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5.インターアーバン路線概要
インターアーバン発達度マップ
東部−中西部広域路線図はこちら

<目次>

東部 中西部 シカゴ周辺

南部 西部・西海岸 カナダ その他



◎東部
○コネティカット・カンパニー(コネティカット州)
The Conneticut Company 1907-1937 (ニューへブン市内の路面電車路線は第二次世界大戦後まで残存)
  ⇒ニューイングランド最大の電鉄会社の一つで、1907年にニューへブン鉄道がコネティカット州の路面電車会社を統合したことで誕生した会社である。路線のほとんどは都市の路面電車とルーラルトロリーであるが、専用軌道区間も一部存在したと伝えられている。
○フィラデルフィア・アンド・ウエストチェスター鉄道 
Philadelphia and West Chester Railway 1899-1936
フィラデルフィア・ウェスタン鉄道
Philadelphia and Western Railroad 1907-1953
⇒フィラデルフィア・サブアーバントランスポート(ペンシルベニア州)
Philadelphia Suburban Transport 1936-1969 (この時公営化。SEPTAに吸収される。)

  ⇒フィラデルフィアで郊外電車網を展開していた会社(但し、現在のSEPTAの郊外電車の多くは元蒸気鉄道のレディング鉄道の電車線で、この会社のものではない)。有名なノリスタウン線(第三軌条、全線専用軌道の高速電車線)はフィラデルフィア・ウェスタン鉄道として誕生、1953年にフィラデルフィア・サブアーバントランスポートに吸収されるが路線は現在まで生き残り、SEPTAの郊外路線の一員として活躍。但し、この路線がインターアーバンとみなされた主要な理由はノリスタウンでリーハイ渓谷電鉄と接続し併用軌道を有すアレンタウンまでの路線を持っていたからで、1951年にリーハイ渓谷電鉄が廃止になってからは、インターアーバンらしさは失われている。
フィラデルフィア・アンド・ウェストチェスター鉄道は、フィラデルフィアとミディア、ウェストチェスター等を結んだ鉄道会社で、車体色から「レッド・アロー」という愛称がつけられていた。ウェストチェスターへ向かう路線は道路わきを大型電車が行き交うというインターアーバン独特の光景を1940年代まで残していたが、1954年に廃止された。ミディアに向かう路線は現存しており、軌道や駅施設はインターアーバンを髣髴とさせるものであるが、その位置付けは当初から郊外電車的なものである。

SEPTA101系統(69thターミナル〜ミディア:旧フィラデルフィア・アンドウェストチェスター鉄道)
の様子
○パブリックサービス・コーポレーション・ニュージャージー(ニュージャージー州)
Public Service Corporation of New Jersey 1899-1937 (路面電車路線は現存)
  ⇒ニューヨークの対岸のジャージーシティからトレントン経由でフィラデルフィアの対岸のカムデンまで路線を展開。しかし、同区間に9時間近くを要し、都市間電車としては話にならず、1913年に高速新線を建設、しかし、高速新線区間でも表定速度は30キロ程度に過ぎなかった。
  都市間電車事業ではうまくいかなかったものの、会社はニュージャージー州各地の路面電車運行と、ガス・電力の配給事業で発展、ニューアークにはパシフィック電鉄のターミナルと並び賞される巨大なターミナルを保有し、1930年には2000台のバスを保有する最大のバス事業者の一つで、ニューヨーク〜フィラデルフィア間でデラックス都市間バスを運行していたという。路面電車路線は1940年代以降その多くが廃止されるが、ニューアークとジャージーシティでは残存、バス路線とともに公営化され、ニュージャージ・トランジットとして健在である(なおこの事業者の鉄道部門、一時期コンレールが保有していた倒産した蒸気鉄道会社の都市圏通勤輸送サービスを引き継いだものである)。電力部門は交通部門とは切り離され
Public Service Enterprise Group として健在。
○ワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄(メリーランド州)
Washington Baltimore and Annapolis Electric Railway 1908-1935
  ⇒東部一の設備を誇った。ペンシルベニア鉄道と競合するワシントン・ボルチモア間を表定60キロで結ぶために、30分おきに運行される特急電車の専用軌道区間の平均速度は100キロに達したという。1908年に交流6600ボルト電化で開業するが、交流電車は重くてスピードが出ず、暗渠集電のため軌道構造の弱いワシントン市内の併用軌道区間に乗り入れることができず(インターアーバンの交流電車は交流整流子電動機を用いていたため、車体重量に耐えることができれば直流区間を走行することも可能であった)、このデメリットから1910年には早くも直流(1200ボルト)へ電化方式を変更している。この路線の収益はかなりのものであったらしいが、1930年代の恐慌の影響も甚大で、結果1935年に路線廃止となった。


ボルチモアのターミナルに停車中のワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄の連接電車
<出典:Electric Railway Journal Aug. 27, 1927, p345>
○ウエストペン鉄道(ペンシルベニア州)
West Penn Railways 1899-1952
  ⇒ピッツバーグ周辺で活躍。路面電車然とした運行形態・車両であったが、100パーミルを超える超急勾配区間が存在したらしい。
↑中西部電鉄会社別路線図(2003年12月10日作成 2005年7月13日修正)
◎中西部
○レイクショアー電鉄(オハイオ州)
Lake Shore Electric Railway 1901-1938(最初の路線開業は1893年)
 ⇒総延長は300キロほどであるが、クリーブランド〜トレド(1901年開業)間は一部複線で毎時1本の特急が運行されるなど(速度は同区間190キロを4時間ほどで結んだというから中程度)オハイオ州内でもっとも高頻度な路線で経営状態も良く、デトロイト、リマなどへの直通列車も運行した。とはいえ、1930年代の大恐慌の影響は深刻で、1938年にはバス化されるに至っている。
○デトロイト・ユナイテッド電鉄(ミシガン州)
Detroit United Railway 1901-1932(最初の路線開業は1895年)
  ⇒1890年代に発展したデトロイト近辺の都市間電鉄網を買収、補完して形成された電鉄会社。デトロイト・モンロー・トレド鉄道の名で運営されたトレド〜デトロイト間が一番のメインラインで、他の鉄道とは立体交差、軌道は砕石バラストを敷き詰めた分厚いもので、90キロの同区間を特急列車は2時間で走行。レイクショアー電鉄と直通運転も行い、デトロイト〜クリーブランド間の特急列車が運行されていた。
  600キロもの路線を保有していたのにも関わらず、この会社の消滅は早く、全ての路線が消滅したのは1932年の事である。デトロイトでの自動車生産の影響で自動車の普及が早かったことや、デトロイト〜トレド間以外はローカル線だった事、主要な収入源であるデトロイトの市内線が市営化されたことなどがその原因で、1920年代前半には早くも経営が行き詰まり、いくつもの所有者の間を転々としていた。末期にはオハイオ電鉄の後裔のシンシナチ・レイクエリー鉄道と連絡するデトロイト〜シンシナチ間の特急電車も運行されている。
○ミシガン・ユナイテッド電鉄(ミシガン州)
Michigan United Railway 1906-1929(最初の路線開業は1900年)
  ミシガン州西部、北部の電鉄会社を統合して生まれた路線。第三軌条(建設費が高く、保守費用が安く、ポール集電に比べると高速運転に適していることから、高規格の鉄道路線向きと考えられる事があった。)で線形も良く、表定速度60キロで走行する特急列車も存在したが、沿線に大きな都市がなく、維持費用が高額だったために、第一次大戦終了後には経営が悪化、1929年には路線は完全消滅してしまった。
○オハイオ電鉄(オハイオ州)
Ohio Electric Railway 1907-1922(最初の路線開業は1890年代)
  ⇒路線延長最大の電鉄会社で1000キロを超える路線網を持っていた(これはパシフィック電鉄を上回る)。オハイオ州トレドからシンシナチまで300キロ近い長大路線を持っていた。しかし、財務基盤は貧弱で、1907年の成立後15年で倒産。その後各路線は分割され別会社として運営された。トレド〜シンシナチ間のうち、トレド〜スプリングフィールド間の路線廃止は1937年のことである。


オハイオ電鉄を構成する路線となった デイトン・スプリングフィールド・アーバナ電鉄
開業当時の写真
<出典:Street Railway Journal Jan. 1900, p279>
○シンシナチ・アンド・レイクエリー鉄道(オハイオ州)
Cincinnati and Lake Erie Railroad 1930-1941(オハイオ電鉄の路線を引き継ぐ)
  ⇒分割経営されていたオハイオ電鉄の路線の南北を縦貫する本線に相当するシンシナチ〜トレド間を再統合することにより生まれた電鉄会社。インスルと並ぶ電鉄業界の立役者であるトマス・コーンウェイ博士が中心となって設立された。この会社の特徴はインディアナ鉄道と同様の高性能車両の導入にあり、アルミニウム製、展望室付の「レッド・デヴィル」は試運転では150km/hを叩き出したという。長距離直通列車の運行も盛んで、シンシナチ〜トレド間350kmを6時間半で結ぶ特急電車(時期によって所要時間は変わる)や夜行電車(座席車のみ)の運行などが行われ、貨物輸送においてはコンテナの使用も試みられたが、すべての施策は時期を逸したものであり、1937年より路線廃止がはじめられ、1941年にすべての路線がバス化されている。
○ウエスタン・オハイオ鉄道(オハイオ州)
Western Ohio Railway 1900-1932)
  ⇒リマを周辺に路線を展開し、1905年、他社と共同運行のかたちでトレド〜デイトン間の初めての直通電車を運転。しかし、1908年にオハイオ電鉄が別ルートでトレド〜デイトン間を結ぶと、軌道が貧弱であった同社は不利な立場にたたされたが、クリーブランド〜リマ間の直通列車運行などでは有利な立場を保ったようである。路線が完全に消滅したのは1932年のことである。
○テレホート・インディアナポリス東部電鉄(インディアナ州)
Terre Haute Indianapolis and Eastern Traction Company 1907-1931(最初の路線開業は1900年)
  ⇒インディアナ州南部を東西に結ぶ路線を有した。略号THI&E。オハイオ電鉄と共同で、走行距離400キロにも及ぶ電車特急を走らせたこともある。この会社も中西部の電鉄会社の例にもれず、あまり経営状態は良くなかった(1920年代には資本費用を除く運営費用で赤字を計上していた・・・)が、インディアナポリスを中心とした市街電車事業と電力事業の黒字で赤字を埋め、1931年のインディアナ鉄道による買収までほとんどの路線を廃止することなくその形態を維持していた。

THI&Eの株券 1930年に倒産している(らしい)ので無効と思われるが。

○インディアナ・ユニオン電鉄(インディアナ州)
Union Traction Company of Indiana 1897-1930(最初の路線開業は1893年)
 ⇒インディアナ州の代表的な電鉄会社。やはり経営状態は悪く、1925年には倒産。しかし、そんな中でも、木造車を鋼製化するなどの積極的な経営改善が行われ、1930年のインディアナ鉄道買収の前夜まで全ての路線を維持していた。(インディアナ州)


インディナア・ユニオン電鉄の鋼製車
<出典:Electric Railway Journal Sptember. 27, 1913, p498>
○インターステート・パブリックサービス
Interstate Public Service Company 1912-1931(最初の路線開業は1890年代)
 ⇒インディアナポリス〜ルイビル間を経営、寝台車を運行。この会社は1912年にサミュエル・インスルの支配下に入り、1931年にはそのままインディアナ鉄道のシステムに吸収された。


インディアナポリス〜ルイビル間の電車
<出典:Street Railway Journal Jan. 4, 1908, p5>

○インディアナ鉄道(インディアナ州)
Indiana Railroad System 1930-1941 (インディアナ州の主要な電鉄会社の買収により誕生)
 ⇒1930年代に、エジソンの秘書であったサミュエル・インスルが、上述の会社を中心としたインディアナ州の主要な電鉄会社を買収、統合して誕生。インスルは、シカゴの高架鉄道と、ノースショアー線、サウスショアー線の近代化に成功した実績を持ち、同様の施策(軌道と電力設備の強化、高速車両の導入)でインディアナ州の都市間電車の再生を目指したのであるが、その試みは挫折。改良は若干の軽量高速車両が導入されるに留まるが、それなりのスピードアップは行われ、軽量高速車両による各駅停車はかつての特急電車よりも高速で各都市を結んでいた。経営は一貫して赤字で、電力事業との兼業も難しくなった事などから、10年で路線は消滅する。

インディアナ鉄道の路線図
直後にTHI&Eを路線網に組み入れ、最盛期を迎えることになる
<出典:Electric Railway Journal March, 1931, p142>
○イリノイ電鉄
Illinois Traction Company→Illinois Terminal Railroad(1928改称) 1904-1956(最初の路線開業は1901年)
 ⇒セントルイスを拠点に路線を展開。貨物輸送で成功し1950年代まで旅客列車を運行。セントルイスに巨大な地下ヤードを持っていた。アメリカで唯一夜行運用に寝台電車が入った会社。
  後にイリノイ州選出の上院議員として有名になる実業家ウィリアム・ブラウン・マッキンレー(25代大統領ウィリアム・マッキンレーは別人)が設立。しかし、彼はイリノイ州内の自社路線をミシシッピ川対岸のセントルイスに延伸させるために巨大な専用橋を建設。これが会社の経営を傾かせる原因となった。その後、マッキンレーは政治家に転向、1920年代に会社は貨物輸送を強化し、普通鉄道に貸し出した専用貨車が行方不明になるなど辛酸をなめた末に蒸気鉄道(普通鉄道)との連絡貨物輸送に成功する。旅客輸送が1956年に終了した後も貨物輸送は続けられるが、架線は取り外され、会社も普通鉄道11社の連合体に売却されてしまった。
イリノイ電鉄がセントルイスに建設した巨大鉄道橋。
インターアーバンの架橋としては最大規模で会社の経営を傾かせる要因となった。
<出典:Electric Railway Journal Jan. 11, 1912, p138>

◎シカゴ周辺
○シカゴ・サウスショアー・サウスベント鉄道(サウスショアー線)
○シカゴ・オーロラ・エルジン鉄道(オーロラ・エルジン線)
 ⇒第三軌条式のインターアーバン。シカゴの通勤路線として発展したが、廃止のいきさつはかなり悲劇的である。比較的人口の多い地域にあり、全線専用軌道で第三軌条、高架鉄道を介してシカゴに乗り入れられたのは良かったのだが、バーリントン鉄道、ミルウォーキー鉄道、シカゴ・ノースウェスタン鉄道の通勤輸送サービスと競合して第二次世界大戦後は経営が大幅に悪化していた。廃止の直接のきっかけは、高架鉄道路線が改修のために迂回運行をおこなう事になった事。オーロラ・エルジン線の車両の迂回路線への乗り入れは不可能で、シカゴ郊外での乗り換えを強いられる事になったから、旅客は激減。自転車操業も立ち行かなくなり、1957年のある日の午後、突然運行は取りやめになってしまった。
○シカゴ・ノースショアー・ミルウォーキー鉄道(ノースショアー線)
○ミルウォーキー電鉄
The Milwaukee Electric Railway and light Company 1895-1951 (市街電車は1890-195*)
  ⇒ウィスコンシン州の中心都市ミルウォーキーから放射状に路線を展開した電鉄会社で馬車鉄道を起源に持つ。ミルウォーキー市が併用軌道を嫌ったために、専用軌道化が精力的に進められ、アメリカのインターアーバンとしては珍しく専用軌道による都市中心部乗り入れを実現、中心部の軌道は複線に1線を加えた3線であった。子会社によるバス運行も熱心で、日本の大都市の電鉄会社のような発展を遂げた。
  こういった経緯から、廃止が本格的になったのは1940年代のこと。郊外部分に関してはバスによる輸送が有望視されたのと、黒字であった配電部門が公益事業規制により赤字の電鉄部門を切り離さざるを得なくなってしまったからである。それでもミルウォーキー近辺に関しては存続が期待され、ミルウォーキー高速鉄道が1949年に設立、経営が移管されたたが、1950年に鉄道ファンを乗せた貸切列車が衝突事故を起こし、10人が死亡。補償問題で経営は悪化し、安全性も疑問視され、旅客営業は1951年に廃止されてしまった。


ミルウォーキー電鉄、ウォータータウン線に導入された食堂車
<出典:Electric Railway Journal Mar. 3, 1928, p353>
テキサス州のインターアーバン路線
◎南部
○テキサス電鉄(テキサス州)
  ⇒テキサス州ダラスから南北に伸びる路線(ダラス〜ウェーコ、ダラス〜デニソン)を経営。路線長350キロは、中西部やカリフォルニアを除くと最大の規模で、鋼製車を用い比較的高速運転を行っていたのが特徴である。沿線にはさしたる大都市もなかったが経営は1920年代は比較的順調、さすがに30年代には悪化するが、第二次世界大戦中には再び黒字を経験している。もっとも第二次世界大戦後は急激に経営が悪化し、衝突事故で死者を出した事もあり1948年に廃止された。


テキサス電鉄のダラス〜デニソン間の前身、テキサス・トラクションの開業当時(1908年)の車両
<出典:Electric Railway Journal Aug. 1, 1908, p381>
○ノーザンテキサス電鉄(ノーザン・テキサス・トラクション テキサス州)
  ⇒延長50キロほどであるが、ダラス〜フォートワースを結んでいた事が大きな特徴。全距離の約半分が複線で高頻度運行を行っていた。テキサス電鉄などに比べると有利な立場にあったにもかかわらず、不況と自動車の影響を大きく受け、1934年に廃止となる。
○テキサス・インターアーバン鉄道(テキサス州)
  ⇒やはりダラスを中心に路線(2路線)を展開した会社。総延長は100キロほどで中西部の小規模インターアーバンのような形態だが、特筆すべきは開業年度。すでに自動車の進出が進んでいた1923年から1924年に建設が行われたのである。結んだ都市は人口一万人程度と極めて小規模で、ダラスの路面電車事業の免許維持のための建設だったとも言われている。採算の取れる見込みはなく、路面電車然とした車両がしばらく走行した後、路線は1931年に廃止されている。

◎西部・西海岸
○バンバーガー鉄道(ユタ州)
  ⇒ユタ州のソルトレイクシティとオグデンを結んだ電鉄会社、同区間を1908年に開業させる。比較的高頻度(1時間おき)の運行を続け、1952年まで旅客営業を行った。
○オレゴン電鉄(オレゴン州)
  ポートランドとユージーンの間、約200キロを結んだ会社。人口希薄で、全線を直通する列車は1日4〜5往復であったが、展望室付パーラー車や寝台車の運行を行った。早くからバスや自動車との競争に脅かされ、1932年までに全ての路線の旅客営業を廃止している。
○サクラメント・ノーザン鉄道
 ⇒サンフランシスコの対岸オークランドとカリフォルニア州の首都サクラメント、そしてその北部を連絡した電鉄会社。末期にはベイブリッジを利用してサンフランシスコに乗り入れている。
 この会社の特徴は、支線がほとんどないものの、本線の延長が300キロあったこと、途中サスーン(suisun)湾というところでは架線付きの車両積載設備をもった連絡船で連絡を行っていたことなどである。全線を直通する列車は少数だったものの、最高速度112キロという比較的高速な運転を行っていた。1910年ごろのオークランド−サクラメント間では、サザンパシフィック鉄道(ユニオンパシフィック鉄道−シカゴノースウエスタン鉄道直通)のオークランド−シカゴ直通特急「オーバーランド・リミテッド(大陸横断特急)」より早かったというどっかで聞いたようなエピソードを持っていた。


オークランド(サンフランシスコ対岸)東部の丘陵地帯を走行するサクラメント・ノーザン鉄道の電車
<出典:Electric Railway Journal Oct. 14, 1913, p610>
○パシフィック電鉄
  自称「世界最大の電気鉄道」、実際には軌道延長が世界最大で、車両や経営規模は近郊電車をメインに運営する会社の中でアメリカ最大といったところ。
  南カリフォルニアの各都市を結ぶインターアーバンとして建設されたが、ロサンゼルス市の成長と共にロサンゼルス市の近郊電車網に変貌する。電鉄網の構築とともに都市が発展した点、輸送需要や線路の規格で路面電車と都市高速鉄道の中間の形態を有していた点、一部路線で複線区間における各駅停車の追い越し運転が行われていた点、まとまりすぎず、雑多すぎない車両の形式区分などが、後の日本の私鉄に類似している。
  アメリカの都市間電車の投資の1割はパシフィック電鉄に対するものであったが、インターアーバンとしては過大であっても都市鉄道へ投資としては不十分で、混雑や自動車化による都心の衰退など様々な問題の原因となった。

◎カナダ
 広範な都市間連絡という面ではアメリカ合衆国に劣るが、比較的高規格の設備をもつ路線が多く、鋼製車両の導入も盛んであった。一部の路線がグランド・トランク鉄道などの支配下にあった影響でカナダ国鉄(現在民営化されCanadian National Railway Company /Compagnie des chemins de fer nationaux du Canadaとなっている)に買収されている。国有化された事で、経営面ではある程度有利となったが、旧態依然の設備のまま放置されるケースもあったらしく、このあたりは日本の買収国電とも似たところ。一部の近郊路線を除いて1960年までに消滅している。
◎その他の国々
  ハーシェイ社がキューバにインターアーバンを建設した事は有名。現在でもキューバ国鉄の一路線として存続し、往時の車両が一部使用されている。オーストラリアにも同種のシステムが残存していると言われている。
  戦前の日本の電鉄のうち、蒸気運転から始まった東武、西武、南海(南海線)などを除いた大手の各路線はインターアーバンの情報を元に建設されたものである。しかし、アメリカで見られたような壮大な路線網の展開は見られず、郊外電車とのサービスの違いなどを問われた場合の厳密な区別は難しい。逆に、日本の大手私鉄の兼業は日本の鉄道の独自の経営システムともてはやされるが、電気鉄道の建設と不動産業・配電事業などとの兼業はアメリカでも普通に見られた。
  オランダでは国中に路面電車網が展開されていたが、スケフェニンゲン〜ハーグ〜ロッテルダム(ホルプヘイム)間を結ぶ1909年に建設された路線は、高規格路線でインターアーバンの範疇にはいるものに近い。現在でもオランダ国鉄の支線として残されていて(ヨーロッパ旅行に行ったときに間違えて乗ってしまった)、LRT化が予定されている。ドイツにも同種の路線が存在した


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<ページの履歴(著者備忘メモ)>

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