える路線網を持っていた(これはパシフィック電鉄を上回る)。オハイオ州トレドからシンシナチまで300キロ近い長大路線を持っていた。しかし、財務基盤は貧弱で、1907年の成立後15年で倒産。その後各路線は分割され別会社として運営された。トレド〜シンシナチ間のうち、トレド〜スプリングフィールド間の路線廃止は1937年のことである。
オハイオ電鉄を構成する路線となった デイトン・スプリングフィールド・アーバナ電鉄
開業当時の写真
<出典:Street Railway Journal Jan. 1900, p279> |
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○シンシナチ・アンド・レイクエリー鉄道(オハイオ州)
Cincinnati and Lake Erie Railroad 1930-1941(オハイオ電鉄の路線を引き継ぐ)
⇒分割経営されていたオハイオ電鉄の路線の南北を縦貫する本線に相当するシンシナチ〜トレド間を再統合することにより生まれた電鉄会社。インスルと並ぶ電鉄業界の立役者であるトマス・コーンウェイ博士が中心となって設立された。この会社の特徴はインディアナ鉄道と同様の高性能車両の導入にあり、アルミニウム製、展望室付の「レッド・デヴィル」は試運転では150km/hを叩き出したという。長距離直通列車の運行も盛んで、シンシナチ〜トレド間350kmを6時間半で結ぶ特急電車(時期によって所要時間は変わる)や夜行電車(座席車のみ)の運行などが行われ、貨物輸送においてはコンテナの使用も試みられたが、すべての施策は時期を逸したものであり、1937年より路線廃止がはじめられ、1941年にすべての路線がバス化されている。
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○ウエスタン・オハイオ鉄道(オハイオ州)
Western Ohio Railway 1900-1932)
⇒リマを周辺に路線を展開し、1905年、他社と共同運行のかたちでトレド〜デイトン間の初めての直通電車を運転。しかし、1908年にオハイオ電鉄が別ルートでトレド〜デイトン間を結ぶと、軌道が貧弱であった同社は不利な立場にたたされたが、クリーブランド〜リマ間の直通列車運行などでは有利な立場を保ったようである。路線が完全に消滅したのは1932年のことである。 |
○テレホート・インディアナポリス東部電鉄(インディアナ州)
Terre Haute Indianapolis and Eastern Traction Company 1907-1931(最初の路線開業は1900年)
⇒インディアナ州南部を東西に結ぶ路線を有した。略号THI&E。オハイオ電鉄と共同で、走行距離400キロにも及ぶ電車特急を走らせたこともある。この会社も中西部の電鉄会社の例にもれず、あまり経営状態は良くなかった(1920年代には資本費用を除く運営費用で赤字を計上していた・・・)が、インディアナポリスを中心とした市街電車事業と電力事業の黒字で赤字を埋め、1931年のインディアナ鉄道による買収までほとんどの路線を廃止することなくその形態を維持していた。
THI&Eの株券 1930年に倒産している(らしい)ので無効と思われるが。 |
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○インディアナ・ユニオン電鉄(インディアナ州)
Union Traction Company of Indiana 1897-1930(最初の路線開業は1893年) ⇒インディアナ州の代表的な電鉄会社。やはり経営状態は悪く、1925年には倒産。しかし、そんな中でも、木造車を鋼製化するなどの積極的な経営改善が行われ、1930年のインディアナ鉄道買収の前夜まで全ての路線を維持していた。(インディアナ州)
インディナア・ユニオン電鉄の鋼製車
<出典:Electric Railway Journal Sptember. 27, 1913, p498>
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○インターステート・パブリックサービス
Interstate Public Service Company 1912-1931(最初の路線開業は1890年代)
⇒インディアナポリス〜ルイビル間を経営、寝台車を運行。この会社は1912年にサミュエル・インスルの支配下に入り、1931年にはそのままインディアナ鉄道のシステムに吸収された。
インディアナポリス〜ルイビル間の電車
<出典:Street Railway Journal Jan. 4, 1908, p5>
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○インディアナ鉄道(インディアナ州)
Indiana Railroad System 1930-1941 (インディアナ州の主要な電鉄会社の買収により誕生) ⇒1930年代に、エジソンの秘書であったサミュエル・インスルが、上述の会社を中心としたインディアナ州の主要な電鉄会社を買収、統合して誕生。インスルは、シカゴの高架鉄道と、ノースショアー線、サウスショアー線の近代化に成功した実績を持ち、同様の施策(軌道と電力設備の強化、高速車両の導入)でインディアナ州の都市間電車の再生を目指したのであるが、その試みは挫折。改良は若干の軽量高速車両が導入されるに留まるが、それなりのスピードアップは行われ、軽量高速車両による各駅停車はかつての特急電車よりも高速で各都市を結んでいた。経営は一貫して赤字で、電力事業との兼業も難しくなった事などから、10年で路線は消滅する。
インディアナ鉄道の路線図
直後にTHI&Eを路線網に組み入れ、最盛期を迎えることになる
<出典:Electric Railway Journal March, 1931, p142> |
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○イリノイ電鉄
Illinois Traction Company→Illinois Terminal Railroad(1928改称) 1904-1956(最初の路線開業は1901年)
⇒セントルイスを拠点に路線を展開。貨物輸送で成功し1950年代まで旅客列車を運行。セントルイスに巨大な地下ヤードを持っていた。アメリカで唯一夜行運用に寝台電車が入った会社。
後にイリノイ州選出の上院議員として有名になる実業家ウィリアム・ブラウン・マッキンレー(25代大統領ウィリアム・マッキンレーは別人)が設立。しかし、彼はイリノイ州内の自社路線をミシシッピ川対岸のセントルイスに延伸させるために巨大な専用橋を建設。これが会社の経営を傾かせる原因となった。その後、マッキンレーは政治家に転向、1920年代に会社は貨物輸送を強化し、普通鉄道に貸し出した専用貨車が行方不明になるなど辛酸をなめた末に蒸気鉄道(普通鉄道)との連絡貨物輸送に成功する。旅客輸送が1956年に終了した後も貨物輸送は続けられるが、架線は取り外され、会社も普通鉄道11社の連合体に売却されてしまった。
イリノイ電鉄がセントルイスに建設した巨大鉄道橋。
インターアーバンの架橋としては最大規模で会社の経営を傾かせる要因となった。
<出典:Electric Railway Journal Jan. 11, 1912, p138> |
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